ムーンライト・ドライヴ

 形の良い唇からつぶやくような歌声がこぼれる。聞き慣れぬ異国の言葉に、俺はしばし耳を傾ける──
 などと言えば、少しは恰好もつくのだろうか。
 愚にもつかない考えごとを、俺は頭をふって追い払う。
 高速を走るワンボックスカーは静かで、ともすれば居眠りしそうになってしまう。運転がうまいせいか、助手席は居心地が良かった。かすかに伝わる振動は、仕事終わりの疲れた身体には心地よく、よけいに寝落ちしそうだ。
 まあ、英語だな。
 眠気をこらえ、むりやり思考を引き戻す。乗せてもらった車内で、一人寝てしまうのはさすがに気が引けた。語学はからっきしな俺だが、それでも歌声からはスイムだのムーンだのと、多少なじみのある単語が聞き取れた。スイムは「泳ぐ」で、ムーンは「月」。それくらいは知っている。だから、あの歌詞は英語だ。
 違う。
 そんなことはどうでもいい。問題は言語ではない。今の俺にとっての関心ごとは聞こえてくる歌のほうではなく、歌っている主体──つまり人物のほうである。
 なんせ、尾形だ。
 尾形は他人だ。
 俺は、彼のことをなにも知らない。
 強いて言うなら知人で、先々月越してきたアパートの隣人だった。奇妙な奴で──いや、奇妙という形容はフェアじゃないな。俺が知らないだけで、きっと彼も普通の人間なんだろう。
 ただ、色々と胡散臭い人物であることはたしかだ。
 ほかに知っていることといえば、男性。喫煙者。年齢不詳。現在は無職らしい。じゃあ何をして食っているかといえば、謎だ。引っ越してきた理由は、賃料をタダにするのと引き換えに、いわゆる事故物件ロンダリングとして受けた「仕事みたいなもん」だとか。実際、隣に住んでいた若いサラリーマンは先々月に首を吊って、その直後に尾形が入居した。疑う理由はない。だが、はたしてそんな「仕事」が本当にあるのだろうか?
 ちなみに彼の言を信じるならば、前職は雇われバーテンダー(在職期間四ヶ月)で、その前は不動産の営業マン(在職期間二年)、さらにその前はフリーのカメラマン、もといパパラッチ(在職期間不明)とのことだ。まったくもって支離滅裂な経歴だ。
 ──イヤ、知らないってわりには良く知ってるじゃねえかよ、俺。
 反芻しながら自分にツッコミを入れる。
 就寝前の喫煙タイムに、ベランダ越しに顔を合わせてからというもの、俺と彼はなんとなく世間話をする間柄になった。前述の知識は、そのとき聞いた断片的な情報をつなぎ合わせて得たものだ。
 だが、知っているのはそれだけだ。
 あとは下の名前が百之助ということくらいか。顔に似合わず古風だなと素直な感想を伝えたら、なぜか鼻で笑われた。その反応を見て、彼はあまり自分の名前が好きではないのかもな、となんとなく思ったのだが、それだって当たっているかはわからない。
 そうなのだ。
 尾形百之助は「よくわからない」男だった。
 言葉遣いの端々から皮肉屋であることはうかがえるけれど、それが冗談なのか本気なのかは読めない。性格はあまりよろしくないと自己申告していたし、俺の実感としてもそれは恐らくは真実だろうと思う。でも、それだってアテにはならない。彼の言葉はいつも、出来事にしろ感情にしろ、どうにも胡散臭い。なにを考えてるのかわからない、動物みたいな奴──それが、俺の尾形百之助に対する印象だ。
 話を戻そう。
 その尾形が、いつもの無表情のまま、唐突に鼻歌を歌い始めたのだ。
 イヤ、人間だから歌くらい歌うだろとか、そんなのは俺だって重々承知している。「尾形と鼻歌」の取り合わせはイメージにまったく似合わないものの、彼が歌うこと自体は不思議じゃない。歌が英語なのはむしろイメージどおりだ。
 しかし俺という他人同然の、ただ隣に住んでいるだけのオッサンを同乗させたうえ、歌声までさらしてしまうというのが、俺の中の尾形百之助像にどうにも合致しなくて、それで俺は驚愕したし、戸惑っているのだ。
 なぜなら、彼は警戒心が強い。それだけは間違いない。したがって今の俺の心境を一言で表すなら、
「なに急に無防備になってんだ、お前」
 これだ。
 さらに悩ましいことに、俺の困惑はもうひとつあった。まあ、こっちは尾形じゃなく俺自身の問題なのだが──歌う彼の口元に、視線が引き寄せられてしまうのだ。
 何を言っているんだ俺は。
 だが、事実なのだからしかたない。見ないようにしようとすればするほど、盗み見みたいにチラチラ見てしまう。おまけに、ああコイツにも口があって(あらためて見ると形が良い)、唇があって(薄い)、奥には(当然ながら)舌と歯が収まっているんだな、などと訳のわからないことを意識している。あるいは、舌が粘膜だという事実が脳の片隅で激しく点滅している。
 だから、何を言っているんだ、俺は。
 そう、俺は完全に動揺していた。
 どうしていいかわからない。それでさっきから尾形と俺は他人だとか、俺が彼について知っている──いや、むしろ知らないという──事実をかたっぱしから数え上げたりして、繰り返し自分に言い聞かせているわけだ。
 俺と、尾形は、他人だ。
 俺は、尾形のことを、何も知らない。
 救いを求めるよう窓の外に視線をやる。
 土砂降りだった。
 ゲリラ豪雨というやつだろう。それにしたって、ずいぶんと長く降るものだ。コイツのせいで俺は身動きが取れなくなった挙げ句、偶然に偶然を重ねて尾形の車に拾われる羽目になったのだ。まったくもってありがた……じゃない、はた迷惑な天気だ。
 雨粒の飛沫で、夜の道路は灰色の模糊とした世界と化していた。ピンぼけ写真みたいな不明瞭さは車内の明るさをくっきりと際立たせている気がして落ち着かなかった。明瞭な像を結んでいるのは、世界で俺たち──俺と、尾形だけ。
 狭い車内に、二人きり。
 やけに気まずい。
 そうじゃない。俺が勝手に気まずいのだ。
 尾形の歌が鼓膜に張りついてでもいるかのように近く感じる。そりゃあそうだ、隣にいるんだから。声、低いくせに艶があるな、などと感じる俺は、一体なんなんだ。
 身の置きどころがないまま、俺は低解像度じみた夜の高速を眺める。目の隅には、尾形の唇の動きが映りつづけている。
 アパートまでは、あとどのくらいだろうか。
 できたらもう少しだけ、このままがいい──なんて考える自分を無視しつづけるのも、そろそろ限界のはずだった。

(了)


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