[phelmitage] solaris

【注意】ミタカ受けです【注意】

Solaris

 ──いつか、準備ができたら。
 と、フェルは言った。
 ベッドの上で、彼を見下ろす私の視線から必死に逃れようと睫を伏せ、暗闇の中でもそれとわかるほど目元を赤く染めて。
 明かりを落とした寝室には、薄いレースのカーテン越しに微かな月明かりが差し込んでいた。狭く開かれた窓から流れこむ夜気はひやりと冷たく、乾いていた。秋だった。虫の音ばかりが騒がしく、いつもと変わらない十月の夜だった。私と彼の、身体が在る位置だけが違っていた。私が上で、彼が下。万歳するみたいにベッドの枕元に投げ出された彼の両手首を、私は覆い被さるようにがっちりと押さえ込んでいた。逃がすまいと必死だった。あのとき、彼が本気で力を出せば、私なんて簡単にひっくり返せたはずだ。だから、彼としては最大限の努力で、あの体勢を維持していたのだろう。今ならわかる。彼は涙ぐんでいた。互いの吐息と、発する熱で、われわれふたつの身体のあいだに淀む空気は汗ばんでいた。私の耳は赤く染まっていた。その自覚はあった。ふたりの呼吸はいつも以上に早くて、間隔は短かった。
 つまり、お互いにこれ以上ないほど欲情していた。切羽詰まっていた。
 それなのに、彼はそこから先に進むことを許さなかった。そうしたいのに、身体がうんと言わないのだと、彼は苦しそうにつぶやいた。
 でも、いつか。
 ──必ず応えます。
 彼はそう約束してくれた。
 そして彼は、かならず約束を守る。


「何ですか、さっきからジロジロと」
 いぶかしげなフェルの声が、私をつかの間の回想から現在に引き戻す。
 見慣れぬ衣装に身を包んだフェルが、うさんくさそうな表情でこちらを見ていた。着丈の長い、裾がゆったりと広がった上衣。顎のあたりが男らしく骨張っている彼に、スタンドカラーがよく似合っていた。ゆるい身幅の白ズボンの裾はすぼまっていて、くるぶしあたりで丈が終わっている。骨張って幅広の足の甲に浮き出た血管を眺めるのが、私は好きだ。チャンパオと呼ばれるこの東国の民族衣装を、彼は好んで着た。海風と太陽に充ち満ちた西洋の地でも、通気性が抜群で着心地が良いらしい。
 一方の私は、だらしなく白いバスローブを羽織っただけだ。
 なにしろ暑かった。そして、乾燥していた。
 それまで暮らしていたロンドンで、ある程度は乾燥に慣れたと思っていたのだが、ここギリシアは別格だった。たとえば、いま私が寝そべっている寝心地の良いベッドのすぐ側には、作り付けの風呂がある。もちろん、湯がなみなみと張ってある。寝具の傍らに水場など正気の沙汰とは思えないが、たしょう風呂の湯が溢れ寝具が濡れようとも、そんなものは瞬く間に乾いてしまうから問題にならないのだということを、ここ数日間の滞在で私は学習していた。
 それでも、リネン類のあつかいに神経質なフェルは気になるらしい。バスタイムは細心の注意を払っていた。今も、一滴の水分もバスタブの外に出すまいとでも言いたげに爪先立ちで風呂から上がり、できるかぎり部屋の隅、私のいるベッドの対角線上に避難したうえで身体を拭いていた。
 その様を凝視する私の視線が気になるようだ。
「なんでそんな、僕をじっと見るんです」
 フェルは重ねて問いかける。
 けれど私は何も答えない。相変わらず視線だけを返す。
 そこになんらかの意図を読み取ったのか、はたまた私の下腹部で頭をもたげ始めた熱が、空気を通じて彼に伝わりでもしたのか、フェルはあからさまに狼狽え、落ち着かなさげに背を向けた。
 その背中に、焦ったような照れが滲み出すのを見て取り、私の熱がさらに形を為す。
「フェル」
 私は、わざとゆっくりと彼の名前を呼んだ。
「こっちに来い」
 誘いかけるというよりは命令に近い声音になったのを、自分でも面白く思う。
 フェルの身体がこわばり、ぎこちなくこちらを振り向いた。その姿に、ふだん彼が性行為の前に蓄えている攻撃的な刺々しさは感じられない。それどころか、身体の線すらどこかまろやかに見えた。
『どちら』が『どちら』をするかなんて、そんなのは枝葉の問題だ。我々の関係になんら影響はない。
 若いころ、私は頑なにそう信じていた。いや、信じようとしていた。
 だが、そんなことは、あるはずもなかった。『そう』なろうとすれば、行動も『そう』なる。自分が役割に向けてチューニングされる。私は、この長い時のなかで、それを思い知らされた。そして、役割のためカスタマイズされたペルソナを纏う儀式は、おもいのほか淫靡でもあった。
「ここだと、外から見えます……」
 辛うじて聞こえる小声でフェルが応じる。
 たしかに、我々のいるバルコニー型のテラスは海に突き出しており、四阿のような屋根がついている以外は三方が海に囲まれている。だが、ここはエーゲ海で最高級をほこるリゾートホテルの、さらに最上級のスイートルームだ。目の前に広がる海はプライベートであり、侵入者を許さない。各部屋は他の客室からは見えないよう、完璧な設計がされている。
 そんな当たり前の事実を言い訳にしたがるフェルを、私は可愛らしいと思う。もちろん、これはペルソナ・チューニングの埒外で、だ。彼は、いつだってかわいい。私は鷹揚に微笑む。
「昨夜ここで私を抱いたときは、気にしてくれなかったな」
 事実で攻めるより感情に訴えかける戦法をとったのは、どうせ結末が決まっているのなら、ぐねぐねと起伏のあるほうが愉しいだろうと思ったからだ。
 案の定というか、彼は、しまったという顔をした。けれど、まだ素直に従うつもりはないらしい。いつもそうだ。
 初めて約束を守った日も、そうだった。


