北海道の春は遅い。
奉天戦で負傷した月島基の復員は、他の兵士たちより一足遅れた。
ひさしぶりに踏んだ内地の土は、四月でも霜の気配を残していた。吹きつける寒風に、砲弾を受けて裂けた下腹の傷が疼く。それでも、斬るような冷気の中心には、鈍い温さの塊が感じ取れもする。
あと半月もすれば、桜が咲くだろう。
月島が旭川の兵営に戻って何度目かの週末だった。
兵舎全体が慌ただしい空気に包まれていた。数週間後に招魂祭を控えているせいかもしれない。出不精の月島がめずらしく外出する気になったのも、その騒々した雰囲気に居心地の悪さを覚えたためだ。
昼すぎに所定の手続きをすませると、月島は逃げるように兵営を後にした。
午後の師団通りは相変わらず、いや、戦前よりもはるかに賑わっているように思えた。
活気づく通りを、月島はまるで眩しいものでも見るような目つきで眺める。
あちらこちらで新たな商売が興っていた。旅籠や飲食店だけではなく、服飾や雑貨、書店等の商店が建ち並び、街路は色鮮やかな宣伝であふれかえっている。路上で政治演説をおこなう者がいる。官憲がそれを取り締まる。野次馬が集まる。
人々は貪欲に新時代を謳歌していた。
賑やかなのは旭川だけではない。
日本中が、昂奮と混乱の只中にあった。
小さな島国である日本が大国・露西亜(ロシア)を打ち破ったのだから、当然といえば当然かもしれない。世論はこれを機に、一気呵成に世界の列強と肩を並べる可しと息巻いた。日報には連日のように景気の良い標語(スローガン)が並んだ。同時に政治への不満が噴出し、東京では民衆が暴動を起こすに至ったと聞く。その影響は遠くここ旭川の地にまで及び、先日もなんとかいう集会が開催されたらしかった。
らしい、というのは、月島はその経緯を、上官である鶴見から、雑談のうちのひとつとして聞かされたにすぎぬからだ。今や世の中が動く速さは加速度的に増している。蝦夷の地とて、そうした熱狂からは逃れられまいよと、鶴見は愚痴でもこぼすように遠い目をして語っていた。月島は、それを黙って聞いていた。どこか他人事のように思えた。
もとより月島には、小難しい政治の話などわからない。興味もない。だが今の月島には、世の中で起きていることすべてが、自分とは無関係の遠い場所で起きているように感じられてならぬのである。何を見ても、何を聞いても、幕一枚隔てたように模糊としている。色彩を欠いて平板に見える。凡そ現実感というものがない。
どうでもいい──。
吐き捨てるように、そんな感慨を抱いてしまう。
奉天の地で、月島はすべてを無くした。
捨てたと言ってもいい。
あの戦場は、いわば月島の人生の終点のようなものだったのだと、少なくとも月島自身はそう考えていた。海の向こうから持ち帰ったものといえば、悲鳴と怒号に満ちた悪夢のような光景と、粉々に弾け飛んだ戦友たちの遺骨、そして、もう俺には何もないのだという乾いた諦念。
それだけだ。
すぐ傍を大きな馬車が通りぬけ、月島は我に返る。獣くさい匂い。蹄が礫を蹴飛ばす小気味に良い音が耳についた。
兵営を出たときの焦燥感は霧消していた。代わりに、薄い疲労だけが体内にべったりとわだかまっている。
急に、街の活気が疎ましく感じられた。
下腹部の傷痕が鈍く疼く。
今日は朝から傷の調子が良くなかった。痛むというのではなく、ただ疼くのである。
足取りが重くなり、頭痛がしてくる。もう帰ろうかと思った。これでは何のために出てきたのかわからぬが、考えてみれば最初から、行くあてなどない。
踵を返す。
脈絡もなく日の出湯のことが頭を掠めたのは、その時だった。
