子供の手を引いて、野球場を歩いていた。
アメリカにいるのだということは、なぜか理解していた。夢では良くあることだ。
整備されたグラウンドに選手たちの姿はなく、観客席も無人だ。
軍に接収されてしまった故郷のものとはレベルが違う球場だった。広大で、清潔で、そして人工的。どこの角度もピシリと鋭角的にキマっているし、グラウンドはそれが土であることを忘れるほど平らかだ。歩いても、土埃ひとつ舞わない。
手のなかにある細い手首と、滑らかな肌の質感で、子供は十代だと知れた。少年だ。
ずいぶん長いあいだ、こうして一緒に歩いている。それなのに彼はいちども口を利いていない。
私は振り返る。
真っ白なシャツと赤い肩章がまっさきに目に付いた。幼く、弱々しい体つき。彼はおもむろに立ち止まると、うつむけていた顔をゆっくりと私のほうに向けた。真っ直ぐな黒髪がわずかに揺れ、とがった顎の線が明瞭になる。広く、美しい額が露わになる。
貌のあるべき場所には何もなかった。
煙のように、何か不定型なゆらめきが渦巻いていた。
ああ、懐かしいな、とおもう。
*
壁のすきまから漏れる、弱々しい朝の光を頬に感じる。
ダニーは目を開き、古ぼけた天井を見つめた。
粗末な寝台に横たわったまま、ぼんやりと意識をさまよわせる。夢を見ていたことはわかるのに、それがどんなものだったかは、すでにおぼろげになりはじめていた。最近はいつもこうだ。
夢を見るのに、覚えていられない。
それでいて、「同じ夢を見つづけている」という感覚だけは募っていく。
雨音がしない。
天気予報は外れたらしい。
十一月の空は曇りがちだから、外に出る億劫さはいくらかマシだ。とはいえ、人に会えばなにかと面倒なことに変わりはない。一年経った今でもダニーはあいかわらず“ヒーロー”だ。表舞台にはめっきり姿を現さなくなったせいで伝説化に拍車が掛かっているという、ありがたくもない情報は、現在も継続して仕事を受けている数少ない取引先からもたらされたものだ。
「よけいなお世話」
独り言を口にすると、キッチンの方からクゥン、と情けない鳴き声がした。
いけない、ご飯。
ダニーはようやく起き上がり、のそのそと動き出す。キッチンに向かうと同時に、白黒ブチ模様の牧羊犬がタタタと足早に駆け寄ってくる。
「ごめん。すぐご飯あげるよ、ブンブン」
謝りながら、戸棚からドッグフードを取り出す。“BOOM-BOOM”と書かれた床のボウルにざらざらと中身を開けると、犬は一声鳴き、飛びつくようにして貪りだした。
最近、ダニーの話し相手と言えばもっぱらこのブンブンだけだ。
グアポもチョリソーも、カスティロの一件以降、元の主のところに帰した。
オルソはめったに姿を見せなくなった。ダニーのあまりの腑抜けっぷりに怒っているのかもしれない。その証拠に、といっていいのか、チチャロンなどは最近ダニーがそばを通りかかると威嚇してくる。いまや立場が逆転し、反乱勢力へと堕した国防軍への対処にかんしてダニーはあまり積極的でない。誇り高き鶏にとって、そんなダニーの曖昧な態度は許しがたく映るのだろう。まあ、気持ちはわかる。
おそめの朝食にありつくブンブンの横で、自らもシリアルと牛乳だけの食事をとりながら、ダニーは携帯電話が明滅していることに気づいた。いや、ほんとうは起きたときから気づいてはいたのだ。中身を確認する気になれなかっただけだ。
ただの広告か、せめてテキストメールであってくれ、とおそるおそる画面に手を伸ばす。「着信:3件 ボイスメッセージ:1件」という文字に次いで、着信相手の名前を確認し、ダニーは無念の唸り声をあげた。
「ずいぶんな反応じゃないか、ゲリラ」
背後から聞きおぼえのある声がするのと、ブンブンが激しく吠え出すのは、ほぼ同時だった。弾かれるように振り返り、反射的に抜いたハンドガンを声のするほうに向ける。琺瑯製のボウルが派手な音をたてて転がり、ミルクとシリアルが床にぶちまけられた。
銃口の先には、ドアを薄くひらいて佇む男の姿があった。たった今、画面で名前を確認したばかりの。
「連絡が遅い奴は、クライアントからの信用をなくすぞ」
今いちばん聞きたくない声が、どこか嬉しそうに言う。
「不法侵入者は、問答無用で射殺されても文句を言えないね」
銃口を向けたまま、ダニー苛ついた口調で言い返す。
いきり立つダニーとは対照的に、男は余裕綽々といった様子で両手を挙げてみせ、視線で家と外の境界線を示した。
「まだ入っていないが」
「ひとんちのドア勝手に開けたら、入ったのと同義でしょ」
「ロハス宅の境界線の定義について言い争う気はない。とにかく入れてくれ、濡れる」
そう言って、ベンベ・アルバレスは外を顎でしゃくった。
いつの間にか、雨が降り出していた。
(続…かない)