悪いのは私だが、絶対に謝りたくない。
たったひとつの言葉が頭から離れずにループしつづけている。
正確に言うならこれは「たったひとつの言葉」ではない。複数の言葉から成る文章であるし、どちらかといえば思考に近い。
だが同時に、現状を「ある思考が頭から離れない」と表現するのは、私の身体感覚からはだいぶ隔たったもののように思える。私の素直な感覚は、この一連の言葉の連なりを、感情に近いものとして捉えているからだ。
言葉を用いて思考する人間と、そうでない者がいるという俗説は本当なのだろうか。
だとすれば、私は間違いなく前者だ。
げんに私はこうして、言葉を用いて自分の感情を観察しようと試みながら、同時に「言葉」と「思考」と「感情」の違いに戸惑っている。
そして、戸惑いながら、べつのことを考え始める。
考えている最中に、まったくべつのことに思考が飛ぶ。これは普通のことだと思うが、私はその傾向がとくにひどいらしい。らしいというのは、経験則に基づく推論だからだ。たとえば、そのことで家庭教師にはよく叱られた。
幼い時分の話だ。
家庭教師は、やさしさに包んだ独特の意地悪い口調で、よく私に言ったものだ。
集中なさい、ルーファウス様。集中して、自律するのです。
あるいはこうだ。
肝要なのは、集中と自律です。間違ってはなりません。あなたには、その義務がある。
義務、と口にするとき、家庭教師の小さくとがった顎はできうるかぎり反らされ、やはり小さい鼻の穴は、めいっぱい膨らんでいた。自分の変態可能な最大サイズに近づこうとしているとしか思えないその姿は、爆発寸前の改良型ボムによく似ていた。
なぜ、あの家庭教師を思い出したのだろうか。私の記憶に、ことさら強い印象を残しているわけでもない者を。
悪いのは私だが、絶対に謝りたくない。
これ──現在私の脳内を懲りずにかけめぐっている思考/感情──が原因なのだろうか。
そういえば、家庭教師に対しては、たしかに似たような感情をしょっちゅう抱いていた気がする。
家庭教師の教え方は、私の性質に合ったものではなかった。教え方を私に沿わせるのではなく、私を教え方に沿わせようとした。もっとも、それは教師にはめずらしくないタイプではある。しかし、だとすれば専属の家庭教師をつける意味がないのではないかと、鞭で叩かれて腫れた手の甲を見つめながら、当時の私はよく考えていた。
その考えは正しかったはずだ。
たぶん。
ここは、私の部屋ではない。
ここというのは、正確にはいま私が寝ているベッドのことを言ったつもりだった。私のベッドではない。
目ざめてから一時間は経過しているかもしれない。
隣に眠る男は、いまだ目ざめていない。
男。
私も男だ。
優秀な頭脳と整った容姿を有し、巨万の富と権力を約束されている、男。
自信にあふれ、若く、美しい、非の打ち所のない、男。
私について回るイメージは、そういったものだ。どれも高慢で、いかがわしくも強い輝きを放っている。「勝ち組」などという品のない形容で語られることも多い。類似に「サラブレッド」があるが、こちらはいただけない。神羅は小さな町工場から始まった。誰でも知っている。まだ誰も忘れていない。だから、私を生まれながらの勝ち馬と揶揄するのは、いくらなんでも早計に過ぎる。成り上がりの二世がThorough-bredを冠に頂くのは、皮肉でなければどう考えてもただの間抜けだ。そして私は、間抜けではない。
では、私の容姿をあらわす言葉はどうだろう。
眉目秀麗。容姿端麗。美貌の。美形の、端正な、うつくしい、ハンサムな。否定的な言葉で語られることはめったにない。だから私は美しいのだと、そう言い切ってしまえるのかも知れない。だが、ここはあえてもう少し細かく検討してみる。たしかに、私は宝石の原石ではあったかもしれない。けれども、磨いて宝石に仕上げたのは、私自身だ。そうしたほうが、そうしないよりもはるかに得るものが多いと気づいた十代の私が、私の意志で、容姿を磨くことを決めたのだ。
