黄金の子ら

 あるはずのない記憶というものを、ひとは誰しもひとつくらいは持っているのだろうか。
 大通りと平行する狭い路地を足早に通り抜けながら、ぼんやりそんなことを考えていた。
 兄がいた──ようにおもう。
 むろん、記憶違いだ。生まれてこの方、きょうだいが居たことなどない。
 だからこれはまちがった記憶なのだと、今では正確に理解している。
 たった一度だけ、そのあやふやなを記憶を人前で口にしてしまったことがある。まだほんの幼子だった頃の話だ。
 調香師から贈られたばかりの、大きな植木の鉢を皆で囲んでいた。あれは、お茶の時間だったように思う。
 母の膝に座り見上げた窓からは、青く澄みきった空が見えた。はるかに聳える黄金樹の巨躯は力強く、輝きはまばゆく、まともに見つめれば目を灼かれそうなほどだった。そよぐ風が、小姓の奏でる笛の音を運んでくる。美しい午後だった。
 母が砂糖菓子をひとつ抓んで手渡してくれた。手の中に落とされたそれは、宝石のようにきらきらと輝いて見えた。なぜそのようなことを口走ったのかは判らない。ただ、壊れものを扱う手つきでうっとりと口に運ぼうとして、ふと、
 ──にいさまには、あげないの。
 と訊ねたのだった。
 その場が静まりかえった。
 色を失った母の白い顔。血相を変えて駆け寄ってくる乳母。すばやく面を伏せた使用人たちの肩が、緊張なのか怯えのためか、ひどく震えていた。
 異様な沈黙に凍りついた黄金の午後。その風景を忘れることができない。何か触れてはならない禁忌にふれたのだと、幼心に本能的に悟った。
 以来、兄の存在について語ることは止めた。


 新たに神人が選ばれるかもしれないという噂のせいか、近ごろの都には張りつめた空気が漂っている。大通りを筆頭に、街中で見かける衛兵の数が目に見えて増えた。
 偉大なるゴッドフレイが南方を平定してから永い時が経った。もはやこの地に大樹の威光が届かぬ場所など存在しなくなったというのに、何をそんなに警戒する必要があるのだろう、と不思議に思う。それでなくともローデイルは分厚い城壁、深い堀、歴戦の騎士たちに守護されている。こんなふうに兵士を増やされては、四六時中監視されているようで、なんだか窮屈だった。そして、そんなふうに感じることを後ろめたく思った。
 


 お前は神経の細い子だ。
 そう言われて育った。
 些細なことに怯え、苛立ち、泣き叫ぶこともしばしばあった。邸のいたるところには、めずらしい花の苗だの、植物の鉢植えだのが置かれていた。てっきり他の家もそうなのだと思っていたが、あれらは昂ぶった神経を宥める薬を作るため、特別に用意されたもので、むしろ家に調香師や薬師が出入りすることは稀なのだと長じてから知った。
 お前の繊細さもまた、樹の恩寵。恥じることなど何ひとつない。お前は、お前のあるがままに。ただ黄金の子であればよいのだ。そう言っては、慈しむようにこがね色に輝くこの髪を梳いてくれた父の手は、優しかった。
 そんな性質(たち)だからだろうか、ひどくこわがりでもあった。乳母が寝しなに語って聞かせる怪談話など、恐ろしくてならなかった。なかでも禁忌の炎の話には心底震え上がったものだ。王都に住む子供たちなら誰でも知っている、あの狂った火の話だ。実をいうと、今でも少し怖い。
 ──わるいことをすると、みにくい黄いろい炎に頭から食べられてしまうのですよ。その悍ましい姿と言ったら……ああ!
 そう言って話の締めくくりに、ある乳母は必ず「ぶるるる!」と大仰に身を震わせてみせた。乳母たちのなかでも最古参の女だった。彼女は話術がたいへんに巧く、それまでのうす暗く、それ故どこか蠱惑的でもある恐怖譚に戦慄(おのの)いていた子供は、彼女の滑稽な仕草でようやく日常を取り戻すことができるのだった。おおいに笑い、安心して眠りにつこうと瞼を閉じる。枕元の灯りが落とされ、寝台の帳がそっと下がる。誰もいなくなる。重い静寂が降りる──その途端、先ほどまでの安心は吹き飛んだ。暗闇も恐ろしかったが、眠りに落ちて意識を失うことも恐ろしかった。眠っているあいだに、化け物に体を乗っ取られてしまうのではと本気で心配していた。乳母たちがああやって戯(おど)けて見せるのだって、ほんとうは心の底では怖がっていて、だから大げさな仕草でそれを誤魔化しているのだろうと決めつけさえした。悪夢に魘された自分の絶叫で、何度飛び起きたか知れない。夢に現れる「みにくい黄いろい炎」は、決まってなんだか妙な形をしていて、ちっとも炎らしいところがなかった。
 今も、心のどこかでずっと、あの異形の暗影(シルエツト)に怯え続けている。


