断章 <1>・時計塔
いかにも田舎の小さなホテルには、狭いロビーと、微妙な味と値段の食堂があった。さほど広くもなく、五組ほども入れば満席になってしまうが、それでもいつもガラガラに空いていた。時折、町の名士らしき男たちが、陰気な顔で酒を酌み交わしていたりもした。
……今日は、《町》の夢か。
憂鬱な気持ちとともにあたりを見回す。
気がついたときには、僕はホテルのロビーに居て、ソファに腰掛けてロシア語の(ロシア語! ロシアってどこだ?)新聞を読んでいた。
今夜僕が訪れた夢の舞台は《町》で、窓の外を見れば、《町》には霧が立ちこめているようだった。
ここの霧はちょっとひどい。とびっきりの濃霧で、さっきまで晴れていたかと思えば、もう次には不定型な白い塊が視界を遮っている。前も後ろもわからなくなる程に濃く、重く、ひょっとすると霧ではなく意志を持った生物なのではないかと疑うことさえあった。身動きなどままならない。たいていの場合、溜め息と同時に、建物内に引き返すことになる。
《町》は、そういう「設定」であることが多いのだ。前回訪れたときは、細かい霧雨のつづく、蒸し暑い夏だった。その前なんて初夏なのに粉雪が舞った。
さて、と気分を上げるように、僕は腰を上げる。
気分転換に煙草を吸おうとして尻ポケットをさぐり、舌打ちをした。切れている。
仕方なしにフロントに向かう。
くたびれた制服に身を包んだ色の浅黒い青年が、暇そうに突っ立っていた。
ホテルを出てすぐ向かいの雑貨店になら大抵の銘柄はあると、彼は人懐こい笑顔で請け合ってくれた。向かいの通りくらいなら、さすがにこの霧でも迷いませんよ、と。
退屈していたのだろう、礼を言って立ち去ろうとする僕の袖を掴み、彼はひそひそ声でこんなことを教えてくれた。
今、《町》では謎の伝染病が蔓延し、《市》から検査のための役人が派遣されている。けれど、その病が実際どのような症状をもたらすのかは誰も知らず、だから《町》は疑心暗鬼に陥っているのだと。
お客さま、どうぞお気をつけて。
余所者は妙な目で見られますからね。
さて、この夢で何より重要なのは、《町》に訪れた僕は必ず、「出歩くな」と忠告されるにもかかわらず(いや、されるからか?)、散歩や、あるいはちょっとした用事──郵便局に手紙を出しに行くとか、唯一の雑貨店まで煙草を買いに行くとか──で出かけざるを得なくなる。そして、途中で必ず雨や霧に追いつかれ、動かない方がいいと判っているのにあちこち歩き回ったあげく、《町》のとある場所にたどり着いてしまうのである。
もちろん、今回もそうなった。
「そこ」は、《町》では《村》と呼ばれていた。
だが、はっきりとその存在を口にするものは一人もいない。《村》は、「よくない場所」だった。その忌まわしい歴史は、何世代にもわたり地層とともに折り重なった。その記憶を引きずり出すとき、人々の口は重くなり、視線は俯きがちになり、みな何かを恐れるように声をひそめた。決して《村》とも言わず、その名を口にすることもなかった。
《村》は嘘のように晴れているのが常だった。
今もそうだ。霧? なんの話だい? と言わんばかりに青空は抜けるように高く、太陽がはげしく照りつける。
《村》は、常に夏だった。
だが爽やかさにはほど遠く、歩くほどにじりじりと灼かれ、病的な暑さに顔は歪み、額には汗が噴き出す。
《村》の風景は、いっけん、まったく長閑だ。
まばらに点在する素朴な民家からは煙突の煙がたなびき、畑は青く、あるいは黄金色に実っている。遠い山の裾野に拡がる農場で牛が草を食んでいるのも見える。
そのなかでもひときわ目立つの存在があった。
時計塔だ。
《村》には、粗末だが教会が存在した。その背後に、教会よりも遙かに高くそびえ立っているのが「それ」だ。
時計塔は明らかに周囲から浮いており、時代も間違って存在しているような(もっとずっと古い、僕らの手には負えないような過去から建っているみたいな)、一種異様な空気を醸し出している。
その名のとおり、尖塔にあるのは巨大な絡繰り天文時計だ。壮麗な色硝子で装飾を施された三つの盤面が、互いに干渉し合って円を描くように動く。
尖塔は恐ろしく鋭く、どこか牢番を思わせる威圧感があった。じっさい、時計塔は監視塔であった。足下にへばりつく神の家を、《村》に暮らす人々を睥睨し、常に監視していた。邪悪の源こそが、この時計塔だった。
