本作品は、2019年6月発行『旅とパレード』のオマケ冊子として無料配布した掌編を、そのままWEB再録したものです。 TLJ時点での情報、ストーリーに基づいて書かれた作品です。 また、『旅とパレード』を通して読んだあとでないと、少々意味がわかりづらい可能性がございます。レンもハックスも直接的には登場しません。 以上をご了承下さいませ。 頒布から一年半以上が経過したため、このたび公開に踏み切りました。 楽しんで頂ければ幸いです。
※本作品は、『旅とパレード』読了後にお読み頂くことを推奨します。
年に一度、トトの主人は、トトを伴ってこの星を訪れる。
目的が何であるか、トトは知らない。
ただ、切り立った崖と海を擁する広大な原野が、トトはことのほか気に入っていた。
今では時代遅れも甚だしい、宇宙船を使った星間移動に、ただの愛玩動物であるトトを主人が苦労して同行させてくれるのは、ひとえにトトが喜ぶからだ。
辺鄙な場所に建つ宇宙港に船が降り立ち、搭乗口が開くや否や、トトは四本のみじかい脚をできるかぎり速く動かして、年代物のタラップを駆け下りていく。
巨大な鼠と見間違えられることも多いヌーコイプスだが、走る姿はむしろ短足の犬に似ている。
長くしなやかな尻尾をなびかせて走るトトのまん丸いシルエットは、まるで黒い毛玉が転がっていくようだった。
主人は、トトの後から、のんびりと下りてくる。
トトが離れ過ぎると「チィ、チィ」と舌を鳴らして呼ぶ。
そのたびにトトは立ち止まり、振り返って主人が近づくのを待つ。すぐ傍までやってきた主人の「ホイ」という掛け声で、再び走り出す。
一人と一匹は、草の生い茂る急峻な斜面を登っていった。
*
目的の場所にたどり着くと、主人はひゅうと口笛を吹いて知らせる。そして背負った袋から敷物を取り出してどっかりと座り込み、半日ほど居座るのが常だった。
トトはきゅいきゅいと鳴きながら、主人の傍らをうろうろ歩き回り、自分も落ち着ける場所を探す。
辺り一帯には、かつて大きな石造りの建造物があったらしい。けれど、度重なる戦争によって、今やこの地には寂れた荒野しかない。
切り立った崖のすぐ下には海が広がっており、時おり、ひんやりした潮風が吹き抜けていく。
トトがまだほんの子どもだった頃にはチラホラといた、短足で騒がしい鳥たちの姿も、近頃はめっきり見なくなった。
それでも、耳を澄ませば、深く裂けた崖のさらにその下に、とたとたと不器用に歩く音が聞こえた。
人懐っこく、どこにでも入り込んでは巣を作る彼らも、いずれは消えゆく種であることを、トトは本能として知っていた。
トトの丸くて平らな鼻は、柔らかい土の匂いを嗅ぐ。
黒い鼻面が、群生するヒエゼリカの下生えをかき分けると、小さな虫たちがわらわらと逃げ出していく。
ヌーコイプス種は、優れた嗅覚と聴覚を備えている。
一説によれば、その鋭敏さは人知を超越しており、時空すら超えて記憶を聴き、嗅ぎ当てるとも言われているほどだ。
実際、いまトトの鼻は、土の下の、さらに奥深くに堆積する記憶を嗅ぎ取っていた。
土に染みついた、ある信仰にまつわる記憶だ。
かつて、ひとつの信仰が生まれた。
信仰は、多くの血を流した。
山と積まれた屍が、大地に葬られた。
いつしか星は、弔いと祈りの地となった。
眠る死者たちの見る夢を、ごわごわの毛で覆われたトトの濡れた鼻は嗅ぎ取る。
死の瞬間に吐き出されたかぼそい吐息を、ちょこんと折れ曲がったトトの三角耳は聴く。