 誰かに喚ばれている。
 ここ数日、そんな気がして仕方がない。
 もちろん妄想だ。そうに決まっている。
 けれどこの妄想は、いつもとは比べものにならないほど強い切迫感を伴っていた。香を焚いても、薬草茶を煎じても消えてくれず、そのまま頭の中に居座った。脳に得体の知れぬ生命を孕んでしまったかのような不快感に、いくども吐いた。腫れあがった脳に呼応したのか、身体も微熱で火照った。そして神経がすり減るのと反比例して、今ではもう思い出すことも稀な幼い日々の記憶の数々が甦ってきた。存在しない兄も、恐ろしい怪談も、すべてこの妄想が引き連れてきたものだ。
 そして今朝、不思議な声まで聞いたような気がした。
 それは、言語ではない何かを通じて、こちらへ来いと言った。細い神経が、とうとう壊れてしまったのだと思い、涙がこぼれた。自己をしっかり保てといくら言い聞かせてみても、何も手に着かなかった。誰にも打ち明けられないまま、ただ小教会へ行くとだけ告げて邸を飛び出した。嘘をつくつもりはなかった。本当に祈りを捧げるつもりでいた。いつものように城館近くの教会で、黄金律原論の頁を繰り、祈りの言葉を唱えれば、この忌まわしい声も消えてくれるのではないか。そう願ったのだ。
 ところが城館につづく正門が遠くに見えたとき、どうしようもない違和感に襲われた。
 ──こっちじゃない。
 そう告げたのは、頭の中でうるさく喚ぶ幻聴でも、予感でもなく、ただの直感だった。
 理性的な判断を下す前に、気づいたときには身を翻し、城館とは正反対の方向へ駆け出していた。墓地に足を踏み入れ──何故そんな場所へ?──目についた階段を駆け下りる──こんな階段、あっただろうか?──じめじめした半地下が現れた。王都にこのような場所があり得るのかと目を疑うような、湿っていて不潔な場所。排水路なのだろうか。黴だらけの壁には、蛞蝓の這ったようなぬらぬらした痕が幾筋にも付着している。光の差さない一本道が、不意に脳裡に甦った光景と重なった。

 何かが聞こえた気がして、目が覚めた。
 部屋の様子がいつもと違う気がして、上体を起こす。原因はすぐにわかった。真っ暗なはずのこの部屋に、小さな灯りが射し込んでいるのだ。いつもは施錠されている扉が、その夜にかぎって薄くひらいていた。
 おそるおそる顔を覗かせてみる。長い回廊は暗く、しんと静まりかえっていた。誰もいない。見張りの──父母は護衛と言うが、あれは間違いなく見張りだ──兵たちの姿もない。
 もっと成長していれば、状況の異常さに尻込みして外へ出るのは躊躇したかもしれない。けれど違和感のみで踏みとどまるには幼く、恐怖を感じるには大きくなりすぎていた。好奇心の塊のような年齢だった。
 廊下に足を踏み出す。湿った土の感触がひやりとして足裏に心地よい。耳を澄ませると、いつも聞こえる水滴の音のなかに、聞いたことのない奇妙な響きが混ざっているのがわかった。
 最初は、ひとの囁きだと思った。おいで、と言っているように聞こえたからだ。曲がりくねりながら延々と続く土壁に手をつき、数少ない松明の転々と灯った炎を頼りに、音のするほうへ歩みを進める。やがて、不確かなざわめきは、ひとまとまりの調べに変貌していった。
 誰かが楽器を奏でているのだ。
 聞いているだけで胸がはちきれそうになる旋律だった。それは今までに感じたことのない不思議な感情で、泣きた出したいような、おもいきり叫んで駆け出したいような、そのどちらでもあるような──
 子供らしい好奇心に突き動かされ、歩みを早めようとした、その刹那。
 背後から声を掛けられた。
 仰天して振り向くと、乳母が佇んでいた。幾人かいるなかでも、いちばん優しい目をしたひとだった。彼女は、しーっと唇の前に人差し指を立ててみせ、「お部屋に戻りましょう」と静かな声で告げた。その響きには有無を言わさぬ力強さがあった。がっかりしたが、同時にほっとする気持ちもあった。不承不承頷くと、彼女は微笑んで手を差し出してくれた。ひとに触れてもらえることなど、めったにないことだ。嬉しかった。
 手を引かれて子供部屋に戻った。世話人たちの手はがさついているのに、彼女の掌だけはいつも滑らかで、ひんやりと冷たかった。ベッドに身を横たえながら、眠れない、と甘えると、彼女はそっとこの顔を掌で撫でてくれた。どこか憐れむようなそぶりだった。呪いで熟れた額(ひたい)に当たる氷のような掌は、とくべつ心地よかった。
 その夜以来、彼女の姿をみることはなくなった。

 ──これは一体、誰の記憶なの?!
 