暑さに朦朧としながら、僕は気づけば塔に足を踏み入れている。
鐘が鳴るのを、僕は一度も聞いたことがない。
時計塔の内部は薄暗く、最上階まで吹き抜けになっていた。遙か上方から、わずかに外の陽光が降り注ぐ。中央にはどっしりとした螺旋階段が設えてあり、その周りを取り囲むように、用途不明の部屋や、埃まみれの架台式長机(載せられた燭台や豪奢な食器は蜘蛛の巣が張り、長いあいだ火を灯された形跡すらなかった)、そして、何故か膨大な量の書棚が置かれていた。棚から溢れた本は床に積み上がり、螺旋階段に気を取られていた僕は、何度かその山に蹴躓いてしまう。何世紀も誰も歩いていないような、埃の積もった石の床に、乾いた音とともに書物が崩れ、小さい虫たちの気配だけが逃げ去っていった。
僕は、憑かれたように、上へ、上へと登る。
ひたすら上層へ、微かな光に焦がれるように最上部を目指す。
そういえば、ここは時計塔の内部である筈なのに、動力らしきものも、機械も、歯車のひとつも見掛けない。何故だ、と疑念がよぎるが、それも一瞬のことだ。途中から、僕は駆け足になる。息が上がる。だが、先刻まで外はあれ程暑かったというのに、汗ひとつかかない。むしろ寒さに震える。ふと見れば、吐く息は白く濁っている。
そうしてたどり着いた最上階には、粗末な木扉がひとつ、ぽつんと佇んでいる。
もどかしく開くと、にわかには信じられないほどの大広間に躍り出る。
あの尖塔に、これほどまでの空間が収まっている筈がない。それに、あんなに登ってきたのに、これ以上の高さがあるのだろうか。目を瞠るほどに天井は高く、果ては闇に沈んでいる。
圧倒的な空間に、僕は立ち竦む。
正面には、巨大な黄金の歯車。あの時計盤の裏側だと、すぐに理解する。
そして僕は気づく。
歯車の手前に、こちらに背を向けて立つ人影があった。
《聖職者》だ、と僕は直感する。
背後で扉の閉まる大きな音がする。
影が、ゆるやかに振り返る。逆光でその顔は見えない──はずだ。
しかし、瞭然と僕は視る。
漆黒の長衣。羽織った純白のローブの裾に、呪いのように犇めく細やかな刺繍。すっぽりと肘まで覆う黒い長手袋。頭には奇妙な形の目隠し帽を被り、顔は上半分は隠されている。だが、帽子の下で尚、「彼」の瞳が軽く瞑られているのを、僕は視る。その瞳が今、ゆっくりとひらく。瞳の色は、灰と緑が混ざり合う悪魔の色──
不意に、《聖職者》が声なき口を利いた。
黒い布に包まれた細い人差し指を、口許に立てる。
「(静かに)」
指たった一本の、あくまで優雅な動きに、世界が集約された。
僕の視線は釘付けられ、動けない。ここは禁忌の広間であり、恐ろしい秘密の場所。僕は、好奇に突き動かされた招かれざる客だ。
遙か遠くにいた筈の《聖職者》が踊るように身を躱す。
その顔が、あっという間に眼前にあった。
露出した鼻から下の肌が青白い。わずかに覗く後れ毛は、光に透けて赤い。
「よく来た」
今度こそ、彼は間違いなく口を利いた。思いのほか軽やかで、どこか懐かしい響きの声が言う。
「君のことはよく知っている」
「僕を」
言い終わる前に、再び《聖職者》は人差し指を立てた。僕の唇の真正面に。
静かに。
ここでは、僕は声を持たないのだ。
「今夜」
朗々と響く声で、《聖職者》は告げる。
「女が子供を殺す」
形の良い薄い唇が、ほんの僅かに歪んでいた。
「教師だ。不埒な、淫らな、思い上がった傲慢な醜女だ」
嬉しそうに《聖職者》は予言し、嗤った。
「墓石に囲まれた夜の森で、鴉が笑い、魔物たちが囁き交わす中、女が子供を殺すよ」
耳元で囁かれた言葉が、耳の奥にじわりと浸透する。
口の中に錆の味が広がっていく。
突然、ある花の姿が、瞳の奥に像を結んだ。
月夜に咲く、白い向日葵。
柔らかな粘膜に根を張るその花は、奇妙に軋む金切り声をあげていた。
脳が震え、僕は不意にホテルのフロントマンを憶い出す。彼の浅黒い肌を。近寄ったとき、かすかだけれど強く匂った独特な体臭を。
伝染病は、たしかに存在した。いま、僕に植え付けられたことによって。
すべてはここから始まる。
Photo by Markus Spiske on Unsplash
断章 <1>・了