カラスにつつかれてゴミ捨て場で目覚めるなんて、ドラマか他人の笑い話にしか存在しない状況だと思っていた。だがいま、まぎれもなく俺はゴミ捨て場で無遠慮なカラスどもにつつかれて目ざめ、おまけに裸足だと気がついたばかりだ。
頭がド派手に痛み、目がチカチカする。身体じゅうがズキズキするが、これはおそらく路上で寝ていたからだ。固いところで寝ると体は痛む。いくら箱入りでもそれくらいは知っている。
痛いのをだましだまし、ジリジリと身を起こしていく。我ながらみっともないうめき声が上がったが、構うか、どうせカラスしか聞いていない。
昨晩の記憶を探る。
ツォンと会食――思い違いではない、ツォン「と」会食だ――をすることになっていた。だが直前、ツォンのほうに仕事が入った。
予約した席に現れた彼は、申し訳なさそうにその旨を告げた。
で、俺は怒った。
彼はタークスで、仕事が優先なんて言葉にするのもくだらないほど当然のことはもちろん俺もわかっている。にもかかわらず、なんだかわからんが、断る奴の姿がやたらムカッと来たのだ。それで俺はゴネた。ツォンはVIP席なんか嫌がるだろうと、わざわざ予約した普通のソファ席で尊大を足を組みながら、こんなことすべきじゃないと思いながら、ぐたぐだと拗ねつづける口を止めることができなかった。この手の感情の暴走は、箱入りの弱点だ。
「お前の仕事なんか、代わりはいくらでもいる」
そう言った瞬間、しまったと思った。あわてて彼を見上げると、無表情のツォンが、無感動に俺を見下ろしていた。
肝が冷えた。それと同時に、テーブルの上に札束が置かれた。ツォンが置いたのだ。
「何だ、これは」
「キャンセル料です」
感情の通わない口調がそう言ったのを聞いたとたん、頭に血がのぼった。よく「怒りで目の前が真っ赤になる」なんて表現を聞くが、その感覚が嫌ってほどに理解できた。
考えるよりも先に手が、というか、拳が動いていた。
記憶はそこで終わっている。
ツォンに殴りかかればどうなるか、わからないほど俺はバカではない。というか、そもそもの原因が、彼の体術をこの目で見たことから始まっているのだ。
もっとも、ツォンが肉体を駆使して戦う様はめったにお目にかかれるものではない。中間管理職(この世でいちば不毛かつ消耗する役職だ)にならんとするツォンは、今まさに第一線から退く訓練をしている途中だ。だから、ほんらいであれば肉体を用いて戦うなど、あってはならなかった。彼が現在学ぶべきは人間の制御方法であり、マネジメントだ。
だが数ヶ月前、俺がちょっとした事件を起こした。
その日、つきまとう護衛集団に嫌気が差した俺は、彼らをまんまと出し抜いて一人になり、「貧乏な人たち」が集う歓楽街へと急いでいた。
あとはまあ、お察しの通り。
薄暗い路地を、無防備に金の匂いを撒き散らして歩く若い男に目を付けたのは、ピンクのモヒカン頭だった。独特の蛇行する歩き方で近づいてきたモヒカンは、俺に何かを語りかけたようだったが、あいにくその発音は独特で、俺には理解できなかった。
「失礼?」
そう問い返した瞬間、モヒカンはナイフを取り出して体勢を低くした。
「ぅらぁ」だか「っすたらぁ」だかの音を彼が発したと同時に、黒い影が視界に飛び込んできた。次の瞬間、モヒカンは地面に倒れていた。
「ご無事で」
モヒカンを踏みつけながら、そう言ってふり向いた黒い影の正体はもちろんツォンで、無表情だったがものすごく怒っていた。
そりゃ怒るだろうな、と俺は思った。
けれど俺は、謝罪するかわりに「その技は私でも使えるか」と訊いた。
ツォンの細い目が一瞬カッと見開かれたような気もしたが、彼はとくに声を荒げることもなく、ただ静かに「練習すれば」と答えた。教えろと頼んだら断られた。じゃあ実戦で盗むと殴りかかったら、次の瞬間には地面に倒れていた。もちろん俺が。
