「観念しろ、ヴァンパイア。父と子と精霊の御名において……」
充分な距離を取りながら、十字架を突き付け威嚇しつつ入り口をふさぐ。これで奴の逃げ場はない。
しかし、標的はいっこうに反応しない。諦めたのだろうか、先程から赤毛の男は肩を落とし、その場に棒立ちになったままだ。薄汚れたコンバースとジーンズを穿いた、一見するとただの背の高い若者だ。しかし、惑わされてはならない。
彼は、現代に生きる本物の吸血鬼なのだ。
気を抜くな。
アダムは油断なく目を光らせる。
標的の男は背が高いが、対峙するアダムも負けてはいなかった。がっしりとして作り込まれた逞しい体躯は海軍仕込みだ。現代にしてはいささかな古風な黒ずくめの衣装だが、それは代々続く吸血鬼狩人としての矜持が選ばせた由緒正しい法衣だった。
今日という日は、アダムの狩人としてのスタートになる。だからこそ失敗は許されない。
相手は狡猾で名高いバケモノだ。
いつ、どんな手で――。
ぐう、と吸血鬼の腹が鳴った。
びくっと身を震わせたアダムとは対照的に、吸血鬼の顔がみるみるうちに赤く染まり、情けなさそうに歪んだ。
「わあ! す、すみません、こんな時に!」
素っ頓狂な声をあげて吸血鬼が謝った。
ぎょっとするアダムに頓着することなく、吸血鬼は一人、わあわあと焦っている。
「あ、あの、どうぞ! 気にせずお祈りを続けてください! 僕も祈りますから」
そう言って自ら地面に膝を突く。そのまま両腕を頭の後ろで組むと、彼は独り言のようにつぶやいた。
「死ぬときまでみっとないな、僕。あ、あの」
上目遣いにアダムの方を見やりながら、おどおどと口を開く。
「い、今のおなかの音、聞かなかったことにしてもらえませんか……?」
「あ?」
「わーっわーっ! すみませんすみません! 図々しいこと言いました! 大丈夫です言いふらしてください!」
アダムが強い口調で問い返すと、彼は慌てたようにそう喚き、ぎゅっと目をつぶってしまった。
よく見れば、カタカタと小刻みに震えてさえいる。
アダムは目を丸くした。
聞いていたのとぜんぜん違う。
彼が父から聞いていた吸血鬼達はみな、祓おうとした瞬間に本性を剥き出しにしたという。人間とはかけ離れた運動能力で壁を走り、怪力で狩人を叩きつけ、あるいは不思議な精神感応で眩惑してきた、と。
しかし目の前にいるこの男はどうだ。
吸血鬼は金髪碧眼の美丈夫がデフォルトだとばかり思っていたのに、彼は見事な赤毛と灰色の瞳、ひょろひょろの青びょうたん。
アダムと邂逅した瞬間から、ずっとびくびくしどおしだ。しかも異様に腰が低い。
欺くための演技の可能性もあるが、演技であそこまで情けない顔ができるのだろうか。
先程までの高揚もどこへやら、今やアダムの頭は混乱で溢れかえっていた。
*
なんでこんなことになってるんだ。
アダムは頭を抱えていた。
二人は、薄暗く黴くさい地下室の床に向かい合って座っている。
アダムは壊れかけた木の椅子に。
吸血鬼は床にへたりこんでいた。
あの後も吸血鬼の腹の虫は鳴り続け、吸血鬼はひたすらに謝り倒した。アダムは、やる気をなくしていた。
「お前、そんなんで今までどうやって生きてきたんだよ」
警戒する気力すらなくしたアダムが、力なく問う。
「父が。あ、父と言っても、もう90歳超えてたんですけど。あの、その父が、自分の血を分けてくれてました。あ、父を責めないでくださいね。僕が間抜けだっただけで、父には何の責任もないんです」
「いや、責めないけど、別に」
「ありがとう」
心底ほっとしたように吸血鬼が微笑む。そのあまりに人の良さそうな人懐こい笑顔に、思わず怯む。
いや、騙されるな。こいつはこうやって騙し討ちして生き延びてきたタイプなのかもしれないぞ。そもそもその父とやらを殺した可能性だってある。
「だから、そんなにひょろひょろなのか」
