2.
ホテルのフロントと呼ぶのも躊躇われる、不潔で狭いブースは、男か女かの区別もつかない係員の巨体で満ちあふれていた。
蓬髪を振り乱した老年のフロントマンは、受付に現れた客――中年男と若い男娼の二人組をろくに見もせず、自分の肉と壁のわずかな隙間を苦労して探り、部屋のキィを取り出す。くしゃくしゃになった紙幣と引き換えにキィを放り出し、またすぐに手元のクロスワードパズルに目を落とした。
場末の売春宿らしく、壁にも階段にもいたるところにひびわれが走り、全体的にくすんでいる。フロント奥の古いエレベータには、故障中の札がかかり、消えかけた常夜灯が明滅していた。
キイに記された数字を見れば、四階の十三号室。
おあつらえ向きの不吉な部屋番号に、アーミテイジはこらえきれずにはしゃいだ笑い声を漏らす。いまやアーミティジに溶けてくっつかんばかりに密着した今夜の獲物が、何を勘違いしたのか、つられたように嬉しそうに笑い、べろりと頬を舐めた。
愚かなオスが発する脂じみた性欲が全身にまとわりつく。
「ねえ、はやく」
わざと呂律の回らない口調で誘いかけながら、彼はあからさまに男の一物をさすりあげてみせた。螺旋階段を足早に駆け上がり、男の手を引く。ぐふぐふと唇の端に泡を溜めながら、みっともなく前のめりにアーミテイジを追いかける男を見下ろしながら、アーミテイジは期待に胸を躍らせる。
――今から俺は、お前に犯される。薄汚くて、愚鈍で、穢らわしい、ケチで冴えない中年に。
そう思うだけで、肚の底からゾクゾクと悦びが這い上がってくる。昂奮でめまいがした。
*
土曜の夜、モーテルはどこも満室だ。薄い壁やドア越しに、男女の別なく喘ぎ声や悲鳴が響いている。吐き気を催すほどの濃厚な性の匂いに満ちた廊下を駆け抜け、目的の部屋|十三号室のドアを蹴破るようにしてなだれ込む。
が、ドアは少しだけ開けておく。彼のために。
奥のベッドまで行く間ももどかしかったのか、部屋に入るなり男がアーミテイジの服を剥ぎ取り始めた。ジャケットが床に落ち、シャツを乱暴に引き裂いた男は、そこで大きな喜びの声を上げた。
「驚いたな」
ボタンの取れかけた白いシャツの下からは、女物の真っ赤なスリップドレスが覗いていた。アーミテイジの白い肌に、サテンの血のような深紅が映える。
「嫌いか?」
媚びるような上目遣いで、アーミテイジが甘えた声を出す。
「兄ちゃん、あんた、いったい何者なんだ」
ヤニ下がった男は、嬉しそうに何度も肌着の上から彼を愛撫する。とろりとした手触りは、それがとんでもなく高級なシルクであることを物語っていた。
「ヤるのが好きなだけだ……ひどくされるのも」
熱い吐息を漏らしながら、アーミティジは男の前に跪く。
「あんたは? いたぶるのは趣味じゃない?」
みっともなく盛り上がった股間に、見せつけるように布の上から直接べろりと舌を這わせる。安価で粗雑な生地のざらりとした感触と、砂埃とアルコール、そして小便の味が舌を刺す。毛羽立った繊維が舌に絡みつき、アーミテイジの肌は嫌悪と恍惚に粟立った。
「ハ、とんだ淫乱がいたもんだな」
どろりと淀んだ男の瞳が、鈍く光る。男は勢いよく下着ごとズボンを降ろすと、ベルトを引き抜いた。そして股間にへばりついて離れないアーミテイジの前髪を鷲掴みにし、引きはがす。
「たっぷり可愛がってやるよ、お嬢ちゃん」
アーミテイジの瞳が、歓びに爛々と輝きだした。
*
いくら飲んでも酔うことはできない。
今夜何杯目になるかわからないウィスキーのグラスを干し、レンはぼんやりと店内に視線を泳がせた。彼の座るカウンター最奥からは、店のすべてが見渡せる。店のステージでは、地元のピアノ・トリオがスタンダード・ナンバーを奏でている。
レンの出番はとっくに終わっていた。
アーミテイジが男と店を去ってから、二時間が経過しようとしている。