 悲鳴をあげたように思う。
 あんな乳母は知らない。
 あんな部屋は知らない。
 あんな湿気った回廊など、見たこともない。
 けれどその見知らぬ記憶の風景が、今いる場所とどことなく似ていることに気づいた瞬間、一種の恐慌状態に陥った。半狂乱になり、地下道を一気に駆けた──ように思う。

 どこをどう進んだのか。
 気がつけば再び地上にいた。動転し、周囲を見回せば、大通り脇の露台を過ぎたあたりだと気づく。大丈夫、大丈夫。ここは知っている。荒い息を整えながら、そろそろと周囲を見回す。すぐそこには東の城壁が迫っていた。つまり地下通路は、地上の大通りをほぼなぞるような形で市街をまっすぐ走っていたのだろう。
 あの狂乱は何だったのだろう。救いを求めるようにして頭上をふり仰ぐと、空はいつの間にか夕闇に染まっていた。どれだけの時間、あの地下を彷徨っていたのだろうか。いや、本当にあんな通路はあったのだろうか。額が、燃え上がるように熱かった。その熱さは、もはや記憶を反芻することさえ許してくれない。
 城壁の上方には、丸みを帯びた使者たちのシルエットがぽつぽつと並んでいるのが見えた。刻告の笛を準備しているのだろう。彼らを目で追っていくうち、黄金樹の姿が視界に入り、顔を背けた。見ないで、と思わずつぶやく。黄金の子らの努めは、純粋たる黄金の真理を求めることである。律論の授業で最初に習う教えを思い出し、ふたたび目に涙が滲んだ。こんな行状、どう考えても慈母マリカに連なるそれではない、黄金の子に相応しくない──。
 着ていた長衣の裾は泥色に汚れ、金糸の刺繍もほつれ放題になっていた。幼児ならいざ知らず、この年齢で泥汚れなど、家族にどう説明すれば良いのだろう。いっそ、とうとう狂ってしまいましたと素直に告げるべきか。
「何をしている」
 途方に暮れたまましばらく監視塔を見上げていると、不意に背後から声を掛けられた。
 ぎくりと体が強ばる。兵士がひとり、こちらへ向かってきていた。何も悪いことなどしていないのに、胸の鼓動が早くなる。
「おい、女。貴様は一体ここで何を──」
 そこで兵士は言葉を切り、はっとしたように口を噤んだ。みてくればかりは豪奢な衣服や被った頭巾から零れる黄金色の髪に気がついたのだろう。
「これは、とんだご無礼を」
 直立不動の姿勢を取った兵士は、それでもまだ訝しむような視線を送ることはやめずにいた。当然だ。陽が落ちてきたとは言え、長衣が泥まみれなことくらい目を凝らせばわかってしまう。いくら一族の者とて、怪しむなというほうが無理だ。
「ぶ、ブローチを」
 ぶざまに唇を震わせながら、とっさに思いついた言い訳を口にする。
「昼間に、この辺りで。ブローチを落としたと思うのです。祖母が、その、くれたもので」
 しどろもどろの言い訳を続ける。ブローチを失くしたことは嘘ではない。先刻の地下道にでも落としてきたのだろう。祖母から貰ったのもほんとうだ。技巧を凝らして作られた、落ち葉を象ったブローチ。永遠なる樹の恩寵と加護を現しているという。
「しかし、貴方様のような貴き御方が、何故ひとり歩きなど」
 危険です、と兵士は言う。危険? ここは王都で、神々連なる者に手出しする輩などいるはずもないのに?
 なんだか急に目の前の男が胡散臭く感じられた。いや、兵士だけではなかった。この都の、王の、世界の存在そのものが、突然虚構のように感じられ始めたのだ。ああ、なんと罪深い思考だろうか! 唇をきつく噛みしめる。
 その時。
 ふ、と何かが耳を掠めた。
「音楽……」
「失礼?」
 兵士が聞き返す。その声には、怯えに似た響きが交じり始めている。
「弦のような音が、聞こえたような」
「弦?」
「ほら、また」
 空(くう)を指さす。つられたように兵士もあたりを見回す。やはり聞こえる。消え入りそうなほど幽かだが、たしかに弦と弓が旋律を奏でている。けれど兵士は、
「恐れながら、私(わたくし)には何も」と首を振った。そんなはずはない。明瞭に聞こえるではないか。
 それにしても、なんと胸を掻き毟られる調べだろう。こんな哀愁を帯びた旋律は今までに聞いたことがない──本当に? 否。この節回しを知っている──ような気がする。聞いているだけで胸がはちきれそうになる。これを知っている。遠い過去だけでない、つい最近にもこの胸をざわつかせた感情。今朝方、やわらかな黄金色の朝陽を浴びながら、まどろみの中で感じた、あの不思議な感情。泣きた出したいような、おもいきり叫んで駆け出したいような、そのどちらでもあるような──
「なつかしい」
 思わず口に出してしまう。
 そうだ。これは郷愁だ。今朝、夢で感じたざわめき、それは幼子がまだ知り得るはずのない、狂おしいほどに還りたいと焦がれる慕情だったのだ。
 急に笑みを浮かべ始めた女に戸惑い、目の前の兵士は困ったように首をかしげた。厳めしい鎧に似合わない仕草が愛らしく、声を立てて笑ってしまう。ギクリとしたように兵士は後ずさった。
 ああ、狂っていると思われているのだな、と悟った。
「聞こえるでしょう、ねえ」
 弁解するつもりで言った声は、やけに間延びして聞こえた。応じるように、流れる擦弦の調律もわずかに歪んだ。音楽はもはや耳を覆いたくなるほどの大きさで鳴っている。
 それなのに、目の前の兵士は何も答えなかった。じっとこちらに向けられた頭部は金の兜に包まれ、その表情は窺えない。側頭が激しい痛みと共にひどく疼いた。疼きはゆっくりと移動し、広がり、額が熱を持ち始める。ああ、痛い、酷い痛みだ。まるで何かが頭の中を這い回っているみたい。立っていられず、身体をふたつに折る。あっと叫んで駆け寄る兵士の手を振り払う。目の内側が燃えるように熱くなり、両腕で己が頭を抱えた。ぎゅっと目を瞑る。血管が目の奥でどくどくと脈打っているのがわかる。顔を覆った掌が、何かぬるぬるしたもので濡れている。痛い。郷愁を誘う旋律はもはや狂わんばかりに調子が外れていた。鼓膜を破り、体内に潜り込み、痛みに伴走するように眼裏で蠢く。肉色の塊を成していく。二股に裂けた歪で妙に黄みがかった肉塊が、みりみりと骨を砕き、肉を裂き、額の内側から芽吹いてくる。焼ける。灼けてしまう。

