今日、彼が陣取った棚は、レジ横に座る俺からも良く見える位置だった。
ラッキー。自分の強運に、心で喝采を送る。
彼はしばらく棚に視線を彷徨わせると、ついと一冊の大型本を抜き出し、熱心にページを繰り始めた。まとっていた空気がぴたりと止まり、彼が集中して活字の世界へ沈んでいったのがわかった。
あれは散文詩や短歌のコーナーだろうか。遠目なので書名はわからないが、分厚さからいっておそらく、全集本のうちの一冊だろうとあたりをつける。箱なしのバラが、あの辺りには多く置いてあったはずだ。
――そういうのも読むのか。熱心な視線を送っていることを悟られないよう注意しながら、俺はちらちらと観察を続けた。
勘違いしないで欲しい。いつもはこんなことしない。店番の大男にじろじろ見られて気分の良くなる客なんていない。祖父(じいちゃん)にも厳しくそう言われている。
だが、彼だけは特別だった。彼が来ると、途端に読んでいる本の文章が頭に入らなくなり、どうしても目で追ってしまうのだ。
初めての来店は、今年の二月頃だった。
よく晴れた平日のお昼頃、ふらりと店に現れた客のあまりの美しさに、俺は息を呑んだ。
背がすらりと高く、手足は長くて、細い。艶やかで柔らかそうな赤毛の髪が、白い肌によく映えていた。立ち読みをする横顔の睫毛は、びっくりするほど長く、陽に透けてキレイだったのをよく覚えている。
入荷した本に値札を貼る手が止まり、いつの間にか彼に見惚れていた俺は、「これ、お願いします」という彼の低い声で我に返った。差し出された『異形の愛』を持つ手は、華奢な印象とは裏腹にごつごつと骨張って、男らしかった。レジを打つ俺の手は震えたが、彼は特に気にしたそぶりもなく、「ありがとう」と言い、帰って行った。
その晩、俺は祖父の本棚から『異形の愛』をひっぱりだし、一晩かけて読んだ。
それ以来、彼は月に三、四回程度の頻度で訪れるようになった。近くに住んでいるのか、それとも職場が近いのか。あまり高いものは買わないが、二回に一回は何かしら買って行ってくれる。こんな寂れた町のそのまた片隅でひっそりとやっている古書店にとってはかなり良い客だ。
でも、そんなことどうでもいいくらい、俺は彼の来店を待ちわびるようになった。
最初はその端正な外見に惑わされて気づかなかったが、彼の魅力はその独特な雰囲気にある。顔立ちだけじゃない。立ち姿とか、本のページをめくるときの目の動きとか、集中して本を物色しているときの真剣な横顔とか、本を持つ手の角度とか。
彼のいる空間だけは、いつだって時間が止まって見えた。
まあ、要するに、俺は一目惚れしたわけだ。
最近では店の磨りガラス越しに、似た背格好の赤毛のシルエットを見つけるだけで、そわそわするようになった。
不意に、店先の空気が動き、聞き慣れた声が響いた。
「いらっしゃい」
「ああ、こんにちは」
彼が本の頁から目を上げ、軽く会釈した相手は、誰あろうこの店の主である祖父だった。外出から帰ってきた祖父は、彼に親しげに話しかける。
「降りそうだ。傘はあるかい」
「本当ですか、参ったな」
傘あるかい、と声を掛けながら、祖父は彼の手にした本に目を留めてオヤと微笑んだ。
「塚本邦雄なら、当分買い手は現れないと思うよ」
こういうことを言って嫌味にならないのが、祖父の凄いところだ。俺にはマネできない。彼は苦笑すると、もう一度「参ったな」と言った。
「すみません。給料入ったら、買いに来ますから」
「じゃあ、取っておこう」
そんな、甘えられませんと恐縮した様子を見せる彼に、祖父は呵々と笑ってみせる。
「なに、構うもんか。あんたくらいしか客はいないんだ。いつでも良い時においで。ついでに傘も持っていくといい。おい、レン」
「あ、は、はい!」
とつぜん祖父に呼びつけられ、俺は慌てて立ち上がる。店の奥に置いてあった適当な傘をひっつかみ、駆け付け、
「あ、あの、これ」
唐突に到来した彼と口を利く絶好のチャンスに、俺はただ傘を差しだして、しどろもどろにそう言っただけだった。
「お前、もっとましなのあったろう」
デカさだけはたっぷりある、色気も何もない黒いジャンプ傘に、祖父が呆れた声を出す。
「傘までお借りするわけには――」
「いいんだ、いいんだ」
手を振ってみせる祖父に、俺もぶんぶんと頷く。
「……明日、必ずお返しに上がります。どうもありがとう」
最後の言葉は、俺に向けられていた。柔らかく微笑む彼の顔に、俺はぼうっとみとれた。
傘を受け渡したとき、彼の指が俺の指をかすった。
ふわりといい匂いがした。
彼はしきりに礼を言い、気遣わしげに空を見あげながら出て行った。
「この、ばかもん」
彼が店から出て行くのを見計らったように、祖父は俺にげんこつをくれた。
「痛て! なんだよ!」
「客をじろじろ見るなと、いつも言ってるだろう!まったく、でれでれ鼻の下を伸ばしおって」
「の、伸ばしてないよ」
「いいから、表の百円本、回収してこい!」
一雨くるぞと言い置いて、泡を食って否定する俺を無視し、祖父は店の奥へ消えていった。
俺は渋々表へ出る。空の色は不穏な濃い鼠色に染まり、今にも降り出しそうだった。
店先に無造作に置いてある、「ALL百円」と札の立てられた段ボールを抱え上げながら、俺は、彼が去っていた方向をぼんやりと見た。
――降られずに帰れるだろうか。
――この辺に住んでるのか。
――給料日、か。苦学生とかかな。
まとまりのない思考が胸を去来する。
ブロック塀のつづく、なんてことないいつもの住宅街の景色に、夕立の気配がたちこめる。遠くの空で、ゴロゴロと低く雷が鳴り始めるのを聞き、俺は慌てて段ボールを店に運び込む。
最後の一箱を抱え上げたとき、間一髪でぱらぱらと雨が降り出した。
店の引き戸を引くとき、雨とアスファルトの匂いに混じり、さっき彼からしたいい匂いがまた、ふわりと漂った気がした。
ー明日、お返しに上がります。
低く掠れた声を思い出し、俺はだらしなく笑み崩れる。
明日の店番が、待ちきれなかった。