だが、逆にその体験が俺に火を付けてしまった。
ツォンの使う魔法みたいな武術を、何が何でも習得したくなった。で、ことあるごとに彼を付け回し、教えろと迫り、そのたびにべもなく断られつづけた。
仕方ないので、最終的に奴の部屋まで押しかけた。徹夜明け、自室のドアを開けたらソファでくつろいでいる俺がいたときの奴の顔は、まさに見ものというやつだった。これ以上は死ねないはずのツォンの目から、完全に光が消えた。ブラックホールみたいで綺麗だなと褒めてみたが、返事はなかった。
そうやって、観念した奴に教えを乞うたはいいのだが、その後がよくなかった。
奴が俺に教えたのは筋トレと単純な型の反復ばかりで、まったく面白みがない。まあ、そこまでは予期していたから、まだ良かった。最悪だったのは、動物のマネをしろと強要されたことだ。猿やら蛇やら、どう考えても面白い見た目のやつを真似しろとツォンは言った。恥ずかしさのあまり、馬鹿にしているのかと怒鳴ったら、「あなたこそ馬鹿にしてるんですか!」とめったに聞けない激しい口調で怒鳴り返された。
「師弟になれぬのなら、伝授など不可能。それはたとえ相手が副社長であろうとも、です。訓練のことは、どうぞご放念ください!」
あんなふうにヒステリックに怒る奴だとは思っていなかったので、怒られて俺はびっくりした。そして、びっくりしているうちに部屋の外に放り出されていた。
あとから調べてみたところ、ツォンの用いる武術はかなりローカル色が強く、それゆえ礼だとか尊敬だとか、スピリチュアルな方面が重要視されているものらしかった。
マズったなと思った。
正直にいうなら、ド僻地の田舎武術に敬意を払う気はまったくなかった。だが、ツォンがそれほどまでに故郷のルーツを大切にしているとは思ってもみなかったのだ。たしか、あいつは十七、八の頃に生まれた村の虐殺(ああ、公的には「再教育および大規模移動」だが)に参加している。こちらが考えていた以上に複雑な想いを持ち続けているのかもしれない。そこを刺激したのは悪手だった。
冷静に考えれば、彼にそんな試練をわざと――まあ間違いなく敢えての人選だろう。そうやって大切なものを剥ぎ取って、こちらに囲い込むのがオヤジは好きだ――与えたのは神羅なのだから、今さらその奪ったモノに敬意を払うもクソもない。けれど、ツォンから侮蔑の念を持たれること、もっと有り体にいえば嫌われることを想像すると、それはとてもつまらない気がした。
もっとあいつと遊びたい。
俺はそう思った。
だから、仲直りしようと思ったわけだ。
だが、そこからが箱入りの悲しいところだった。奴が何を好むのか、まったくわからないのだ。ふだんは仏頂面だし、誰かかが冗談を言ってもニコリともしない。いや、万が一ニコリとしたときはむしろ機嫌が悪く、危険信号ですらある。金に興味があるタイプではない。権力にも無関心だ。
酒も、煙草も、たしなみはしても嗜好というほど執着していない。女なんてさらにダメだ。あの堅物に女を世話するなど、考えるだに恐ろしい。きっと二度と口をきいてくれなくなる。
教えを乞いに彼の部屋に侵入した際、ひととおり家捜しもしたのだが、なにか特別な趣味がある様子は見受けられなかった。
仕事人間。
仕事の外でつるもうとするとき、いちばんやりづらいタイプだ。
考えれば考えるほど手詰まり感が強まったある深夜、とうとう俺はひとり副社長室で笑いだした。こんなふうに一人の人間の事だけを考え続けるなんて、まるで恋じゃないか、と。
そしてひとしきり笑ったあと、はたと思いついた。――恋だと仮定してみたらどうだろう?
