「ハックス」
レンの声に、上半身裸で鏡に向かい、髭をあたっていた恋人が振り向く。
小さくて平たい銀色の缶を振って見せると、彼はベッドに腰掛けているレンのところまで大人しくやってきた。隣に腰を下ろし、無言で背中を向ける。
ぺらぺらに薄い背中。
まっ白なそこに散らばるのは、無数の赤いひっかき傷だ。
「少し、良くなってきたかな」
そうは見えないが、レンはお決まりの台詞を口にする。
「お前が爪を立てるから、治りが遅い」
憎まれ口を叩いて返すハックスだが、彼も本気では言っていない。
この傷は、もちろんレンがつけたものではない。(否、一部はその可能性もある)大半は、彼自らの手によるものだ。
レンはおもむろに、自身の太股の下に敷いた手を取り出す。この作業のために、いつも自身の体温で手を暖めておくことにしていた。
銀の缶の蓋を開け、白く凝(こご)った膏(あぶら)をすくい取り、そっと傷にのせ、ていねいに伸ばしていく。
レンのあたたかな指の下で、薬はゆるゆると溶け、透明に変わった。
――俺は体温が低い。だから、薬が溶けなくて、困る。
初めて薬を塗ってくれとせがんだ朝、彼はむずがるように無茶な理由を口にした。
また、別の日には、
――背中には、手が回らないから。
と、口ごもった。
うそばっかり。
夜は散々自由に絡みついてくる彼の肢体を思い出し、レンは小さく赤面する。
けれど、いかにも気持ちよさそうにうっとりと目をつむる恋人の横顔を眺め、すぐに口もとを弛めた。
――知ってるんだからな。俺の手、あったかくてきもちいいんだろ。
ハックスは交わったあと、いつも頭をレンの胸にあずけ、彼の体温が高いとからかう。「子どもみたいだ」と笑い、暑いと文句を言いながら、それでも決して離れようとはしない。
レンも、そんな彼をしっかりと抱き込む。
ひやりとした彼の身体が、自分の体温に染まっていくのを感じるのは、心がやすらいだ。
「はい」
終わったよと声をかけると、彼の眉間の皺は、レンの手が離れるのを察知したとたん、少し――ほんとうに僅かだけ、深くなった。
「あ、ごめん。まだ塗り残し、あった」
とっさに嘘が口をついて出る。
「なんだ、早くしろ」
急かす恋人の声は、心なしか弾んでいる。
適当に塗るふりをして背中をもうひと撫ですると、レンは名残惜しげにハックスの肩をぽん、と叩いた。
「はい。今度こそ、おしまい」
「ドーモ」
恥ずかしいのか、ことさら棒読みで礼を言うのも、いつものことだ。
「じゃあ、また、夜ね」
再びバスルームに去っていく傷だらけの背中を見送りながら、レンはいつものように、胸のうちで仕上げのおまじないを唱えた。
俺の体温が、あんたと共にあらんことを。
May my tempareture be with you.