それに、もしも研鑽を怠れば、あの醜い老体と瓜二つの肉体が私を待ち受けている公算は大きい。それは誰しもが想像することでもあった。若き父の写真を見た者たちの反応を見れば、いやでもわかる。
まあ、お父様にそっくり。
そう口にする者たちはみな、一様に頬をゆるめる。いっけんすれば優しげなその微笑みの下には、物見高そうな好奇心と意地の悪い期待が塗りこめられていた。
その笑みは、私を居心地悪くさせた。
すくなくとも初等科を卒業するころには、私はその笑みを浮かべる者たちを嫌悪するようになっていた。
以前、私をドリアン・グレイと揶揄した記者がいた。
なんの取材をしに来たかは、もう覚えていない。次世代への環境責任という定型句を伝家の宝刀のように振りかざす凡庸さや、父のまき散らした不正に私の名を巻き込む小賢しさは気に食わなかった。だが、その喩えだけは気に入った。
今ごろ、あの記者はどうしているのだろうか。
未成年買春の疑惑は、それが身に覚えのないただの疑いというだけでも、大きな瑕疵となる。少なくとも、報道屋の看板を下ろさざるを得ない程度には。
私に課せられた使命は、人道などという実体もあやふやな代物で妨げられるほど軽いものではない。そして私は障害を受容するのではなく、排除することを好んだ。だが、やりすぎは禁物だ。見せしめであることに気づく者だけに有効な見せしめ。それこそが、もっとも効率の良い恐怖の使い方だ。目立ちすぎるのは、目立たないのと同じくらい無意味だ。
根も葉もない噂を世間は好む。記者の書いた記事が、日の目を見ることはなかった。
ベッドが狭い。
自室であれば、最低でも三回は寝返りをうてる。
それに比べて、このベッドでは、よくて一回半だ。
私のベッドなら、夏の朝陽で汗ばんだ身体も、数回転しさえすればシルクのシーツが心地よく包んでくれる。
だが、このシーツは洗いざらしのコットンで、ごわついている。
おまけに、傍らには私ではない男が眠っている。
彼女が私をヒステリックに叱咤するのは、高圧的な父への意趣返しではないかと疑うことがよくあった。
彼女というのは、家庭教師のことだ。
私の成績が悪いと、父は私の目の前で家庭教師をなじった。口汚く、はげしく罵った。
そうすることで、父は私のことも間接的に責めることができた。
父に責め立てられているあいだ、家庭教師はじっと父の背後を見つめていた。何もない空白を。だが、その表情のない眼は、ほんとうは父の面影に重なる私を見つめているのだと、当時の私は感じていた。確信していた。もしかしたら、その確信は正しくなかったかもしれない。私が罪悪感から拾い上げた、たんなる怯えまじりの被害妄想だったのかも。私も年相応に幼く、幼い者は往々にして、恐怖に負けて判断を誤る。
私はさっき、あの記者の現在を憂いてみせた。
だが本当のところ、私は記者の現状を知っている。
いや、その言い方は正確ではない。記者に現在はない。首を吊って死んだ。
記者には子供がいて、ひとりで育てていたという事実は、調査から漏れていた。内縁の隠し子だった。でっち上げの疑惑は、当然のように記者の私生活に飛び火した。子供は好奇心という名の苛烈な暴力に晒された。記者の顔を、私は覚えていない。それは重要なことではない。そもそも、あの記者の生死は、私にとって重要ではない。
やはり、ベッドが狭い。
私は寝返りをうちたい。
けれど、こちらに背を向けて眠る男の身体がそれを阻む。
暑い。
エアコンは効いている。
朝陽が部屋の窓から容赦なく射しているだけでなく、私のすぐ横で、生きた男が眠っているから、暑い。
今日は私のほうが先に目を覚ました。これはめずらしいことだ。
いつもはツォンのほうが早い。