日の出湯は、曙の近くにある銭湯だ。立地もあって周囲にはあいまい屋が居並んでいるが、日の出湯にその手の趣向はない。いたって地味な古い湯屋だ。そのせいなのか、いつ行っても空いていて、湯も比較的清潔なのが良かった。出征前の月島は、重宝してよく通ったものだ。
日本を離れていたのはわずか一年にも満たないのに、思い出したらむしょうに懐かしくなった。頼りない現実の縁(よすが)に縋るような心持ちだったのかもしれない。
月島の足は、ふらふらと花街方面に向いた。
§
銭湯まであと五十米ほどという所で、月島は足を止めた。
違和感がある。
いくら不人気な風呂屋といえど、店先に人の気配がまるでないのはどういうことだ。不審に思ってよく見ると、正面に掛かっているはずの暖簾が見当たらない。摺硝子の扉は閉ざされており、よくよく目を凝らしても、硝子の向こうは真っ暗だ。人の気配はおろか、什器の影さえ見あたらない。
店は、閉まっていた。
どう見ても定休ではない。
潰れていた。
月島は、呆然として通りに立ち尽くした。
そうして五分ほども、ぽかんと元銭湯の入り口を見詰めていただろうか。
未練がましく首を振り、建物をゆるゆるとふり仰いだ月島の視線が、二階のあたりで止まった。
空き家と化した建物の窓に、人影があった。その人影に見覚えがあった。
「尾形?」
格子窓から覗いているのは、月島と同隊に所属する上等兵、尾形百之ノ助のようだ。月島は少し緊張する。もう一度、じっくり二階を注視する。──やはり尾形だ。
尾形は何をするでもなく、ただ空の遠くを呆(ぼうっ)と眺めている。だが、なんとなくいつもと雰囲気が違う。言い方はおかしいが、しどけないとでも言おうか。なんだか遊女みてェな風情をしてやがると思い、そんなことを思った自分自身に戸惑う。
本音を言えば、見なかったことにして立ち去りたかった。
別の風呂屋に行ってのんびり湯に浸かりたかった。しかし、「兵隊さん」が空き家に忍び込んで悪さを働いているなどと噂が立つのも困る。いくらどうでもいいと言ったところで、月島は根っからの律儀者だ。軍の評判を落とす不品行は見逃しがたい。
数秒の思案の後、大きなため息をひとつ吐く。
月島は元銭湯の建物にむかってふたたび歩き出した。
§
傍目からは堅固に閉ざされているように見えた引き戸は、遠慮がちに手を掛けると、音もなくスルスルと開いた。
閉めきられていた空間特有の澱んだ空気には、かすかに木材と黴の匂いが漂っている。
奥に伸びる廊下の暗がりに目を凝らす。当然ながら人気(ひとけ)はない。沓脱ぎをすぎてまっすぐ行けば脱衣場で、そのすぐ手前には二階に続く狭い階段があったはずだ。
そんな必要もないのに、月島は忍び足で歩いた。
記憶のなかの光景を頼りに、手探りしながら二階へ上がる階段を探し出す。階段が軋まぬよう、静かに歩を運ぶ。
上るにつれ、空気の澱みはいくぶん和らいでいくように感じられた。
あと数段でのぼりきるという処で、月島の耳は場違いな音を捉える。
誰かが歌っていた。
春高楼の 花の宴
声は男のものだった。低く、掠れ気味の声だ。
月島は顔を上げる。
二階は、想像していたよりも薄らと明るかった。
二十畳ほどの畳敷きの広間はがらんとして何もない。表通りに面して開いた窓の一部が鎧戸ごと解き放たれ、夕方の淡い陽が射し込んでいた。
窓辺に、ひとつの人影がある。夕陽を背に浮かび上がる影絵(シルエツト)は間違いなく尾形のものだ。つまり、歌っているのは尾形なのだと思い当たった月島は、静かに仰天した。
尾形は、張り出した窓枠に腰掛けていた。
気怠げに片足を折り曲げて胸につけ、もう片ほうは床にだらりと放り出している。
制服の上着を肩がけに羽織っていた。襯衣(シャツ)の釦(ボタン)は、上から二つほどが開いている。
