天国への自動階段

 久しぶりの休日。
 示し合わせて旗艦を抜け出したハックスとレンは、とある星の大型商業施設にいた。
 ドーム型の天井に守られた都市のなかでもひときわ目立つ、天を突くほどの高層タワー。その真ん中は、細いエスカレーター二台に貫かれていた。
 長い長い銀色の自動階段、その上り方面に、二人は上下で並び、はるか上階の服飾フロアを目指していた。
 ハックスは、自分の胸のあたりでゆれるレンのあたまを、ぼんやり見おろす。
 白い薄手のセーターにジーンズ、黒いポロコートと無難な服装のハックスに対し、レンは相変わらず上から下まで黒ずくめだ。出所不明のハイネックのセーター、「ズボン」としか形容しようのないコットンパンツ、そしてボロボロのブーツ。
 もう少しマシな私服を買ってやろうと連れ出したはいいが、まさに「服を買いに行く服がない」状態の彼に、ハックスは内心、苦笑していた。
 ――素材はいいのに、もったいない。まあ、コイツらしいけど。
 レンは、自分が着飾ることに心理的抵抗があるらしいと、ハックスは前から薄々気づいていた。その証拠に、お前の服を買いに行こう、と言うと、レンは決して首を縦に振らない。しかしその一方で、俺の服を買いに行ってくる、と告げたとたん、「じゃあ俺も行く」とくっついてくる。
 服に興味がないわけではない。ただ、自分が着ることが嫌なのだ。
 ――どうせ、また何か妙なコンプレックスを拗(こじ)らせてるんだろうな。難儀な奴。
 こんなに綺麗な顔をしているのに、とハックスがレンの顔にしげしげと見入っていた、そのときだった。
「ああ、もう……クソッ」
 ぼんやりと突っ立っていたレンが、唐突に苛立たしげな声をあげた。彼にしてはめずらしく、小さく舌打ちまでした。
 一瞬、自分の思考を読まれたのかと、ぎくりとしたハックスだったが、そんなわけはないと即座に思い直す。レンは、今後やらないと約束したら、絶対にやらない。そういう人間だ。
 ならば、一体なにごとかと、彼の視線を追う。
 視線は、反対側のエスカレータのかなり上方、ちょうど向かいあう形で上階から下りてくる、一組の男女カップルに行きついた。
 ハックスとレン同様に、女が上段、男が下段というポジション取りをしている。
 ふだんは身長差のあるだろう二人――女のほうが男よりいくぶん背が低い――は、エスカレーターの段差によって、ほぼ同じ高さの目線になっている。それが嬉しいのだろう。彼らは、人目もはばからず抱き合い、キスをしていた。
 よくある光景だ。
 が、どうもレンは、それが気にくわないらしい。今にもウーという唸り声をあげんばかりに、見ず知らずのカップルを睨みつけている。
「レン、どうした。なに怒ってる」
 戸惑ったようにハックスが問いかけても決して視線を外そうとせず、
「俺、ああいうの、嫌い」
 とだけ答え、ぎゅっと眉間に皺を寄せた。
 そんなにひどいか、とハックスはもう一度見あげる。が、たしかにいちゃついてはいるが、そう大きく常軌を逸した行動をしているようには見えなかった。いわゆる普通のバカップルである。
 レンの怒りが理解できないハックスは、取りなすように言った。
「別に普通だろ。いいじゃないか、ほほえましくて」
 しかし、その答えはレンのお気に召さなかったらしい。
「は? あんた、平気なのか?」
 キッとハックスを睨み、挑むように食ってかかってきた。
「下品だろ! わざわざ人前であんなふうにする理由あるか? みっともない! 下劣だ! 家でやれ!」
 やけに必死になって言い返すレンを、ハックスは不思議そうに見つめる。
「……お前、何をムキになってるんだ」
「べ、べつにムキになってなんかない! とにかく、俺はああいうはしゃぎ方がだいっつつっきらいだ!」
 〝大嫌い〟の〝大〟をことさらに強調すると、レンは忌々しげにぶいと横を向いてしまった。
 二人のあいだに奇妙な沈黙が落ちる。
 しばらくはムッと口をへの字に曲げたレンの横顔を眺めていたハックスだったが、やがて、ああ、と納得した表情を浮かべた。そして、
「レン」と呼びかけた。
「なんだよ」
「ちょっと」
 そう言いながら、内緒話をするように少しレンの方に屈み込む。人差し指をクイクイと曲げ、こっちに来いと身ぶりで示す。
「もう、だから、何!」
 いかにも不機嫌そうにレンがハックスの方に顔を近づけた、そのとき。

 ちゅ。

 ハックスの唇が、レンの唇にかるく触れた。
 音を立てて吸いつき、すぐに離れた。
 レンの顔が、見る見るうちにまっかに染まる。
 同時に、固まったレンの身体が、ゆら、と後方に倒れた。ハックスはそれを見越していたかのように素早くレンを抱き留め、ひょいと自分のほうに抱き寄せる。
 この間、三秒。
 抱き寄せられた勢いで、ハックスにひしとしがみついたレンの視界の端に、反対側のエスカレータに乗った二人組が映り込む。
 さっきまでレンが散々貶(けな)していた、あのカップルだった。
 すれ違う、いちゃつくカップル、二組。
 彼らの視線とレン達の視線が、ほんの一瞬、交差する。そして、すぐに離れた。
「――あ」
 数秒後、ようやく我にかえったレンが、ようやく声を発する。
「え、な、な、なに、お、ハ、えっ……」
 目を白黒させながらうわごとのように喚くレンに、ハックスがにんまりと笑う。
「お前、羨ましかったんだろ」
 その言葉にレンは再び数秒間固まり、次の瞬間、猛然と抗議しだした。が、その抗議の言葉は、まったく意味を為していなかった。
「はっ?! だ、誰が、なに、だって、えっ? はっ?」
「レン」
「お、俺、べっ別、に、そんな」
「レン」
「ちが、そうじゃなくて、クソ、だから……ッ」
「レーンー!」
 ハックスがすこし大きめの声で窘める。レンはようやく口を閉じた。
「落ち着け。な? 大丈夫だから」
 大混乱に陥っている恋人をあやしながら、ハックスはよしよしとその頭を撫でてやる。
「別に、誰も見てやしないさ」
「そ、そういう、問題……じゃ……」
 ない、と言うレンの言葉は、しかし徐々に小さくなっていき、最終的には口の中に消えていった。代わりに、ハックスの背中に回された手が、ぎゅう、と彼の服をにぎりしめる。ハックスがくすりと笑う。
「お、俺……別に」
 まだなにやら不明瞭なことばをもぐもぐとつぶやきながらも、やがてレンは、真っ赤になった顔をハックスの胸にうずめた。ついでに、条件反射のようにくんくんと彼の匂いを嗅ぐ。
 ハックスは小さく噴き出した。
 さっきまでのお怒りはどこへやら、歳下の恋人は、今や積極的にその鼻先を押しつけてくる。先ほどのバカップルもかくやと思うほどの、堂に入った甘えっぷりである。
 ――まったく。手の掛かることで。
 あきらめとやさしさのいりまじった気持ちを持てあまし、ハックスはエスカレータの先を見あげる。
 目指す階は、まだ遠い。
 延々と続く銀色の階段は、もう少しだけ、抱擁の時間を二人に与えてくれそうだった。