しかし今、彼は私に裸の背中を晒して眠っている。
顔は見えないから、本当は起きているのかもしれない。
だが、おそらくは寝ているだろう。
彼の背中はしなやかな筋肉で覆われている。肌は傷だらけだが、赤い線状の擦過痕がとりわけ目を引く。
付けられたばかりの新鮮なあれは、私が付けたものだろうか? ──おそらく、そうだ。性行為中の記憶はあまりない。いつもそうだ。忘れたいと願っているのだろうか? ──そんなことはない。
ツォンは男だ。
男同士で性行為に及ぶのを、おそらく父は喜ばない。どうでもいいことだが。
ツォンの行為は技巧的とはいえない。それは私も同様かもしれない。それもどうでもいい。
この部屋には何もない。
この部屋というのは、ツォンの部屋のことだ。
何もないというのは一種の比喩だ。正確にいうと、備えつけの家具のほかに、あとから買い足された家具はなにもない。
この部屋は、縦に長い。天井が高い。ワンルーム。玄関ドアをひらくとすぐにキッチンがある。部屋の中程に、ソファとローテーブル、そのむかいの壁には大型の壁掛けモニタ。最奥に、このベッドがある。ベッドの両脇にはバスルームとクローゼットが並んでいる。つまり、この部屋はかなり広いと言える。神羅の社宅のなかでも、最上級の部屋だから当然といえば当然だ。けれどもツォンは、かたくなに華美を避け、慎ましい生活を好んだ。
暑い。
喉の渇きをおぼえる。
遠くに見えている、あの黒い冷蔵庫を開ければ水がある。冷蔵庫の中にあるのは水のボトルだけだ。複数本のミネラル・ウォーター。それだけ。いつもそうだ。例外はない。キッチンの戸棚には、ゼイオ・バーがストックしてある。十二本入りの箱が、たいていは六箱ほど。例外はない。
ゼイオ・バーとは、ゼイオの実をメインとしたシリアルを固めて、棒状にした神羅製栄養食の商品名だ。ツォンはこれを好んで食べる。
はじめてあれを口にしたとき、私は自分の感覚器官が停止したのかと思った。味がなかった。おそるおそるツォンの様子をうかがうと、彼は無表情で貪っていた。きっと、まずいのを我慢しているのだろうと私は推測した。
だから食品部門に手を回し、味の改善を示唆した。その結果、ゼイオ・バーの売り上げは飛躍的に伸びた。理由は単純で、味がよくなったからだ。
私はそのことをツォンに黙っていた。黙ったまま、新生ゼイオ・バーを何食わぬ顔で手渡した。人間の食い物らしくなった健康食品の味に、彼がどんな反応を示すのか、新鮮な反応を見たかった。
だが、一口食べたツォンは、なぜだか少しだけ悲しそうな顔をした。
これは予想外だった。
そして、私の予想が外れるのは、めずらしいことだった。
驚いた私は、なぜそんな悲しそうな顔をするのかと思わずツォンに尋ねた。私たちはヘリの中にいた。会議とは名ばかりの社交場をたらい回しにされるだけの、退屈なルーティンの途中だった。操縦桿を握るレノがふりかえり、不思議そうに首をかしげた。ツォンは意表を突かれたように私を見た。そして、悲しくない、と答えた。その声は少しだけうわずっていた。レノがさらに不思議そうに首をかしげ、つられて操縦桿までよけいに傾けた。ヘリは飛空するのに不都合なほど傾ぎ、ルードが怒り、レノはツォンに厳しく叱咤された。私は笑った。
私が笑うのは、めずらしいことではない。
だが、気持ちよく笑えるのは、じつはめずらしいことだった。
ツォンの背中の赤い線が、呼吸に合わせて揺れている。
あの赤い線は、俗に蚯蚓腫れと呼ばれる。皮膚を爪などで強く擦ったときにできる。縊死した者の首に残るのは、索状痕と呼ばれる。死に方によっては体表に現れないこともあると聞いた。記者が死んだのは、もう一ヶ月も前になる。
いや、そんな話はどうでもいい。
悪いのは私だが、絶対に謝りたくない。
イヤーワームと化したフレーズは、私がツォンに対して抱いているものではないだろうか?