そう問い質してしまってから、アダムはしまった、と内心舌打ちする。バカか俺は。相手のペースにはまってどうするんだ。
「え? あ、ええ、まあ」
アダムの葛藤など知らない吸血鬼は、気まずそうに苦笑する。その姿は、ただのそこら辺にいる気弱そうなオタクにしか見えなかった。
「情けないですよね。文字どおり父に〝食わせて〟もらうなんて」
「最後に腹いっぱいになったの、いつだった」
その質問に、吸血鬼はきょとんとする。
「ええと、どういう意味ですか?」
「だって、どう考えてもお前、父親の血だけじゃ足りないだろう。いつも腹ペコだったんだろ。最後に満腹だなって思ったの、いつなんだよ」
「ああ……」
しばし考え込んだ彼は、
「よくわからないな。こんな身体になっちゃってからは、お腹いっぱいっていう感覚を忘れちゃいました」
そう言ってへらへらと笑った。
「ヴァンパイアになったのはいつだ」
「5年くらい前です」
「それ以来、一度も」
「はい。――あの、それが何か?」
いつまでも続くアダムの質問をさすがに不審に思ったのか、吸血鬼が心配そうな顔をする。
一方のアダムは、自分がどんどん深みにはまっていくのを止められずにいた。
いくらなんでも不憫じゃないか。
五年のあいだ地下に閉じ込められて、何もできず、腹を減らし、死だけを望む日々なんて。
黙りこんでしまったアダムを不安そうに見つめていた吸血鬼が、やがてたまりかねたように沈黙を破った。
「あのう、気絶させて貰えませんか」
「――何だって?」
物思いに耽っていたアダムが聞き返す。吸血鬼はもじもじと下を向いた。
「その……痛いんですよね、やっぱり。心臓に刺すんですもんね?」
吸血鬼の視線は、アダムが手に握りしめている杭のあたりをちらちらとさまよっている。
「僕なんか生きてても誰の役にも立たないし、仲間とか、襲われた夜以来一度も見てないし、ていうかそもそもこんな状態って生きてるのかどうかも怪しいし。だから、死んじゃっていいと思ってたんです。ずっと。父が死んだら僕も死のうって。本当ですよ、嘘じゃない。けど、実際にその杭を見たら、その……怖くて……」
吸血鬼の表情が、みるみるうちに泣きそうに歪んでいく。
「だから、縛ってくれても、何されてもかまいません。ただ、グサッとやる前に、できれば意識を失わせてほしいんです。じゃないと僕、も……も……」
「も?」
「ももも、漏らしちゃうかも、しれなくて……ッ!」
うわあ、と叫びながら、吸血鬼は両手で顔を覆った。
「ヴ、ヴァンパイアだから、おしっことか基本はしないんです、しないんですけど、なんか……なんか出そうで……! それだけは、避けたい!!」
アダムは天を仰いだ。
ダメだろ、これ。
ぜったい無理だコレ。
殺せない。
殺せるわけがない。
ひたすらめそめそし続ける吸血鬼を前に、アダムは途方に暮れる。
俺の記念すべき初陣の獲物がコレだなんて、冗談じゃない。こんなの、ただの弱い者虐めになっちまうじゃないか。
クソ、どうしてこんなことに。
ぐぬぬ、と歯ぎしりするアダムに気づき、何を勘違いしたのか吸血鬼は、うええん、と泣き声をあげた。
「な、泣くな、ヴァンパイアのくせに」
「ずみまぜん、ずみまぜん」
顔面を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながら、吸血鬼が懸命に謝る。その姿は、哀れ以外の何者でもない。
ああ。もう。
「わかったよ!!」
アダムは叫ぶや否や、持っていた杭で自分の掌に切りつけた。
「ちょ、な、何してるんですか、あなた!」
動転した吸血鬼が尻餅をつく。
アダムの掌からは真っ赤な鮮血がみるみるうちに溢れ出す。その掌を吸血鬼に向け、アダムは言い放つ。
「ホラ、やる! 飲め!」
「ち、血、血ィ出てますよちょっと!! はやく、はやく手当て」
「手当て、じゃないだろ。本能ないのかお前は!」