おまけに裸足だった。白く骨張った足の甲に、青い血管が浮き上がっている。
咄嗟に鼻をひくつかせたが、埃の匂いしかしなかった。
月島は目を逸らした。
腹の傷が疼いた。
めぐる盃 かげさして
尾形の声は、耳に心地よかった。
聞き惚れているという意識もないまま、月島は歌声に聞き入る。どこかで聞いた覚えのあるような、ないような、不思議な節回しだ。物悲しい印象の曲調(メロディ)は、軍歌のそれではない。都々逸でも、浪花節でもない。まさかあの尾形が琵琶を好むこともあるまい。重い調子は異国の調べのようにも、謡のようにも聞こえた。
それにしても、と月島は思う。あの変人が、こんなふうに美しく歌うなどと、一体誰が想像したただろう。もしこれが己(おれ)であったなら、こんな姿は誰にも晒したくないだろう、とも思う。途端に、居心地が悪くなった。
すこし迷ってから、月島は控えめな咳払いをひとつした。
だが、歌は已まなかった。
千代の松が枝 わけいでし
むかしの光 いまいずこ
結局、尾形は最後まで歌いきった。歌い終わってしばらく沈黙した後、
「月島軍曹殿」
と振り向かぬまま言った。
矢ッ張りか。月島は呆れた。まったく油断のならぬ男だ。とうに月島の存在に気がついていたらしい。となれば、こいつは上官を無視して歌い続けたわけだ。恥知らずにも程がある。このクソたわけがと罵倒するため、月島は口を開きかけた。
しかし尾形の言葉は続いていた。
「俺が──見えますか」
面食らった。どういう意味だと尋ねようとした。次の瞬間。月島は我が目を疑う。
尾形の輪郭が、ぶれた。
もしも月島が、多重露光という言葉を知っていれば、即座にそれを連想しただろう。けれど生憎、月島は活動写真の偏執的(マニアツク)な知識など持ち合わせてはいなかった。だから真っ先に考えたのは、己の目に塵でも入ったのかという、至極当然の疑問だった。
慥(たし)かに、涙で滲んだ視界がぼやける現象と、たったいま尾形に起きたものは良く似ている。視界に結ばれる像が幾重にも滲み、ぼやけ、拡散する。だが異物混入による視界の歪みは世界全体に起きるものだ。対して、いま月島が目撃した尾形は、彼の存在だけが世界からずれでも起こしたように見えた。
どうしていいかわからぬまま、月島は結局──目を擦った。
尾形の姿は、すでに元に戻っていた。
何か言おうと口を開き、何も言わずに閉じた。それを幾度か繰り返した挙句、月島は
「尾形、だよな」
とだけ言った。
間抜けだと思った。だからつい、言葉を重ねた。
「お前、今、その──」
──なんと、言えばいい。
月島は口ごもる。
ぶれてたぞ、などと正面切って言うのは憚られた。莫迦みたいだし、何より言葉にしてしまったら、尾形が本当にこの世の裂け目にでも落ちて、消えてしまう気がしたのだ。月島にしては珍しく抽象的な思考だったが、それだけ衝撃だったともいえる。
月島の逡巡を知ってか知らずか、尾形は気配だけで薄く笑ったようだった。
「軍楽隊がこれを演(や)るってのは、どうなんでしょうかね」
「何だって?」
意味がわからず聞き返す。
荒城の月ですよと尾形は答えた。
「そりゃあ、新しいのかは知りませんが、どうにも辛気くさくていけねェ。俺はそう思う。だが、これ聞いて泣く奴も居るわけですよ」
その感覚が、己には些ともわからんのです。尾形は独り言のようにそう呟いた。
会話が噛み合っていない。
沈黙が流れた。
ややあって、こんなところで何してると月島は気の抜けた声で尋ねた。それだけだとなんだか自分が阿呆になったような気がして癪に障ったから、余計な一言も加えた。
「幽霊ごっこか」
尾形はようやく此方を向いた。
逆光のせいで表情がよく見えない。月島は目を細める。