これは今、脈絡もなくそう思った。つまり仮定にすぎない。
そもそも、「悪い」とは何を指すのか。
まず、ゼイオ・バーの味を良かれと思って勝手に変えてしまったことに対して、ではない。もう二年も前のことだし、あのように無を体現した味を好む者がいるとは予想外だった。けれどツォンのささやかな──そして変わった──幸福と引き換えに、神羅が小銭を稼いだことにかんしては、謝罪するようなことではないだろう。それに、私が悪いかどうかも議論の余地がある。いや、なにも好意でしたことをすべて是とせよなどという暴論を振りかざしたいわけではない。
待て。
問題が錯綜している。
集中ですよ、ルーファウス様、集中です。
そうだ、集中しよう。
問題は、私の罪悪感についてだ。
私は、この罪悪感から逃れるため、先ほどから思考を迂回させている。迂回させて、核心に迫るまいとしている。
いったい何を回避しようとしているのか。私はきっと、答えを知っている。
集中しよう。そして、自律するのだ。
答えは簡単だ。それは昨夜私が彼に対して放った言葉についてだ。そうではないだろうか。きっとそうだ。
彼というのは、もちろんツォンのことだ。
だが実をいえば、何を言ったかを私は覚えていない。
そこが問題なのかもしれない。
その言葉が放たれたとき、言うべきではなかったと直感で悟った。私はもう幼くはないから、そう簡単には判断を誤らない。それなのに、私は間違えた。
ツォンの瞳が凍りつくのを見る前に、私は目を閉じた。
目を閉じると、すべてが暗闇に落ちた。眠りはなかなかやってこないように思えたが、気がつけばこの部屋に朝は訪れていた。
先ほど私は、この部屋が備えつけの家具以外、あとから足された家具が何もないと言った。
それは正確ではない。
唯一、ツォンの存在を示すものがある。
東側の壁、上部に取り付けられた銀色のバー。
はじめて見たとき、それがなんのためのものか私にはわからなかった。
ツォンは洗濯物を干すために使うのだと説明した。それにしては位置が高すぎると私は答えた。ツォンは笑った。とてもめずらしいことだった。
からかわれたのだと気がついたのは、その何時間もあとだった。息を弾ませながら彼の肉体から離れ、充足感と気まずさと虚しさに充たされた肉体の温度がゆっくり下がっているのを味わっていたとき、不意に気がついた。あれは、懸垂するためのバーだ。似たものを、社内のスポーツ・ラウンジで見たことがあった。
私に嘘をつくな。
不機嫌を隠しもせずにそう言った私に、ツォンは怪訝そうな顔をした。その額に汗が浮いていた。私も汗をかいていた。ツォンの瞳は、めずらしく無防備に弛緩していた。照明を落とした部屋のなか、フットライトを反射して光る壁の銀色を指さすと、ツォンはまたしても笑った。弾けるように笑った。彼が笑うのは、本当はめずらしいことではないのかもしれない、と、そのとき私は思った。
昨夜、勝手に部屋のロックを解除して侵入してきた私に、ツォンは驚かなかった。
よくあることだからだ。
バーにぶら下がっていた彼は私に一瞥をくれると、顔色ひとつ変えず、日課のトレーニングの手を止め、バーから手をはなし、音もたてずに床に着地した。ソファに無造作に置かれたバスタオルを手に取り、肩にかけた。
そして、どうも、と言った。
いや、失礼、だったか。
もし後者だった場合、出で立ちについて詫びたのだろう。上半身裸で汗だくだったから、見苦しい格好を、立場が上の者に見せるのは非礼と判断したに違いない。
それに対して、私はなにかどうでもいい軽口を叩いた。トレーニングなどつまらない、とかなんとか。そして、私にかまうな、続けろと促した。ツォンは黙って懸垂を再開した。宙空で上下する彼の肉体を、私はしばらく眺めつづけた。記者はドアノブで首を吊ったらしい。ツォンは自らの筋力で自らを空間に吊り下げる。そして、自らの筋力で自らを引き上げる。ツォンが、私の命令なしに首をくくることはない。
待て。
私は、本当にそんなことを考えただろうか? ──わからない。わからないことは不快だ。わからないという状態は、いつも私を不安にさせる。不安になってはならない。私には、私を律する義務がある。
死んだ記者の子は八才だった。私はそれを報告書で知った。少女だ。