店の壁と一体化したかのように気配のないレンは、しかし良く見れば女性なら誰でも、いや、同性でさえ見惚れるほど整った顔立ちをしていた。
高くとおった鼻筋に、くっきりとした眉毛、その下に収まる大きな鳶色の瞳。
しかし、そんな甘いマスクを台無しにするように、ゆるくウェーブがかかった豊かな黒い髪はぼさぼさで、冴えなかった。不揃いに生えた鼻下と顎の髭も、ハンサムというよりは貧乏な哲学者のような印象を与えるのに一役買っている。
「ブルー」
そろそろ暇になってきたバーテンダーが、レンに声をかけた。
ジェームズという名のこのアジア系の男は、口数が少なく、仕事は正確無比、バーテンダーの鑑のような人間だ。余計なことを一切言わない彼はまた、人を見る目も確かだった。そんなジェームズが、レンに付けたあだ名が「ブルー(憂い顔)」。いつもカウンターの奥に陣取り、出番のないときはひたすらに店内を観察しているレンに対して、君は闇に溶け込む暗殺者のようだな、とからかったのも彼だ。
彼の観察眼はなるほど確かだと、後々レンは思い出すたびに感心することになる。言い得て妙だ。レンの仕事は、アーミテイジのカモの確保と、その始末なのだから。
「忘れないうちに渡しておくよ。今週分だ」
臨時の穴埋めサックス奏者として雇われたレンの給料が入った封筒が、目の前に差し出された。レンは黙って受け取り、中身も見ずに革ジャケットの内ポケットにしまいこもうとして、思い出したように言う。
「酒代は。俺と、あとアイツの」
「給料から引いてある……わけじゃないが、いいさ。俺の奢りだ」
「そういうわけには」
「よく働いてくれたからな。初週サービスってやつだよ」
来週分からはきちっと払ってもらうぞ、と快活に笑うジェームズに、レンは済まなそうな顔を向けた。
「ありがとう。助かる」
そう言った傍から、空になったグラスを見つめる。
やたらに喉が渇く。が、もう一杯飲んだところで、何も変わりはしない。
――あいつは今頃、あの男の……
ずぶずぶと暗く燻る思考は、けれどジーンズの尻ポケットで震える携帯電話によって断ち切られた。
呼吸が一瞬止まり、やがて心臓が早鐘のように鳴り出す。レンは、自分自身を焦らすかのようにわざとゆっくりと電話を取り出し、画面を確認した。
アーミテイジからだった。
「あんた、うちの専属になる気はないのか」
凍りついたように携帯の画面に視線を固定しているレンに、ジェームズがさりげない口調で切り出す。
レンがハッとして顔を上げる。
「すまない、なんだって?」
「うちの専属になる気はないかって聞いているんだ。ボスがあんたのサックスを気に入ってね。客からの評判も良い。もしあんたさえその気があるなら――」
レンはジェームズの言葉を遮って言う。
「ありがとう。けど、遠慮しておくよ」
「彼女(あの男)かい」
いつもらしからぬ調子で、ジェームズが鋭く問い返した。レンは答えない。
「なあ……余計なことは、言いたくないんだが」
そこで一旦言葉を切り、
「あれは、良くない男だ」
「……そうだな」
ジェームズは、じっとレンを見つめる。
レンも、無表情にジェームズを見つめ返した。
優しげなレンの面立ちの奥に、底無し深い沼が巣食っている。その沼には、得体の知れない生き物がいる。
じっ、と息を潜めて、こちらを窺っている。
不意にそんなイメージが頭をよぎり、ジェームズはぶるりと身震いした。
「もう行くよ」
レンは立ち上がる。先ほどの不気味な気配は、嘘のように消え失せていた。穏やかな笑みを浮かべ、レンは軽く手をあげる。
「あ、ああ。そうか」
「おやすみ、ジェームズ」
「また明日」
ジェームズは静かに去っていくレンの後ろ姿を眺める。
ドアが閉まる直前の風圧に乗って、腐敗臭のようなにおいがジェームズの鼻先に届いた気がした。
しかし、それもすぐに消えてしまった。