「準備、できたんだよな」
 あの「いつか」から余裕で五年が経ったその晩、フェルは唐突に「……いいです」とつぶやいた。意図がわからず、「いいって、何が」と問い返しながら、私はようやく彼の長い準備が終わったことを悟った。しかし、その後三〇分経っても、彼は一向にベッドにやって来ようとしなかった。さしもの私も痺れを切らしていた。
「お前が来ないなら、私が行く」
 ベッドの中から言う私に、
「待ってください。行きます。行きます、から……」
 と答える彼は、寝室の入り口でずっとドアノブを握り締め、こちらに背を向けて立ち尽くしていた。
「遅い」
 背後から忍び寄ってその耳元で囁いたとき、振り向いた彼の表情が忘れられない。あんなふうに至近距離まで気配を悟られなかったのは、後にも先にもあの時だけだった。
「お前が来ないなら、私が迎えに行くまでだ、臆病者」
 宣言とともに寝間着の胸元に手を滑り込ませると、フェルはぎゅっと目を瞑った。その眉に寄った皺が愛しくて、思わずそこに口づけた。


 時が流れた。
 今では立場を入れ替えることも、そう頻繁でないとはいえ少なくもない。何の因果か不死の身体を授かってからは尚更だ。我々のこの離れ得ぬ関係とて、不変というわけではない。
「フェル」
 諭すようにやさしく呼ぶ。彼は観念した様子で、やっとこちらに身体を向けた。
 私は、ベッドから重たい身を起こす。
 ふと視線をバルコニーに向けると、暗くなった水平線に太陽が沈もうとしていた。この地の夕陽は赤くないことを、この地を訪れて、初めて知った。ここでは、落日は神のごとき威厳をもって白く燃え上がる。
 神秘的な光景にしばし見とれていると、胸のあたりに柔らかな髪が触れた。
 フェルが、私に寄り添うようにベッドに腰掛けていた。
 無言で沈み行く太陽に視線を送り、その美しさを共有しようと試みる。だが、彼は私の意図に気づいていながら、私から視線を外そうとはしなかった。
 「夕陽が美しいぞ」などと重ねて促すことは、私もしない。言ったところで、「貴方の瞳のほうが綺麗です」と返ってくるのはわかっていた。彼が恐ろしいのは、それがお世辞でも、雰囲気作りのための睦言でもなく、ただの本気であるところだ。そういう部分で、彼は狂っていると言えた。けれど、狂っているから何だと言うのだ。百年以上も生きれば、誰しも精神を病むのは当然のことだ。
「……」
 熱っぽく潤む視線を引き取るようにして、彼の眼を覗き込む。口づけようと顔を近づけると、とたんに彼は慌てたそぶりで俯いた。黒々と長い睫毛。年々重力に抗えなくなりつつある瞼が描く緩やかなカーブさえ、いつもより嫋やかに映える。同じ男が、演じる役割によって、ちがう「形」になる。なんとエロティックな原理だろうか。粘土のように、この指で捏ね回し、もっと作り変えることもできる。そうしたい、と強く欲望する。途端、腰の奥に熱が猛って疼く。噛みつくように唇を吸った。自分の指が自分の意志よりも速く彼の肩のかたちをなぞる。角張った骨格のうえで溶け出す輪郭の甘やかなこと。つながった口から互いの吐息が漏れる。吐く呼吸の形さえ、『いつも』とは違う。
 その差異を慈しむように舌で丁寧に転がしていると、不意にフェルが離れた。自分からベッドに倒れ込む。やわらかな枕のうえに、音も立てずに彼の頭が載る。はやく、というように、彼の手が私のバスローブの袖口を引いた。私は微笑み、応じて覆い被さろうとする。だが、今度は戸惑ったように、彼は私の身体を下から押し退けようとする。
「おい」
 何がしたいんだ、と苦笑すると、フェルは困ったように何ごとかを口にした。
「……って…………」
「聞こえない」
「……って……さい……」
 決して私と目を合わせない。その顔は、あの夜と同じ。内側から湧きあがる欲望に、自分の肉体が作り変えられることに困惑し、その暴虐の快感に戸惑う男の顔だ。
 ぞくぞくする。
「待って……ください……」
 声を絞り出すように懇願する。その喉の筋肉の動きさえ、彼を変える。変わる彼の形に合わせて、私の欲望の形も変わる。
「どのくらい待てばいい?」
「陽が……沈む、まで……」
「イヤだ」
 私は笑い、彼の喉笛に食らいついた。
 彼の口から悲鳴のような鋭い叫びが漏れたが、それが喜悦の声であることは、太陽の光の下でなくとも明らかだった。
 




魔女AUの遠い未来の話です。
「エディンバラの丘にて」と同じくらいの時系列。
なんでこんなことになってるのかは、いずれ書けたらいいなと思ってます。
(やりたい放題やっててすみません……)


← WEB拍手