対象の家族構成の調査漏れ。単なるミスだ。だが、親族の有無を徹底的に洗い出すのは調査の基本だ。基本が徹底されていないなど、私は思いもしなかった。調査が総務部調査課ではなく、ハイデッカー子飼いの半端物の手で行われていることも、予想外だった。こなすべき雑事が、消さねばならぬ不都合な事実が、神羅には、私には、あまりに多い。違う。それは言い訳にすぎない。失敗は失敗だ。私は失敗してはならない。自律しろ、ルーファウス。
ひとり残された少女の、ちょうどあの年ごろに、私には家庭教師がいた。少女も教師に言われたことがあるのだろうか。集中ですよ、と。意地悪く。
彼女も死んだ。家庭教師ではない。少女だ。昨夜のことだ。報告書で知った。
轢死した。
少女は夜の町を逃げ回り、幹線道路に躍り出た。時速八十キロで走行する普通乗用車は、少女を避けきれなかった。
少女が路上に赤い腸の花を咲かせているころ、彼女の自宅では、タークスの末端がその帰宅を待っていた。神羅の息の掛かった養護施設を世話する予定になっていた。彼女はそれを察知した。
監視カメラが捉えた、逃走する少女の顔はぼやけていた。(報告書に添付された顔写真は、私の記憶には格納されずに霧散した。)ごみごみと込み入った猥雑な都市を、貌のない少女はひた走る。星の血で深夜も発光しつづける不夜城は、頼る者のない子供などあっという間に飲みこんでしまう。呑まれまいと、彼女は足早に夜を駆ける。入り組んだ路地を抜け、暴力の気配から身を潜め、淫らなネオンを睨みつける。行くあてなどない。角を曲がった路地裏には、夥しい量の壜がうち捨てられている。どこにでも売られている風邪薬のラベルには、父を殺した男の名前が印刷されている。神羅。こびりついた倦怠と絶望の忌まわしさだけを嗅ぎ取り、彼女は顔を歪める。彼女の発する怯えの匂いにおびき寄せられた物乞いが、いつの間にか足下に這いつくばって何かを乞うている。彼女は恐怖に戦き小さな叫び声を上げ、ふたたび走り出す。行くあてはない。学校では孤立していた。物見高そうな好奇心と意地の悪い期待に囲まれていた。家に戻れば、ドアにたどりつく前に黒いスーツの男たちが立ち塞がり、得体の知れない笑顔をはりつけ手を差し伸べる。彼女は後じさる。こいつらだ、と確信する。家族を奪ったのはこいつらだ。与えて、従わせる。従わない者からは取り上げる。黒スーツは虫のようにいくらでも沸いて出た。その遙か後方に、白い背中が見えた。天使の擬態でもしているのか、派手好みの愚者か。あるいは神を騙る道化か。滑稽なほど過剰な輝きをまとった白い背中は、嗤った。
ミスだ、と。
ここは私の街で、お前は些細な間違いでしかない、と。
少女の両脚から力が抜け落ちる。汚れたアスファルトにへたり込む。もう、走れなかった。走る気力も、力もなかった。
黒いスーツたちの群が迫る。あと数歩の距離に見える家のドアには、もう辿り着けない。あんなに眩しくて、まるで真昼の地獄みたい。蜃気楼のようにゆらぐ白い背中に、少女は思う。間違っている。少女はつぶやく。こんなの、間違ってる。
違う。
間違ってなどいない。私は言い返す。
かえして。
少女が言う。いないの。もう、だれもいないの。朝起きても、となりにだれもいないの。ごはんを食べてもだれもいないの。少女は泣いてなどいなかった。泣くための瞳がなかった。暗く空いたふたつの空洞が、父の背後の空白を見つめていた。けれどほんとうは、父の面影に重なる私を見つめていた。責めている。間違った私を。おまえのせいだ。おまえがまちがったから。違う、私は間違わない。間違うことはない。間違うことは許されていない。謝るとは間違いを認めることだ。私は間違ってはならない、ゆえに悪いのは私ではない。──本当に?
そして私は唐突に閃く。
悪いのは私だが、絶対に謝りたくない。
この感情は、正確ではない。
正確には、こうだ。
私は間違っていて、悪い。
だが、謝ることは、許されていない。
私が笑うのはめずらしくないことだ。
それなのに、私はもう、正しく笑えない気がした。
ツォンの背中が遠くに見える。
彼に何を言ったか、覚えていない。
言ってはならないことを、私は口にした。
それでも、お前には、お前にだけは、私を見てほしいと願っている。
悪いのは私だ。
私なんだ、ツォン。
だから──
「---てくれ」
ツォンの瞳が開く前に、私は目を閉じる。
目を閉じると、すべてが暗闇に落ちた。
正しい眠りは、二度とやってこないように思えた。
(了)