眠ることは世界からそれることである。
そう嘯いたのは、詩人だったか、あるいは稀代の書痴だったか。
だから、この男は眠らないのだろうか。
一時たりとて世界を制御できない時間があることを、本能的に懼れているから。世界と自己を完全一致させなければ己など霧散してしまうとでも言いたげに、薄い身体を漆黒の被布で包み、細い手首を革の官能で覆い、やさしい面立ちを氷の瞳に秘匿して。隙のない強固な外殻に身を固めて尚、消えない不安とは、どんなものだ。
そして、だとすれば、不眠とは即ち、彼の闘争だ。
この男の獲得した、世界との闘い方だ。
俺に口出しできることなど、何もない。
ひとたび舞台を下りれば、生体としての限界が待ってもいよう。
そこでようやく、彼は小さな錠を飲み下す。しかし、その決然とした手つきはまるで毒でも呷るかのようだ。お前にとって眠りとは罰なのか、あるいは、文字どおりの死か。
けれど、眠りと死とは違う。
昔読んだ小説に、こんな話があった。
不眠症の男がある朝、ピストルで脳天をぶちぬいた。
死にはしたが、眠ることはできなかった。
なあ、あんた、狂うぞ、と冗談めかして窘めれば、とうにだ、とただ笑う。
そんな男を恋うるのは、苦しい。狂おしい。
情事の余韻にみちた人恋しい肌をむりやりに引きはがし、一人ベッドから下りたのも、こうして彼の飲み残しのスコッチを勝手に叶っているのも、眠らぬ彼を置いて眠ることへの底知れぬ寂しさ、そして奇妙な罪悪感ゆえだ。
(そんな小さな世界など、捨ててしまえよ)
喉元まで迫り上がる言葉は、しかしけして放たれることはない。
言えば、この関係は粉々に砕け散るだろう。
そうせずにはいられないのがお前だと、知っている。
そんな馬鹿でも、だからこそ愛しい、とも。でも、それでも。
(俺は、何のためにいる)
己ばかりが安穏と、お前の体温を分け与えられ、それで俺は、お前に何を。
「レン」
俺を呼ぶ声の呂律が少し怪しいのは、快感の残り香か、スコッチの名残か。
振り返れば、彼はちいさく微笑みながら、己の隣にできたベッドの空白を顎で示す。
枕を軽く叩く。ぽふ、と間抜けな音がする。
素直に戻れと言えない彼の、これが精一杯の甘え方だ。
いや、もしかしたら。
甘やかされているのは、俺の方かもしれない。この期に及んで。
「俺、そんなに思い詰めた顔、してたか」
尻尾を振るがごとく、恥ずかしげもなくいそいそと戻りながら、俺は何食わぬ顔で尋ねる。
彼は顔色ひとつ変えず、さあ、と応じる。
食えない奴。内心で憤りながら、俺はシーツに身を横たえる。彼に腕を差し出すと、当たり前のように彼が頭を載せる。胸に顔を埋める。俺は腕を畳み、彼の頭を抱え込む。赤い猫っ毛をまさぐる。抱き込む。逃がさぬように。
「何の話か、わからんな」
くぐもった声でそう言う彼の、瞳はすでに閉じられている。
すぐに、規則正しい寝息が響く。
(うそつき)
(お前、誰に復讐している)
(俺に言えた義理ではないか)
まとまらない思考の隙間を、彼の呼吸が通り抜ける。
たとえ嘘でも、心地よい。
俺ばかり救われているようなのに、お前は何故、俺と居る。
そんなに俺が好きか。そう自惚れてもいいのか。
「俺たちは、似合いの馬鹿だな」
小さくひとりごちると、眠っていたはずの男は、くすりと笑った。