「いいえ」
ああそうかいと月島は言い、
「見えてるぞ、ちゃんと」
不機嫌に返した。なんだか腹が立ってきた。先刻から儚げな風しやがって、一体全体、どういう積もりなんだ此奴は。普段は露助も裸足で逃げ出すほど横柄な態度をしていやがる癖に、何が幽霊だ、こんな不逞不逞しいオバケ、居て堪るもんかよ。
幽霊ごっこと言い出したのは自分の癖に、考えれば考える程むかついて、月島は少し元気になった。
「一寸ばかしぶれてるようにも見えたが、ありゃあ光の加減だな」
「ぶれ?」
怪訝そうに尾形が訊く。
「何でもねェよ。それよりお前、いつから気づいていた」
ばっさり切って、逆に尋ねた。尾形は「ははあ」という、笑い声とも合いの手ともつかぬ息を漏らした。尾形独特の「返事」だ。
「軍曹殿が通りで突っ立ってるときからです」
あんなに熱く見つめられちゃあ、気づかんわけには参りませんと尾形は笑った。その人を小馬鹿にした口調は尾形以外の何者でもない。矢ッ張り、いつもの尾形だなと月島は安堵した。
「だらしねェぞ上等兵。そんな態(ナリ)して通りなんぞ見ろして、誤解でもされたらどうする気だ」
「誤解って、何を、どう」
うっかり口を滑らした月島に、尾形は本気で不思議そうに言った。しまった、と思う。まさか遊女に見えたなどと白状するわけにもいかない。答える代わりに、「釦は上まで留めろ」と小言で誤魔化した。尾形は、はは、と力なく笑った。笑った拍子に顔の角度が変わり、表情が判然(ハッキリ)見えた。
いつもの、生意気そうな顔をしていた。
「お前、少し痩せたか」
頬が痩けて窶(やつ)れたように思える。だが尾形に会うのは久しぶりだった。こんなものだったかもしれない。
月島は、尾形のだらしなく開いた白襯衣の釦を黙って留めてやった。これでは小姑だなと内心で苦笑する。尾形は尾形で、嫌がるふうでもなく、されるがままになっていた。
釦にかけた月島の指先が、尾形の喉元に軽く触れる。
ひやりとした。
死んでいるのかと疑うほど、冷たい皮膚だった。
「これで良し。お前がここで何をしていたかは聞かんが──」
「花見です」
「花見だァ?」
つい大声になる。勿論、桜など何処にも咲いていない。冗談も大概しろと怒ろうとして、止した。なんとなくだが、尾形は嘘を言っていないように感じた。
「──まあ、なんでもいい。兎も角、不法侵入は止めろ」
尾形は茶化しもせず、凝と月島のことを見た。
どうにも様子が妙だ。いつもと違う。
月島は、段々と居心地が悪くなってきた。
自分が意味の無いこと許りを喋っている気分になる。真実(ほんとう)は、もっと他に言うべき言葉があるんじゃないのか。そして俺たちは互いにそれを知っていながら、態と気づかぬ振りをしているんじゃないのか。
そんな、罪悪感のようなものを覚える月島の脳裡を、奉天で聞いた鶴見の言葉が過っていた。
少尉殿のことだがな。
医療所とは名ばかりの、死臭に塗れた天幕の下だった。包帯に巻かれて木乃伊のようになった鶴見は、月島にだけ聞こえる声で淡々と告げた。
あれは恐らく、尾形だよ。
戦死した第二十七聯隊の旗手、花沢勇作を撃ったのは、味方である尾形だ──。鶴見は、慥かにそう言った。
絶句した。
地獄も斯くやという、酸鼻を極めた戦場だった。混乱に乗じて背後から撃つなど、尾形程の狙撃手ならば造作も無いことだったろう。
だが、撃てるものだろうか。
同胞を。兵たちの生きる希望のような「旗手」という存在を。あんなにも無邪気に懐き、慕ってきた己の異母弟を。
撃つ──だろう。
尾形ならば。
月島はそう思った。
あれは、そういう男だ。
だから己は──
腹の傷が脈打った。
