鰐のことを考えていた。
空想のなかで、鰐たちは微睡んでいる。
太陽の熱をたっぷり吸ったあたたかい泥に包まれている。爬虫類独特の目は閉じられ、ずらりと並ぶ歯は口中にしまい込まれ、鋭い爪は川底に碇のように食い込んでいる。鱗に覆われた体表はすっかり泥に埋まって、白く柔らかな腹が呼吸にあわせてふくふくと波打つ。熱帯の湿っぽい空気。にぎやかな命の息吹。
部下に声をかけられたのは、そんな空想とたわむれる時間のさなかだった。だから、反応がふだんよりすこしだけ遅れてしまった。その遅れを、相手は疲労によるものだと勘違いしたらしい。大丈夫ですか、と戸惑いぎみにたずねられ、ツォンは目をしばたたいた。
「すまない。聞いていなかった」
寝ぼけた声で応じる。夢からさめたような心地で相手をながめるツォンに、部下は心配そうに繰り返した。
「だから、主任はまだお帰りにならないんスか。こんな時間ですけど……」
さいきん配属されたばかりの新人だ。くだけた口調と丁寧な言葉づかいが混在している。制服がどことなく体に馴染みきっていない彼女は、所在なげにオフィスの入り口に佇んでいた。上司であるツォンより先に帰るのがはばかられるのだろうか。
ちらりと壁の時計を見ると、すでに深夜一時を回っていた。
「私はもう少し残る。君は帰ってかまわない、イリーナ」
名を呼ばれた瞬間、新人の表情があかるく輝いた。だが、ツォンはその意味にまったく気づかず、単純に帰れることを喜んだのだと解釈した。
「私に付きあう必要はない。その手の配慮は無用だ」
緊張をほぐそうと笑ってさえみせたが、彼女はそれでよけいに慌てたようだった。手足をばたつかせ、わっ違います違いますと小鳥のように囀った。
「私も書類を溜めてただけですし! 自業自得です! って、あ、べつに主任がそうだって言いたいわけじゃなくなて、ええっと」
モゴモゴと口ごもり、それじゃあお先に失礼します、と部屋を辞去しかけたところで、今度は「あ」と思い出したような声をあげる。
「そうだ、伝言が」
伝言っていうか、苦情かな、と首をかしげる。
一人でしゃべり倒す彼女に圧倒され、ツォンは黙って表情で先をうながした。
「いいかげんデジタル化に対応してくんないと困りますって、カタギのほうの総務さんが」
「またか」
思わずため息が出た。反射的に手元の万年筆に目をやる。それから、半身オフィス、半身廊下にいる新人にいまいちど視線を戻す。すると彼女も同じようにツォンの手元を凝視していた。目が合い、二人は同時に吹き出した。
総務部調査課のある地下三階は深夜残業が絶えず、何時になっても人の気配がするのが常だ。けれどそんなフロアですら、あと二日で年が明けるとあっては人影もまばらだった。そのせいか、小さな笑い声の二重唱は思った以上に大きく響いた。
たしかに、いちいち手書きのサインが必須の書類を大量に回しているのは、タークスくらいかもしれない。誓約書、秘密保持契約書、許可書、念書、始末書、顛末書、反省文、エトセトラ、エトセトラ。ツォンがすべきは、それらの内容を逐一確認し、署名することだ。この内容を私は承認し、全責任を負うのだという証しに、確認し、署名する。確認、署名。確認、署名。はてしなくつづく単調な作業のなか、やがて頭の中で鰐たちが欠伸をはじめる。大きな口にずらりと並んだ鋭い歯。太くて頑丈そうな尻尾をふりふり、彼らは大儀そうに巨体を動かして、のそのそと岸辺から移動する。暗い水面のあちこちで赤く光るのは、泥河にひそむ鰐の瞳だ。
「そんなこと言われてもなあ。まあ、善処する」
仕方なしにそう答えると、イリーナはまた笑った。彼女は、コロコロとはじけるようによく笑った。強くしなやかな精神を持つ、若い人間特有の美点だった。良いことだとツォンは思う。たとえ、それがいずれ失われるものであったとしても。
「あはは、善処ですね。了解です、お伝えします」
「いや、私が直接言おう。それにしても、“堅気”という表現はおだやかじゃないな」
冗談めかしたツォンの苦言に、イリーナはしまったという顔をした。露悪的な物言いは、おおかたレノを真似ているのだろう。あのレノが、それなりに先輩をやっているという事実に、ツォンは妙な感動をおぼえた。
「我々とて、一介の会社員にすぎん。そこは勘違いするなよ」
