お父様には内緒ですよ。
老エリアーデの芝居がかった台詞回しは、まだ高等学校を卒業したばかりのルーファウスの耳には大仰に響いた。しかし白ける気持ちもつかの間、ルーファウスは目の前に開けていく光景に、すぐさま引き込まれていく。
錆びた音を立て、いかめしい鉄の門扉が開いていく。門扉は、かつては金色に塗装されていたであろう地金の黒色が露出するほど劣化が激しかった。まるで貴族のなかでも随一の格式を誇るエリアーデ一族の歴史を誇示するかのように。けれどその威容は決して衰えず、むしろ蔓の紋様は大きくうねり、訪れる者を威嚇する。
重い地響きとともに、扉が開ききる。
霧ふかい北西部の都市、その一等地を占拠する広大な屋敷の一角に、忽然と熱帯雨林が出現した。
見たこともない南国様の大樹が茂る。棕櫚に似た木肌の太幹がうねり、そこかしこに扶桑花の赤や黄が命そのもののように跳ねている。
緑、幽翠、孔雀緑、青丹、濃緑。
ありとあらゆる植物の緑色が息づく空間は、生命の脈動に満ちて息苦しくさえあった。
「これは……」
圧倒され息を呑むルーファウスの横で、感嘆の声が上がる。脇に控えていたツォンだった。小声だったが、隠しきれない驚きの響きがあった。
護衛の任務において、ツォンが私語を口にするなどめったにない。けれどルーファウスがそのことに気づくことも、ましてや咎めることもしなかった。
秘密の園に、二人はただ圧倒された。
「見事です、エリアーデ翁。素晴らしい」
まだ十代でありながら、既に社交の場において、けっして生(き)の感情を見せないことを信条としているルーファウスですら、熱に浮かされたように称賛を口にする。砂漠に咲く覇王樹の一種と、熱帯雨林でしか育たない奇花がなかよく並んで花開いているのを見つけ、
「こんな大がかりな温室庭園は見たことがない。だいたい、このような植生はあり得ないはずなのに、一体どうやって――」
そう尋ねかけたところで、ルーファウスはようやく気づいたように口を閉ざした。
“お父様には内緒”。
その言葉が意味するものは、ひとつしかない。
「魔晄と……宝条か」
「ええ、まあ」
若き賓客とその護衛の素直な熱狂を、まるで孫でも眺めるかのように目をほそめて眺めていた老人は、えびす顔を崩さぬまま、鷹揚に頷いた。
「昔からの伝手を少々駆使しまして、十数年ほど前に完成させました。ここは当家でもプライベート中のプライベートの庭です。一族の者であっても存在を知らない者もおります。色々と見つかるとまずいものもございます。ですから、どうぞ」
ご内密に、と老人はウィンクしてみせた。
「成る程。貴重なものを見せていただき、恐悦至極だ。だが、何故」
私に見せるには、それなりの意図があるのだろう?
言外にそう問うルーファウスの口調こそ穏やかだったが、ルーファウスの体の線が、ごくわずかに緊張している。その変化を受けるように、ツォンのまとう空気も鋭くなる。
「誤解なさいませんように」
老人が手を上げてぴしゃりと応じた。とはいえ、二人の警戒に気分を害した様子もなく、あくまでもおだやかだった。
「下心あってのことではありません。ただ、あまりにも、その――退屈そうにしていらしたもので」
そう言った老人の目に、悪戯っぽい光が宿る。ルーファウスはあいかわらず無表情を崩していなかったが、その答えにはあきらかに動揺したようだった。
さきほどまでルーファウスたちのいた中庭から、風に乗ってかすかに、甲高い笑い声や陰気くさいクラシック音楽が流れてくる。さざめき笑いあう人々の遠い声が、植物と老人と若者二人のあいだを駆け抜けていく。
誤解のないように言っておくと、年に一度の盛大な茶会に集った大人たちのなかで、ルーファウスの振る舞いは完璧と言ってよかった。まだ十八に届かない若者とは思えぬほど巧みに会話を乗りこなし、老人たちの面白くもない噂話にも興じ、ときにはひかえめに話を拝聴し、伝統的でただ甘いだけの味つけの菓子を美味そうに食べてみせた。
「……」
ばつが悪そうに黙り込むルーファウスに、老人は微笑んだ。
「勘違い召されるな。貴方は、なすべき役割をこなしておりましたとも――視線以外は」
「視線?」
はい、と老人は頷く。
「一時も隙をお見せにならない貴方の立ち居振る舞いは、まさに完璧でした。ただ、視線は誤魔化せません。貴方の眼差しは、ときおり貴方の意志の制御からはなれておいでだった。ああ、どうかお気を悪くなさらないでください。老人というのは、暇なものなのです。他人の動向を探るくらいしか、することがない」
エリアーデ翁はそう言って呵々と笑う。ルーファウスは戸惑ったように翁を見たまま、話の続きを待った。
「そしてふとした瞬間にさまよう貴方の視線は、いつも必ず、一人の前で止まりました。ご自分ではお気づきにならないかもしれませんが」
