1.
土曜の夜は、ひどい雨だった。
混雑したバーに勢いよく飛び込んで来たアーミティジは、全身ずぶ濡れだった。
カウンターに腰掛けるなり、煙草を咥えて酒を注文する。
「ウィスキー」
泥酔しているのがわかるほどに、呂律の回っていない発音。
「氷は?」
「なんでもいい、はやくくれ」
「ソーダは」
「わからない……いらない」
畳みかけるようなバーテンの問いに、煩わしそうに手を振りながら、煙草に火を点けようと試みる。しかし、酔いか、それとも寒さのせいか、手が震え、なかなかうまくいかない。
長身で細身の彼は、ただでさえ人目を引いた。濡れ鼠ともなれば尚更だ。
かっちりした黒いジャケットを着こなし、首元からのぞく白いカッターシャツのカフスは、一見しただけで高級とわかるパールがあしらわれている。いかにも品良くコンサバティヴな装いにも関わらず、黒の革手袋を嵌めているのが奇異といえば奇異だ。が、どこからどう見ても金持ちの紳士然とした格好でありながら、彼の放つ空気は、完全に男娼のそれだった。
なかなか着火しようとしない煙草に業を煮やした彼は、酒が供されるやいなや奪い取るようにグラスを掴むと、一気に呷った。
カンと甲高い音を立てて、空になったグラスをカウンターテーブルに放り出す。
「ウイスキー。ダブル。同じものを彼にも」
唐突に、どこからともなく中年の男が現れた。彼にも、と言いながら、アーミテイジの横に陣取り、黙ってライターの火を差し出す。腹がたるみ、禿げあがった額に赤ら顔のこの男は、アーミティジが店内に入ってきたときから、好色そうな目を彼に向けていた。今もあからさまに性欲の匂いを漂わせ、彼の横顔を凝視している。
アーミテイジは、黙って男の手元に顔を近づけた。
ライターの炎が、彼の赤毛と、そこから滴り落ちる雫をあかく照らして揺れる。
やがて、煙草に火が着いた。
ようやくありついたをニコチンを満足げにふかしながら、アーミテイジはちらりと男に目を流す。
そして、カウンターを滑ってやってきたグラスを中身も見もせずに干した。
さらにもうひと吸い煙を肺に送り、ふう、と大きく吐き出すと、やっと男に向き直った。
何も言わない。
ただ男に、にっこりと微笑む。
「いい飲みっぷりだ」
下卑た視線を隠そうともせず、男がアーミテイジの肩を抱いた。アーミテイジがわざとらしく身を捩り、ほんの少し男に肩を寄せた。男の眉が下がる。
「あんた、これからどこかへ行くのか。ええ、色男さん?」
「どうだろうな。わからない」
アーミテイジがククク、と笑う。その笑いを都合良く取った男もまた、下品な笑い声を立てる。
「俺と来るか?」
「いいよ」
またもやくぐもった笑い。
そのとき初めて、彼はこちらに視線を投げて寄越した。ほんの一瞬だったが、あからさまな嘲笑が、唇にはりついていた。
店の片隅でじっとなりゆきを眺めていた俺の視線など、彼はとうに気づいていたのだ。
そんなことは、俺だって百も承知だ。
いや。
むしろ、だからこそ、ここにいる。
「……いいのか」
男が無遠慮に俺を顎で指し示す。
「お前の彼氏なんだろう?」
「あいつは承知さ」
彼は男に額を寄せ、撓垂れかかる。
混じり合う男の吐息と、彼の吐息。含み笑い。
「――そういう奴だ」
そう言って、見せつけるように男の唇に吸い付いた。
べったりと媚びを含んだ口づけは、きっと酒と煙草、そして吐瀉物の味がするのだろう。
彼の大胆な悪ふざけに、へべれけの彼の身体を腰の辺りで遠慮がちに支えていた男の手が、急に勢いづいた。彼の折れそうに薄い腰から、ゆっくりと下へ移動する。彼が何も言わないのをいいことに、その動きは大胆さを増し、尻を大きく撫でた。
アーミテイジがくすくすと笑う。更に気を良くした男は、今や内腿の柔らかな肉を鷲掴み、捏ねるように撫で回している。
そして、更にゆっくりと、その上へ。
が、股間に辿り着く直前で、アーミテイジは素早く男の手を掴んだ。
黒い革手袋が、誘うように、きゅむ、と鳴る。肉のだぶつく浅黒い男の太い手首に、白くしなやかな手首が絡みつく。
「ここじゃ駄目だ。な?」
甘えるように舌っ足らずな囁き声と、妖しい微笑み。甘美な毒は男の耳を伝い、あっという間に全身に回る。もはや性欲に目の眩んだ男は、彼が与えてくれるであろう快楽のことで頭がいっぱいだ。悪魔の誘惑に、身も心も侵されている。
しかし、そのときほんの少しでも男に注意深さがあれば、男も気づいたはずだ。
彼の灰がかった碧色の美しい双眸が、何も映していないことに。
どこまでも空虚に落ち込む、がらんどうの孔だということに。
まるでドアの向こうには天国でもあるかのように、笑いさざめきながら二人は店を去った。
扉が閉まる。
俺は、カウンターから立ち上がる。
仕事の時間だ。