 出し抜けに、すべてが暗闇に落ちた。

 兄がいた。
 存在しないはずの兄が。鏡を覗き込んでいるのかと勘違いするほどによく似ていた。ただ、額の中央あたりの肉が濃いピンク色に盛り上がり、そこからほそい枝のような突起が二本生えていることを除いては。
 角(つの)、と声に出してみる。闇のなか佇む兄は、応じるように小さく頷いた。忌み子。角を伐られて棄てられる。存在してはならぬ子。魂の片割れ。
 喚んでいたのは、貴方。理解が全身を貫いた。予感は真実だったのだ。記憶も。兄は、ずっと共に在ったのだ。
 その途端、あれほど身のうちでのたうっていた苦痛が凪いだ。額で暴れ回る熱が嘘のように冷え、凝っていく。
 どこかから叫び声が聞こえた。あの兵士だ。恐怖に漲った絶叫だった。ひとごろしでも悲鳴を上げることがあるのか、とどこか他人事のように感心した。
 視界は二つに分裂してしまった。王都と闇。今はそのどちらもが視えている。現実と二重写しになって、暗がりから兄が歩み寄る。兄は手を伸ばし、そっと肩に触れた。私の肩に。暖かかった。触れられた部分から、慈しみに似た感情が流れ込んでくるのがわかった。長い予感が今、成就しようとしているのだと、私はようやく理解し始めていた。迎えが来たのだ。しかしそれは、咎を貫く大樹の罰でもなく、黄色く濁った狂気の抱擁でもなかった。兄の温かな腕だった。私はずっと、この時を待っていたのだ。全身はまだ恐怖に痺れていたが、それすらも甘い陶酔を伴った悦楽に変じてゆく。
 大樹の威光も届かぬ深い闇はどこにでもあるのだ、と、愚かな私はようやく気がつく。私の、瞳の奥に。
 もはや闇は王都を覆い尽くしていた。目を向けるまでもなく、足元には深い虚無の穴がぱっくりと口を空けているのがわかる。
 額から暖かい血汐が滴る。兄が微笑んでいる。今や相似形となった私たちは手に手をとる。何も怖くない。あなたの体温に包まれて、私が溶けていく。溶けていくことで、ようやく私は私と成る。あなたが頷く。私も頷く。私たちは跳んだ。虚無の底目がけて。

 闇に墜ちていく私たちの耳を、懐かしい旋律が掠めていった。




(了)

初出:2022/10/9(日)開催「篝火に火を灯せ!2」展示作品より一部改稿


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