母はだらしない女だった。
そう聞かされて育った。
実際、記憶のなかでも「だらしない」に相当するエピソードには事欠かない。
たとえば小学校の頃、授業中に高熱を出したことがあった。たしかあれは、三年生の初夏だったとおもう。
朝からやたらフワフワするとは思っていた。二時間目は体育の授業で、体操着に着替えているとき視界が反転した。教室が騒然となり、俺はそのまま保健室のベッドに直行となった。
体になじまないごわついたシーツと、なんとなく清潔と思えないブランケットに顔をしかめて横たわっていると、養護教諭がやってきた。顔をのぞきこみ、母と連絡がつかないと言いにくそうに告げた。私は細心の注意を払っています、だから傷つかないでね、可哀想ね、あなたは良い子よ、心配しないで、とでも言いたそうな、憐憫と怒りと、それから少しの鬱陶しさのいりまじった、微妙な表情をしていた。
俺は黙っていた。
養護教諭は何も答えない俺をしばらくのあいだじっと見つめ、やがて奥に去った。内線電話をかける声。その後、彼女はどこかへ行った。俺は起き上がり、保健室を抜け出した。
細心の注意を払いながら教室に戻った。幸い教室は無人で、だから俺は誰にも見とがめられることなくランドセルを回収することができた。
そのまま帰宅した。
熱で狭くなった視界と、ふらつく足取りというハンデを負っていたにしては、上々の脱出劇だったと、今でもおもう。
帰ってみれば(俺は鍵っ子だった)、狭いマンションの1DKには下着もつけずに眠る母と、台所で水を飲む見知らぬ男がいた。男はトランクス一丁で、茶金の髪が爆発したみたいにデカくて、肌は不自然に黒かった。それがギャル男と呼ばれる生物であることを、当時の俺はまだ知らなかった。ギャル男は驚いた様子もなく、「あれ、お帰り」と言って愛想良く笑った。俺は黙ったまま、こないだ見たのとは違う個体だなと考えた。
この話にオチはない。
そんな感じで、母の性的な情事を垣間見る機会は多々あったというだけだ。不快な体験ではあったかもしれないが、その頃すでに、俺はそうした出来事にとっくに慣れきっていて、傷つくこともなくなっていた。
ただ、とにかく「だらしない」女であることを裏付ける無数のエピソードのうちのひとつは、そんな感じだというだけの話だ──
──語り終えると、尾形はペットボトルに残った水を一気に飲み干した。
勢いがよすぎたのか、ひと筋の水が口の端から零れて顎をつたい、汗で光る裸の胸に滴り落ちる。
「ぬっる」
残りを飲みきって尾形は顔をしかめた。
昨晩、帰宅する途中で寄ったコンビニで買ったのだから当然だろう。
ぐしゃぐしゃになったシーツの上に、性器丸出しで胡座をかいて座る尾形は全体的に弛緩していて、妙にエロティックだった。周囲にはビールの空き缶だの、使用済みのあれこれだのが散らばっているから、よけいそう見えるのかも知れない。
「吸うか?」
俺は布団の脇に放り出していた煙草のパッケージを手に取って差し出した。尾形が無言で手を伸ばす。俺も一本取り、やはりその辺に転がっていたライターで火を付ける。ついでに、咥えたまま待機している尾形にも火を差し出す。
「で?」
「や、べつに」
顔を近づけて一口吸い、尾形は煙を浅く吐いた。狭いアパートの部屋に、マルボロの苦い匂いが充満する。
「オチないって言ったばっかでしょ」
前髪が下りていると、尾形は普段より数倍幼く見えた。小さいころはこれで可愛いところもあったんだろう。かわいい百之助くんを想像しようとしてみたが、どうにも普段の態度がデカすぎて無理だった。俺は早々に空想ごっこを放棄して尋ねた。
「だらしないって言われてたけど、実際のところは違うって話じゃねえのか?」
「なんでそうなるんですよ」
「だってお前、そう《《聞かされた》》って」
あー違います違いますと尾形は手を振って否定した。
「言葉尻とらえんの好きですね、ハジメさんは」
俺の尻も好きですもんねとつまらない洒落を言って笑う。おもわず吹き出してしまった。腹立ちまぎれに軽く頭をはたくと、痛ってえなと言いながら、尾形はさらにニンマリと笑みを深くした。猫みたいな目が、もっと細くなる。俺は犬派だが、彼のこの笑顔を見たときだけは、猫もかわいいと思わないでもない。
「アンタが俺のことだらしねえって言うから、単純に思い出したまでで──」
なんだよ俺のせいかよと俺が抗議すると、そうですアンタのせいですと尾形はあっさり人のせいにした。
「元はと言えば、お前がいつまでもケツ丸出しでダラダラ寝てるのが悪いんじゃねえか」
「ダラダラってのはなんです。これは誘ってんですよ、鈍いなあ。後朝の一発ってやつです」
しょうもない下ネタに俺は呆れた。尾形にかかれば、せっかくの教養もすべてこうなる。嘆かわしい男だ。
「あのなあ。だったらせめて、もう少し色気とか出せよ」
俺がそう言うと、そのままの俺が好きでしょと尾形は真顔で答えた。ああ言えばこう言う。