「無茶言わないでください、必死に抑えてるん……う、うわあ、はやく止血して! じゃないと、じゃないと僕」
あたふたと騒ぐ吸血鬼の目は、そう言う間にも徐々に赤く光り始める。呼吸が荒くなり、急に顔つきが鋭さを増していく。あわあわとわななく口許からは、先程までは見えなかった鋭い八重歯が顔を覗かせていた。
ああ、やっぱり本当にヴァンパイアなのか、こいつ。
アダムはどこか他人事のように納得する。
「それで良いんだよ。ほら」
食えよ、と言おうとした刹那。
ばちーん、と派手な音が地下室に鳴り響いた。
吸血鬼が、自分の頬を自分で張り倒していた。
「お前、何やって――」
あっけに取られるアダムを尻目に、吸血鬼は再び、自分をひっぱたいた。続けて一度。もう一度。
吸血鬼はひたすら自分の頬を張り続ける。ばちん、ばちんと張り手の音が響き渡る。そうしながら、彼は悲痛な声で叫んだ。
「はやく、はやく血を止めてください!」
「いや、だから、俺の」
「イヤだ!」
青白い頬を真っ赤に染めながら、必死な形相で吸血鬼が吼えた。
「ぼくは、人を犠牲にしてまで、生きていたくない!」
その声に、アダムは殴られたような衝撃を覚える。
こいつ、本気で。
そう思った瞬間、アダムの体は反射的に動いていた。
「いいから、俺の血を啜れ!」
言うが早いか、アダムは杭を投げ捨てると吸血鬼の身体に馬乗りになった。彼の鼻先に流血する己の手のひらを押し付ける。
「やめて! やめてください! やあだ!!」
「やだじゃないんだよ、このクソヴァンパイア! お前には、他にやってもらうことがある! いいから! 俺が良いって言ってるんだから!」
首をぶんぶんと振り、両手をめったやたらに振り回して必死に抵抗する吸血鬼をなんとか抑え込み、アダムは彼の口を手で塞いだ。
むぐむぐと手の下で喚いていた吸血鬼だったが、しばらくすると恐らく掌から流れ出る血が唇に触れたのだろう、急に大人しくなった。
観念したように目を閉じる。
やがて、遠慮がちに掌を舌でそ、と舐める感触がし、アダムは思わず首を竦めた。
うげ、気持ち悪。
しかし彼に〝食わせる〟にはこれしかない。
仕方ないんだ、我慢しろ、と自分に言い聞かせながら、抑えつける力をそっと弱めてみる。
吸血鬼はもう抵抗していなかった。ただ静かに、アダムの掌を舐めている。
はじめは遠慮がちに。だが、徐々に抑えが効かなくなってきたのか、やがてアダムの腕を自身の両手で抱えるようにして、一心不乱にぺちゃぺちゃと啜り始めた。
アダムはそれを、珍しい動物を見るような目で眺めていた。
どうすんだよコレ、と思いながら、それでも不思議と心は穏やかだった。
「あー、食事中に悪いんだけど、さ」
アダムはふと思い立って、吸血鬼に声を掛ける。
吸血鬼がぴたりと動きを止め、のろのろと顔をあげた。瞳には薄い膜がかかったようにうっとりとしている。
唇から血を滴らせ、陶酔しきっているその表情に、アダムは今更ながらぞくりとした。しかしもう遅い。俺はこいつを助けてしまった。
「名前。何て言うんだ」
動揺を悟られまいと、何気ないふうを装い、尋ねる。
吸血鬼はしばらくぼんやりと首を傾げていたが、やがて意識のピントが合ってきたのか、ゆっくりと目に意志が戻り始めた。
「ドーナル」
彼はのろのろと、自分の名を告げた。
「ぼくの名前は、ドーナルです」
はっきりと繰り返し、ドーナルはアダムの目をまっすぐ見つめた。
「そうか。俺はアダムだ」
「アダム」
口のなかで何かを確かめるように、ドーナルは何度かその名を繰り返す。
「そうだ。……よろしく、ドーナル」
他に何と言っていいかわからず、アダムはぶっきらぼうにそう言った。
面食らったようにドーナルは目をしばたかせていたが、ややあってゆっくりとアダムの名を呼ぶ。
「アダム、あの」
ごくりと唾を飲み込むと、ドーナルは真摯な口調で言った。
「友だちに、なってくれる?」
狩人と吸血鬼は、こうして出会ったのだった。