彼は、まったくの他人というわけではない。彼ならば連れ立って歩いて問題が起きることもない。そういう類いの人間と、さらに距離を縮めるとき、通常選択する行為とは……
「食事だ」
そのとおり。食事に決まってる。そして、俺は猛然と食事デートプランを練り始めた。目にモノみせてくれるぞ、ツォン。俺の対人スキルを舐めるなよ、と――。
そして、ご覧の有様というワケだ。
殴りかかったのは店内だったから、おそらくツォンに気絶でもさせられて、それでこのゴミ捨て場に捨てられたのだろう。
なぜあんなことを言ったのだろう。昨夜の俺の態度は、ようするに俺より仕事を取るのか? だ。ガキというよりメンヘラだ。あんなに腹が立ったのは、律儀にレストランまで来て心底申し訳なさそうに、しかしビジネスライクな口調を崩さずに、理路整然と断りを入れてきたからだ。あれじゃあ文句のつけようがない。
うあー、と意味のない声をあげる。
なにを言ってるんだ。支離滅裂だ、メンヘラどころの騒ぎじゃ無いぞ。しっかりしろ、ルーファウス神羅。
いつの間にかカラスはいなくなっていた。
ビルの立ち並ぶ狭い空は朝焼けで色づき始めている。
昨夜予約したレストランの裏口が、道路を挟んだ向かいに見えた。ドアの上部に散り付けられた、付けっぱなしの蛍光灯がジジ、と点滅を繰り返している。
ゴミ臭い。
「いくらなんでも、俺をゴミとして捨てる奴があるか」
神羅カンパニーの御曹司だぞ、クソが、と悪態が口を突いて出た。
と、不意に背後で声がした。
「捨ててませんよ」
「……いたのか」
「はい」
「どのくらい」
「ずっと」
「……嘘をつ」
「嘘ではありません」
地べたに腰を下ろしたまま、俺はぐるりと頭を巡らす。ふり仰ぐ。
直立不動の姿勢で、ツォンが立っていた。いつものように。
「昨夜からずっと私を見てたのか、そこで」
「ええ」
そう答え、意外にもツォンはすこし微笑んだ。
「白状するなら、捨てて行こうとは思ったんです」
「そうすれば良かったんだ。誰かに回収しに来させれば、それで済んだだろうに」
「ええ。ただ、貴方の体ををここに放り投げて、ゴミと一緒に無様にノビている貴方を見て、ふと思ったんです。――こんなにムカついたのは、いったい何年ぶりだろう、と」
「……は?」
「ここまで私をムカつかせた人間の、一番無様な姿を見なくて良いのか? と」
「一番、無様……」
「ええ。当然それは目ざめたばかりの、無防備に驚愕する表情でしょうね」
「……靴」
「はい?」
「なんで靴を脱がせた」
「ああ」
ツォンは不敵に笑うと、言った。
「嫌がらせです」
声も出せずにあっけにとられる俺に、「タークスは舐められたら終わりですからね」と彼は涼しい顔で言ってのけた。
早朝の路地裏、ゴミにまみれて、俺は腹を抱えて笑った。
こみあげる感情を、押し止めることなど出来なかった。それが、みっともない俺自身に向けた嘲笑だったのか、それとももっと別の感情だったのか。その時の俺に、判断する術はなかった。
俺はただ、ひたすら無邪気に笑いつづけた。
無邪気は、箱入りの特権だから、な。
(了)
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前回1時間で書き上げるということができなかったので、練習です。
ぶっつけ本番はやっぱり話がふわふわするし、むずかしかったです……。ていうか正確には1時間12分かかってますね……。むっっず!
ツォンさんが使ってる武術ですが、シラットのイメージで書いてます。
シラットかっこいいし、演武も美しいから好きなんです。ツォンさんにやってほしい。って何回言うねん。何度でも言うよ。
なお、お題はお題ガチャからお借りしました。
【ガチャ結果】
No.5041 ゴミ捨て場
No.4462 裸足
No.4756 キャンセル料
https://tango-gacha.com/?words=5041.4462.4756