凪いだ湖の上空を、白いカモメが一羽、飛んでいく。
まっすぐな軌跡をひたと見据え、尾形はしずかに呼吸を止める。
耳の痛くなるような静寂。
──まだだ。
まだ遠い。
もう少し。
もう、すこし。
──今だ。
確信の念よりはやく、指が引き金を引いた。
タン、と響く猟銃の小気味よい音に、乳白色のもやにつつまれて霞む青い木立の輪郭がざわめく。鳥の群れが羽ばたき、小さく黒い影が空を騒がせた。
カモメの姿はすでに空にない。
鏡面のような湖面がさざ波立ち、火薬のにおいが鼻をつく。
銃床から頬をひきはがす。と、
兄様。
低い位置から声がした。
おどろいて足元を見やる。
「あにさま」
幼子がいた。いつのまに、と尾形はとまどう。歳はかぞえで六つほどか。この寒い時期に、千鳥柄の浴衣を着ている。知らぬ子だ。だが、こちらを見上げる切れ長の瞼には、どことなく見おぼえがあった。
「どこから来た」
子供は答えない。ただ一心に尾形を見つめている。
「俺はお前の兄ではない。失せろ」
けれど子供は離れるどころか、尾形の足元にすがりつくように寄ってくる。
「あにさま」
「離れろ」
「あにさま」
「だから違うと言っているだろう。クソ、埒があかん」
ゆるがぬ瞳の無垢が急に不気味なものに思え、尾形は裾に絡まる子を邪険にふりほどいた。
「俺に弟などいない。退けッ」
足蹴にされ、子供はころりと地面に転げた。
茶色く冬枯れした下生えに仰向けにころがったまま、泣くでもなく呆と空を見ている。朝露に濡れた千鳥の紺が、じわり、濃くなる。
「どこのガキか知らんが、銃を構えた人間に寄るんじゃねェ」
吐き捨てるように言い、尾形は顔をそむける。これは夢だなと思う。尾形には弟がいる──いた。けれど、今の尾形は、己に弟がいないと思っている。二重写しの現(うつつ)を明確に把握している、これはまちがいなく夢だ。
たとえ夢でも、年端のいかねえガキにする仕打ちじゃねぇだろ。そう考えぬでもなかったが、それより蹴られて顔色ひとつ変えず、無表情のままなのが人間離れして薄ッ気味悪く、
──なんだか化け物じみていやがる。
そんなことを思う。憐憫の情は湧かなかった。嫌悪だけがつのった。狐狸変化(こりへんげ)のたぐいかとも思う。いずれにせよ、これでは親も愛すまい。
「成る程なァ」
不意に子供が口をきいた。
ぎょっとしてふり返る。
尾形の背筋を冷たいものが這う。
仰向いたまま、子供は告げた。
「手前ェでそう思うんなら、救いなんかねェな」
その声は、他でもない、尾形自身の声だった。
おもわず後ずさる。それまで宙空に固定されていた子供の顔が、ぐりん、とこちらを向いた。
「お、お前」
喉がヒュッと鳴る。その顔は。
「可哀想なあにさま」
ゆうさく、どの。
「尾形」
「尾形」
「……どの」
「尾形、おい」
「だまれッ!」
勢いよく跳ね起きる。
うわ、と驚くなじみ深い声が、すぐ近くで聞こえた。
夜だった。
目の前に広がるのは、一体どこなのか。ぼうぼうの青い薄野原だ。甲高いキリギリスの音がうるさい。夏なのだ。
は、は、と犬のように息をしながら、尾形はじっとり汗ばんだ額を手の甲でぬぐう。
「貴様、いま黙れと言ったのか?」
声のほうに顔を向けると、異様に鼻の低い男が尾形を見あげていた。
「月、島、軍曹殿」
ちんまりした背丈。ぎゅっと身の詰まった頑丈そうな体躯。見慣れたあいかわらずの無表情。こころなしかハの字に寄った眉は、尾形を気遣っているようにも見えた。
やはり夢だったか。尾形は安堵する。
「寝ぼけているのか、尾形上等兵。なら眠気をさまして──」
「結構です。起きとります」
おどけたように握りこぶしを見せる月島を無視し、尾形は手を振った。ふらつく足元を立て直しながら、月島はこんな戯れをする男だったか、とかすかな違和をおぼえる。空を見上げると、漆黒の夜空に黄色くて巨大な月が浮かんでいた。やけに近い。
「いい月夜ですねェ」
まだ少しはずんでいる息をひそかに整えながら、尾形は己の額をつるりとなで上げる。二等兵らしい坊主頭のはずが、手のひらは長い前髪を撫でた。
「狐狸が浮かれて出そうじゃありませんか」
ねぇ、と口を動かしながら、語尾が震えていはしまいかと心配になる。目を閉じたら、まだ己の声で嗤う化け物の顔が見える気がした。あきれたように月島が鼻を鳴らした。
「さっきまで魘(うな)されてたガキが、よく言う」
「魘されてなんぞおりませんが」
尾形の口答えに月島は怒らず、ただ白けたような顔をして、へェそうかよと返した。
「おや。見張り中に居眠りした罰は」
からかうように尾形が言えば、月島はわざとらしくため息をつく。
「お前を殴りつけたって、反省した試しなんざないだろうが。大体、お前の不真面目は今に始まったことじゃない」
とっくにあきらめてるよと月島は不機嫌そうに言った。そりゃスミマセンと棒読みで謝る尾形に、黙れガキと月島が答える。どちらも本気ではない。言葉でじゃれているだけの無意味なやり取りに、悪夢の余韻が静かに引いていく。
だが、月島はこんなふうに俺と口をきいただろうか。
「オイ尾形」
尾形の疑念をさえぎるように、あらたまった口調で月島が言った。
「手前ェで手前ェの目をふさぐのも、たいがいにしとけよ」
「はァ?」
月島はそれきり黙った。
尾形は真横を向く。尾形のすぐ脇、ちょうど肩下あたりに来るはずの上官の横顔が、妙に遠くにあるように見える。
そうか、と思う。あきらめたように正面に向き直る。さっきまであんなに鳴いていたキリギリスの声がしない。夜の闇が濃くなった。
「でもね月島さん」
空に浮かぶ月は、先刻よりもさらに巨大だ。近づいているのだな、と尾形は思う。
「俺は」
むりやり会話を続けようとして、言葉に詰まる。
俺は。俺は。
――俺は。
うるさいほどの静寂。月はもうすぐそこまで迫っている。
隣を見る。
誰もいなかった。
遠くのほうで、白いカモメが地に落ちる音がした。
(了)
ワードパレット2より
18.モーンガータ[mångata]水面に映った道のように見える月明かり
カモメ/湖/ふさぐ