翁は、ゆっくりとルーファウスの背後に視線を移す。
影のように控えるタークスがいた。
「それが、ツォンだと?」
それまで、ただ黙って話を聞いていたツォンは、思いもかけない成り行きに目をしばたかせる。
「ええと、その。私、ですか」
「そう、貴方ですよ、護衛の御方」
「いえ、お言葉ですが、そんなはずは」
ありません、とツォンが言い終わる前に、ルーファウスのくく、という笑い声が遮った。
「ふふ、まいったな。あなたはゴシップの天才だ! 認めます、エリアーデ翁。確かに、私はつい彼のことを目で追ってしまうんです」
私の癖なんですよ、と笑うルーファウスに、ツォンは慌てふためく。
「ルーファウス様、いったい何を――」
しかし護衛の言葉を無視しし、ルーファウスは笑い続けた。よほど可笑しかったのか、目尻に涙まで貯めている。憮然とするツォンと笑顔のルーファウスを見比べ、老人はしみじみと息を吐いた。
「貴方を見ていると、思いだしてしまうのです」
その言葉に、とっさに応接間につづく一族の写真を飾った廊下の最後に見つけた写真を思いだし、ルーファウスは笑いを引っ込めた。グレアム・エリアーデと記された肖像写真の主はまだ年若かかった。繊細そうな面立ちをした巻き毛の若者の没年は、十数年ほど前のものだった。ちょうどこの庭園が完成したのと同じ年の。つまり、ここは。
「……ご子息は、残念でした」
ルーファウスが神妙にそう応じると、老人は一瞬虚を突かれたような顔をし、それから、ああ、と笑った。
「たしかに、わが家であれは亡き者として扱っております」
「“扱って”? と、いうことは……」
「行方不明なのです。もう、ずっと」
「そうでしたか。知らずにご無礼を」
いやいや、と老人はかぶりを振る。
「無礼は私のほうです。不肖の息子に貴方様をなぞらえるなど、ご無礼も甚だしい。しかし、私は伊達に長く生きておりません」
そこで言葉を切り、エリアーデは二人をじっと見た。
「少し昔話をさせてください。――ある男が、かつて恋をしました。」
「失礼?」
思いも寄らぬ唐突な展開に、ルーファウスが戸惑ったように聞き返す。老人は長々と大きな息を吐いた。
「それは、許されれぬ恋でした。まず、身分が違った。相手はただの庭師でした。そのうえ――相手は同性だったのです」
ルーファウスは無反応だった。無表情のまま話を聞く主人の背後で、ツォンの眉だけがぴくりと動いた。
「ええ、わかっております。今の時代にはそぐわない価値観でしょうとも。けれどルーファウス様、我々は貴族なのです。領民という存在を喪った現代において、貴族などというものは、財産を守ることと拡大すること、それ以外にすることもない。……この意味が、おわかりになりますかな?」
「……なるほど」
ルーファウスはただ頷く。
語る老人の視線は茫洋として定まっていなかった。空間にただよう、散佚した時間を透かし見ているような目つきで彼は続けた。
「まったく、愚かな男です。たかがいっときの恋が叶わぬくらいで……。あきれ果てたナルシストだ」
その声は穏やかだったが、とっくに慣れきった諦めが、掠れた声のそこかしこに染みついていた。
「だが、もっとも愚かなのは、財産を守ることに目が眩み、肝心の息子を喪ってしまった老いぼれです。――いいですかな、ルーファウス様」
老人が顔を上げる。
「こんなことを申し上げて、逆鱗に触れることも覚悟のうえです。ですが、貴方がたには、後悔して欲しくはない。耄碌した年寄りの戯言だと思い、戯れにお付き合い頂けませんか」
「戯れ、とは」
「茶会はあと数時間で終了します。お父上の目がない滅多にない機会を、下らぬ貴族ごっこに費やすなど時間の浪費です。せめて今くらい、心許した方と静かな時間を過ごして頂きたい」
そう言って、老人はつかつかと温室の奥に歩み去った。かと思うと、一抱えもある大きな機械を抱えて戻ってきた。
「……これは?」
老人が置いたのは、古ぼけた三脚だった。上部に、レンズがついた大きな箱が載っている。その箱を覆うよう、長く分厚い黒幕が垂れていた。
「これは、ダゲレオタイプと呼ばれる写真機です。お聞きになったこともおありでしょう。現在のようにキャメラが発達する前の、過去の遺物ですよ」
「ああ、カメラ・オブスクラ――」
「さよう」
老人は頷いて、二人を庭の中央に目線で促す。温室庭園の中央にそびえ立つ、ひときわおおきな棕櫚の樹の下に、いつの間に用意されたのか、やはり古びた猫足の椅子が一脚、用意してあった。濃い緑と金糸を基調としたゴブラン織りの座面は、端々がほつれ、傷んでいる。そこに腰掛けるようにルーファウスに指示しながら、老人はカメラの暗幕の中に潜り込む。