体をほぐすように首を回す。骨がゴキリと鳴った。同じ姿勢を長く続けたせいで固まってしまった筋肉を伸ばしつつ椅子から立ち上がり、ツォンはなにげなく机上のペーパーナイフを手に取った。それを左手に持ち替える。
「とうぜん、事務作業からも逃れられない」
そのまま、つかつかと部下に歩み寄る。
鰐は、もはやこの世に存在しない。ツォンが生まれるずいぶん昔に消滅した。絶滅ではない。消えたのだ。理由はよくわかっていない。ただ、ある日突然、彼らは行ってしまった。そして帰ってこなかった。しばらくは誰も気づかなかった。気づいたときには、爬虫類最強とさえ謳われた獰猛な種族は、この星から一匹残らず姿を消していた。
なぜ彼らは天敵のいない、天国とさえ呼べるこの地を去ることにしたのだろうと、ツォンはいつも疑問に思っていた。
飽きたのだろうか。
「ところで、新人」
飽きたとしたら、いったい何に。捕食者でいることにだろうか。
それとも、天国そのものに。
「隙だらけだぞ」
ぽかんとツォンを眺めるイリーナめがけ、ツォンはペーパーナイフを振り下ろした。予備動作のない、素早く無駄のない動きだった。
とっさにイリーナは体を低くしてそれを躱す。頭上でナイフが大きく空を切る。間髪を入れずツォンは返し手でふたたび彼女に斬りかかる。X字を描くかのようなその動きに、イリーナは機敏に反応した。ナイフを握るツォンの左手首を、的確に手刀で弾く。ツォンが凶器を取り落とし、乾いた音とともにペーパーナイフが床に転がる。イリーナの顔が勝利に輝く。その瞬間、
「ぶぇちへっ!」
空手になったツォンの肘が、クッと曲がってイリーナの左頬を直撃した。イリーナは呻き声をあげてよろめき、あっけなく尻餅をついた。
「二箇所だ」
息を弾ませて呆然と見上げるイリーナに、ツォンは手を差し伸べる。
「手首と肘。両手を使い、二箇所同時にブロックしろと教えたはずだぞ」
静かに諭すと、イリーナはあっと叫んでうなだれた。
「す、すんません」
しょんぼり、と音がしそうなほどにイリーナの眉が下がる。
「最初の一撃を躱したのは素晴らしい。だが、体は敵に対して正面を向け。基本だ」
「はい……」
イテテとつぶやきながら身を起こす彼女に手を貸してやる。悄然とうつむくイリーナの様子に、ツォンは急激なうしろめたさを覚えた。この遊びを、ツォンは歴代の新人に必ず仕掛けてきた。だが、タイミングは今ではなかったかもしれない。
気まぐれで戯れてしまったことを、ツォンは後悔しはじめていた。
「驚かせて悪かった」
いささかのきまり悪さとともに謝罪すると、彼女はいきおいよく顔を上げた。
「とんでもねっす! ありがとうございました! 私、早くツォンさ、じゃない、主任のように強くなりたいです!!」
しょげた態度から一転、直立不動で握りこぶしを作る彼女の仕草は、なんだか漫画のキャラクターのようで、ツォンはつい苦笑する。
なごんだ気持ちのなかでふと思いつく。
鰐は、べつに天国に飽きたわけではないのかもしれない。
たとえば、彼らは旅の途中で、彼らにとってこの星はたいした意味がなく、ただの経由地だったとしたら。
「悪くない考えだ」
「え?」
「いや、こっちの話だ」
けげんな表情を浮かべる部下に、ツォンは急いで手を振った。
「時間を取らせてしまったな。もう帰りなさい」
帰る場所があるうちに、と心の中でつけ加える。
「はい!」
ざっした! と叫ぶように一礼し、部下は鼻息荒く去って行った。
姿勢の良い大股歩きのうしろ姿が、電気の落ちた廊下の暗がりに溶けるように消えるまで、ツォンはじっと見送った。
彼女の去ったオフィスはひえびえとして広く、世界中が休業したような静けさで満たされていた。
自分のデスクに戻り、深々と椅子に座りなおす。机の上の書類はいっこうに減った様子がない。
ツォンは目を閉じる。
今もどこかべつの場所で眠る鰐たちを想像してみる。
そこはとても静かなところだ。静かで、暗くて、泥のように冷たい。
彼らの鱗に覆われた体表は夜に艶々と輝き、白く柔らかな腹は呼吸にあわせてふくふくと波打つ。
夜と泥に塗れて微睡む彼らの頭上に、満天の星々が赤く、瞬いた。
(了)
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無印イリーナとACイリーナの口調、どうにも自分のなかで整合性が取れないときがあります。
それでは、(どうか皆さま心の底から)「良い」お年を。