ふいにいまが何時か気になり、俺はスマートフォンに手を伸ばした。その手を尾形がはたいた。
「時間なんか気にすんなよ、オッサン」
顔はニヤついているが、口調は真剣だった。声がほんの少し鼻に掛かっている。死ぬほどわかりにくいし下手くそだが、尾形なりに甘えているつもりなのだ。
「……これだけ、吸わせろ」
「あいよ」
咥え煙草でニヤリと笑った彼の顔には、良く見れば無精髭が散っていた。俺もああなっているんだろうなと他人事のように思った。尾形くらいの美形ならば味にもなろうが、俺だとただの汚い中年だ。と、俺自身は思う。だが、尾形は好きだと言う。生えかけの髭で、皮膚の柔いところを擦られるのはたまらないのだと言っては、行為の最中にもしょっちゅう強請る。
まあ、何でもいい。
閉め切ったカーテンの隙間からは、強めの光が漏れていた。昼近いか、もしかしたら正午を回っている可能性もある。
休日の朝といえど、食事も洗濯も掃除も放棄して、寝床でだらだらと無為に過ごすなど、以前の俺なら考えられなかった。
だが今は違う。
一晩中汗みずくになってヤリちぎり、へとへとになって使用済みの雑巾みたいに折り重なって眠り、互いの饐えた甘い匂いに包まれて迎える泥のような休日の朝を、俺は愛している。
そういうのを好きになれる自分を知った。
尾形はあらぬほうを向き、部屋の隅のくらがりをぼうっと眺めている。何もない空間を見つめる無表情は、何を考えているのかまったく読めない。鍛えた胸板は厚く、太股はぱんぱんに張っている。さぞかし男にもモテるのだろうと思いきや、彼曰く、「この業界(業界ってなんだ?)、根暗でスネた性格の男には需要がない」らしい。いまだに信じられないが、それがもし本当なのだとしたら俺は運が良かった。そのお蔭で、この個性的な二枚目は番いにあぶれたあげく、俺なんぞに惚れ込むことになったのだから。
「なあヒャク。蒸し返して悪いが──」
命を吹き込まれた最初の人類みたいな姿勢で煙草をふかしている男に、俺は思いきって尋ねてみる。
「──お前、本当にお袋さんはだらしなかったと思ってるのか?」
尾形は首だけでこちらを向いた。黒い目がきらりと光った──気がした。
「思いますよ」
端的にそう言って、尾形はちびた煙草をひときわ長く吸った。そしてその辺に転がっていたビール缶に、吸い殻を放り込んだ。じゅっという静かな音がした。
「自分のガキにセックスの気配だだ漏らしにすんのは、だらしねえでしょう。擁護しようがねえ」
俺が黙り込むと、尾形は近くににじり寄ってきた。
「俺が庇うとでも思ったんですか?」
仰向けに寝転がる俺の顔を、覗き込むようにして言う。
「いや。ただ──」
適切な言葉を探しあぐね、俺は視線を逸らした。短くなった煙草をもてあそんでいると、尾形はそれを俺の指からもぎ取って、さっきの空き缶に同じように放り込んだ。覆い被さるようにのし掛かってくる。鼻先がぶつかるほど顔を近づけて、言った。
「ただ?」
含み笑いの低音で先を促す。脂臭い匂いの湿った息が、俺の顔にまともにかかった。腰の奥に重い欲望が点るのを感じる。俺の返事を待たずに、彼のかさついた唇が俺の口端に触れた。濡れた舌が、歯をこじ開けるように侵入してくる。マルボロ特有の苦みが口いっぱいに広がり、俺はしばらく尾形の口中を味わうことに集中した。
「愛に飢えた可哀想なガキの話が聞きたかったのに、残念?」
ようやく口を離した尾形は、そう言って唇を歪ませた。俺の上に馬乗りになり、挑発的に髪を掻き上げる。その唇に、唾液が糸を引いて光っていた。
だらしない姿だ。
だが──否、だから、美しい。
ああ、そうか、と思った。
「馬鹿。違う。そんなんじゃない」
きっぱり否定し、俺は尾形の顔に向かって手を伸ばした。そっと頬を撫でると、無精髭が手のひらにざらついた。
「どうだか」
ハッと尾形は嗤った。表情こそ笑っていたが、目は怒っていた。同情されることを何よりも嫌う気高い山猫は、無粋な俺の質問にご立腹らしい。
「ただ、俺はな、ヒャク」
よしよしと頬を何度か撫でると、眉を顰めていやいやをするように首を振り、彼は俺の手を払いのけようとする。可愛いもんだと苦笑すると、さらに不機嫌そうな表情になるからよけいに可愛い。
「だらしねえってのは、案外悪いもんじゃねえ。というか──」
怒るなよと宥めるように何度も頬を、頭を撫でながら、ひょいとその首に手を掛ける。太くてがっしりした頚は、こういうとき掴みがいがあって良い。
「むしろ大好きだ」
ぐいとその肩を思い切り引き寄せた。不意を突かれたのか、驚いた尾形の目が一瞬、本物の猫みたいに細くなった。俺はニヤリと笑い、勢いに任せて彼を一気に押し倒す。
あっという間に尾形は俺の下になった。
「どうにも、俺は言葉が下手クソでいけねえな」
すまん、と謝ると、尾形は呆気にとられた表情のまま、ははっと軽やかな笑い声を立てた。
そして、少しだけ照れくさそうに目を逸らし、
「だからアンタが──」
好きなんですよ、と小さな声でつぶやいた。
(了)