「この写真機は、露光にとても長い時間が掛かるのが特長です。風景撮影ですら、最低でも一時間は必要です」
「一時間?」
ぎょっとしたようにルーファウスが声を挙げる。
「風景で、です。動くもの――つまり、貴方がたの撮影には更に掛かる。ああ、護衛の方はルーファウス様の背後に。ええ、もっと近寄って」
「エリアーデ翁、その、お気遣いは有り難いが、私には最後まで出席するという……」
「万が一お父上になにか聞かれたなら、“記念写真を撮影するように、是非にと、爺がうるさかった”とお言いなさい。ほら、お二人とももっと寄って。もっとです。その距離ではカメラに収まりません」
「あの、お言葉ですが、これ以上――」
老人に言われるまま、互いに距離を詰めていた二人だったが、椅子に腰掛けたルーファウスの髪がツォンの腹に触れそうなまでに近寄ったところで、ツォンのほうがとうとう音を上げた。
「職務上、これ以上の接近は望ましくないので、ご遠慮申し上げたいのです」
「職務上、ね」
座ったままのルーファウスがツォンの言葉に肩を震わせる。だがその揶揄を無視して、ツォンは硬い表情のまま立ち止まり、それ以上は動こうとはしなかった。
「申し訳ない、エリアーデ翁。この者は、こうなったら梃子でも動かない」
「構いませんよ。それでは――ああ、お二人とも、もう動かないでくださいよ。喋るのもなしです。口周りだけ、幽霊のようにぼやけてしまいますからね」
*
いま、ここに一枚の写真がある。
モノクロームが褪せてセピアになった写真の中央には、二人の少年が写っている。一人は金髪で椅子に腰掛けている。足を組んでなかなかの貫禄ではあるが、まだどこかぎこちなく、威風堂々の訓練といった趣だ。もう一人の黒髪の少年は、座る金髪の少年のすぐ後ろに立っている。無表情に徹しようとしてはいるが、戸惑いとためらいの感情が彼に初々しさを与えている。二人は寄り添うというわけでもなく、しかし他人行儀というわけでもなく、親しさと社会的地位の距離のあいだで揺れ動いているように見えた。
ぎこちない二人の輪郭はわずかにぶれている。ことに金髪のほうのブレは激しく、長い露出時間に耐えきれなかったことが窺えた。
さらに良く見ると、もうひとつ人影があることに気づくだろう。
手前の二人よりもずっと奥、背景にそびえるおおきな棕櫚の影に隠れるようにして、《彼》は立っている。すらりと伸びた長身を包む衣服は、多少古めかしくはあるものの上等な生地であることが一目で見て取れた。行儀良くなでつけられた美しい巻き毛が目を惹く。だが奇妙なことに、正面を向いているはずの顔は、そこだけ靄がかかったようにぼやけている。そしていちばん特徴的なのは、その輪郭だ。肖像写真の背景に溶け込むようにして佇むその青年の輪郭は、中央の少年二人と比べ、圧倒的にくっきりしている。背後に生い茂る植物たちと比べてさえ、その境界は際だって明瞭だ。
ダゲレオタイプの世界では、死者こそが正しい。たえまなく揺れ動く生者たちの境界はぼやけ、死者たちこそが明確にその存在を主張する。
青年が誰なのか、何故そこに《いる》のか。はっきりしたことはわからない。だが、鬱蒼と茂る秘密の庭は、はたして本当に追憶の記念碑だったのか。もしかしたら、それは罪の墓標ではなかったのか。
あれこれ考えてみたところで、結局のところは空想でしかない。
「ツォン。何をしてる」
不意に声がして顔を上げる。見れば、オフィスの入り口にルーファウス神羅が立っていた。
「ああ、社長。――すみません、ちょっと」
「なにが“ちょっと”だ」
隠すなよ、と笑う彼の声を聞き流し、私はそっと写真を抽斗にしまう。
「なんでもありませんよ」
「そんな穏やかな顔をして、何でもないことはないだろう。おい、一体何を見ていた?」
あの青年は、今もあの庭で立ち尽くしているのだろう。死者は動かない。ずっとそこにいる。
そして、いつか我々も《そこ》へ行く。偽りの約束された地などではなく、必ず訪れる安息の地へ。
その予感は、何故か私に安らぎを与える。
「我々の、未来を」
怪訝そうに眉根を寄せている彼に答え、私は静かに微笑んだ。
(了)
こちらは、10/10に開催された「ツォンルーワンドロ&ワンライ『お父様には内緒ですよ』」より、お題「お父様には内緒ですよ」をお借りして制作しました。
なお、1時間での制作に挑戦してはみたものの、私にはとても無理で……。このSSは、制作のみ(推敲はおろか誤字脱字チェックさえできておりません……面目ない)で2時間半ほど掛かっています。
それでもタグを付けていいよ!と快く許可をくださった企画主催のらいひ様(@leichmian)に、あつく御礼申し上げます。
本当にありがとうございます!