「休日は俺も休みたい。面倒は嫌だ。即刻立ち去れば、見なかったことにしてやるから」
追憶とは裏腹に、月島の口は小言を紡ぎつづけた。
「はい」
尾形は素直に頷いて、それからようやく、ひょいと床に降りた。素足の下で、床が微かな音を立てて軋んだ。青白く、それでいてがっしりとした足首の輪郭が、二重にぶれた。──まただ。月島は強い目眩を覚える。固く目を閉じる。
ふたたび見開いた視界に捉えた尾形は、ひとりに収束していた。
尾形の真っ黒いふたつの眼が、無感動に月島を射抜いた。
どくり。
血管が蠢いた。これは己の傷が立てる音か。
相対する尾形の心臓の音ではないのか。
尾形。
己は、
「……上着もだ。袖を通せ、馬鹿者」
結局、月島は小言を言った。尾形は黙って上着を着なおした。
「靴は」と訊く。尾形は、はて、と首を傾げ、それから自身の足を見て、
「ああ」
と言った。裸足であることに、たった今気づいたような言い方だった。
「下です」
階下を指さす。寧ろアンタは何故土足なんだとでも言いたげだ。その通りだ。ぐうの音も出ない。
「とっとと帰れ」
手で追い払う仕草をすると、尾形は「では」と言って曖昧に頭を下げた。
すこし猫背気味の見慣れた背中が遠ざかっていく。誰も居ない闇の向こうへ去って行く。その輪郭は頼りなく、そのまま闇に溶けてしまうような錯覚を起こす。月島は無意識に手を伸ばした。
尾形の歩みがぴたりと止まる。
「月島軍曹殿」
奇妙に平板な調子で、背を向けたまま尾形は言った。
「先刻アンタは、俺の姿がぶれた、とか仰っていましたね」
その背中は、もう闇と同化している。
闇が言った。
「だが、俺からすりゃあアンタが──」
──真ッ黒の影法師に見えました。
これまでにない位、激しく傷が燃えた。
咄嗟に手で庇うと、服の上からでも分かる程に熱を帯びていた。
「尾形!」
返事はなかった。代わりに、階段がギイと鳴った。
月島はひとり、大広間に取り残された。
§
通りを横切って去って行く尾形の後ろ姿を、月島は二階から見送った。彼の足取りは確乎(しっかり)していて、普段と変わった様子は見当たらなかった。
尾形は、一度も振り返らなかった。
窓の外はすでに暮れている。朱と藍の入り交じった空には、烏が数羽遊んでいる。
尾形の視線が向いていた辺りに、月島も目を遣ってみた。遊郭の屋根が見えた。あの陰鬱な暗褐色は、ここいらで最も口が硬いと評判の老舗だろうと見当をつけ、ハッとした。
「ああ」
成る程。尾形の見ていた桜の正体が、わかったような気がした。
「あの、大馬鹿野郎」
幽霊ごっこどころじゃねェ。死人相手に何を鬻(ひさ)いでいやがった、悪趣味な奴め。
出し抜けに、烈しい憤りが月島の胸に湧いた。
それは傷の辺りから湧き起こり、物凄い勢いで駆け上り、胸を裂いた。切なかった。叫び出してしまいたかった。
歯を食い縛って、月島はすべてを遣り過ごした。
歌う尾形の姿が、鶴見の声が、離れなかった。
そうだ。
尾形は、撃つ。撃てる。
迷いなく真っ直ぐに飛んで行く弾道さえ、この目で見た気がした。
それは迚も美しく、同時に、虚ろだった。
胸が捩れた。
焦がれるように、祈るように尾形を思う。
そして、言葉はやって来た。
己は、
お前が、
妬ましい。
あたりは闇に包まれていた。このまま溶けていけるかと思った。
いっそ本当に、真ッ黒な影法師であれば良いのに。
月島は強く願う。
しかし、どれだけ待っても、月島はそこに居た。
独りで立っていた。
忘れるなとばかりに傷が引き攣れて、
酷く──痛んだ。
(了)
引用
・『荒城の月』土井晩翠作詞、瀧廉太郎作曲(1901)
ワードパレット2より9.ミグリブ[不明]evening 変わる/終点/カラス