祈りに惹かれるように、ある日、類い稀な力を持つ隠者が、この地を訪れた。
隠者はここに棲み着き、彼と似た魂たちを引き寄せた。
最後の戦いに身を投じ、彼はこの場所で死んだ。
最期に見上げた空に浮かんでいたのは、故郷と同じ、大きな夕陽だった。
折り重なった旧い記憶の数々を、トトは嗅ぎ当てる。
この地で最後の住人は、あまりにも強大な力に翻弄された孤独な男だった。
彼は、共犯者であった高慢な男とともに、罪人としてここに追放された。
力を奪われ、ただの墓守となった二人は、しかし失うことでようやく満たされた。
二人が共に暮らした日々で得た平穏は、美しかった。
夜ごとの潮騒。
朝陽に向けて開かれる、窓の軋む音。
あたたかな夕餉の食卓で交わされる、ひそやかな微笑み。
カチャカチャと鳴る食器。
湯気を立てるスープの匂い。
初めて知る、互いの歌声。
静謐な幸福のうちに、二人は朽ちた。
その暮らしの残響を、トトは聴き、嗅ぐ。
二人が世を去り、時は過ぎた。
大きな争いや、小さな争いが、数えきれぬほど起きた。
同じ過ちが繰り返され、だが繰り返されるごとに、世界は弱くなり、拡散していった。
次第に、この場所は忘れ去られた。
気の遠くなるような時間をかけて紡がれる物語。
そのすべてを、トトは聴き、嗅ぐことができた。
けれど今、それはトトにとって、文字どおり鼻先を掠める一瞬のノイズでしかない。
トトが全身全霊をこめて感じ取ろうとしているもの。
それは、幾百年も変わらずこの地に降り注ぐ、陽光だ。
世界の秘密を抱え、海から吹き寄せる潮風だ。
しずかな歓びの吐息や、消えかけた、けれどもたしかに存在した、日々の記憶だ。
古い土に蓄えられた、揺るぎない命そのものを、トトは懸命に探り当てようとしていた。
*
長い時間をかけ、トトの鼻はようやく、ひときわ暖かな箇所を見つけ出した。
陽の光を豊かに吸い込んだ、柔らかい砂地だ。
きわめて具合のいい場所に、まんまと身を横たえることに成功し、トトは満足げに鼻を鳴らす。
投げ出した前脚のあいだに顔を伏せる。
ちらりと主人に目をやると、主人は彼方を見つめたまま、低い声で歌っていた。
祈りの歌だ。
トトは、この歌がとても好きだった。
トトは目を閉じる。
やさしい微睡みの訪れに、身を委ねる。
眠りに落ちる直前、トトはおぼろげな囁きを聞いた。
幽かな二つの声が、熱心に何事かを話し込んでいる。
内容は聞き取れないが、どうやらトトのことを話しているらしかった。
ひそひそ話は、しばらくのあいだ風の隙間に潜んでいたが、やがてさやめく草たちのあいだに紛れ、いつの間にか消えてしまった。
それが、寝入りばなに見たトトの夢だったのか、主人が大地と交わす会話の一部だったのか、あるいは星の有する旧い記憶の谺なのか。
トトにはわからない。
トトには、どうでもいいことだ。
けれど、その囁きは親密で、愉しげで、トトはなんだか満ち足りた気持ちになる。
安心しきったトトは、あっという間に眠りに落ちた。
*
主人とヌーコイプスを包む柔らかな陽だまりを、冷たい潮風が吹き抜けていく。
抜けるような青空が、頭上に広がる。
愛した者の墓前で、墓守が最期に見上げたのと、同じ青空だった。
ひだまり ~『旅とパレード』オマケ本 2019年5月31日 第1刷発行 作 者………紙丑ルイ 発行者………紙丑ルイ 発行所………書肆紙丑堂 (http://kamiushidou.starfree.jp/) ※本書の無断複製、転用、転売、販売を禁じます。 NOT FOR SALE