あるショップ店員の不運な一日

 妙な客だ。
 いや、客っていうのは大抵どこかしら奇妙なものではある。俺の勤務するような高級メゾンともなれば、なおさらだ。顧客は金持ちばかりで、しかも金持ちってのは社交スキルが高いようでいて、そのじつ一癖も二癖もある輩ばかり。だから、多少のことで怯んでいては、接客業など務まらない。
 いま奥で騒いでいる二人組も、最初はただの、ちょっと変わったカップルなのかと思っていた。
 そもそも入店してきたときから、このカップルは人目を引いた。
 どちらも飛び抜けて美男子だったからだ。
 最初に目が行ったのは、赤毛の男だ。
 全体的に色素が薄く、身体も薄い。が、なんともいえない色気を放出していた。あきらかに場の主導権を握っているのは彼で、立ち居振る舞いも洗練されている。余裕と自信にあふれた物腰からは、普段から人に傅(かしず)かれることに慣れた空気がにじみでていた。
 着ているものも、オーソドックスだが品(しな)が良い。高い店で買い物することにも慣れているふうで、俺は正直、良い客がきたぞ、と内心でガッツポーズをした。
 いっぽう、彼に手を引かれて入ってきた黒髪の男もまた、赤毛とはちがったタイプの美男子だった。
 だが、がっしりした見事な体躯をまるめるようにして、赤毛の後ろに隠れるように移動する彼を一見して、俺は典型的な「洋服屋さん怖いよ症候群」だと見抜く。彼の着ている服は……ノーコメント。着られれば良かった、という体(てい)だった、とだけ。
 ――これは、“彼氏に連れられて服を買いに来た”の図だな。
 俺は確信する。
 おどおどした表情を浮かべた彼の、顔のつくりはえらく端正で、どこか愁いに満ちている。繊細な面立ちとはアンバランスなほどみごとに鍛え上げられた体躯からは、むせ返るほどの濃厚なフェロモンが放たれているのが面白かった。
 つぶらな瞳は、思春期の青年のように終始不安定に揺れており、店員である俺とも、決して目を合わせようとしない。
 ――とりあえずは、黒髪にはかまわない方がよさそうだ。
 そう判断した俺は、赤毛にマトを絞って声を掛けた。
「いらっしゃいませ、なにかお探しで?」

 しばらくは赤毛との和やかなやり取りが続いた。
 雲行きがあやしくなってきたのは、一五分もした頃だろうか。
 俺は、赤毛が欲しがったデュークジャケットのサイズ在庫を調べに場を外した。視界の隅に、赤毛が黒髪にさりげなく服をあてるのが見えた。
 ――ああ、やっぱり。
 俺の予感は的中したわけだ。そうとなれば、俺もさりげなく彼に似合いそうなものを何点か、などと皮算用を始めた、そのとき。
「俺のは良いって!」
 低くドスのきいた声が響き渡った。
 他にも店にいた数組の客が、顔を見合わせる程度には、迫力のある声だった。俺だったら、あんな声で凄まれたらもう何も言えなくなる。が、赤毛は少し慌てて黒髪に向けて声を落とすように言っただけで、微塵も怯んでいない。
 ――あれ? もしかしてその筋の人……?
 暴力の匂いはまったくしなかったのに、と、俺は内心冷や汗をかく。
「自分の買うとか言って、やっぱり俺の服選びに来たんだな。卑怯だぞ!」
「おい、声がデカい――いいだろ、ちょっと試してみるだけだ」
「嫌だ!」
 二人の押し問答は続く。
 俺はカウンターで在庫を調べながら、さりげなく首を伸ばして店内奥を映すカメラ映像をのぞき見た。
 赤毛が、黒髪の男に黒いモヘアのニットをあてがっていた。同色の糸で伝統的な鳥の図柄のタペストリー風刺繍がほどこされている。ぱっと見派手だが、奇抜にはならず、品の良いセーターだ。
 ――おお、似合う。
 思わず口に出しそうになるほど、それは彼に似合っていた。しかし、黒髪はなぜか目に涙をためて抗議している。
 ――泣くほど嫌なのか……? 服着ることが?
 どうしよう、しれっと割って入るべきか、収まるまで待つべきか。迷っていたら、赤毛がどうやら黒髪を説き伏せたらしい。急に静かになる。
 俺は慌てて二人のところに舞い戻った。
 戻った頃には、黒髪の姿はなく、赤毛がひとりで苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべていた。
「お待たせしました。ジャケットですが、倉庫の方に在庫ございますので、今こちらに至急お持ちいたします」
「ああ、ありがとう。それと」
 そしらぬ顔で声を掛けると、赤毛は相棒を試着室に送り込んだ旨を俺に告げた。
「見てやってくれるか? その、なんていうか、少しデリケートな奴で……。まあ、さすがに噛みついたりはしないと思うが」
 気をつけてやってほしい、と赤毛が言葉を濁す。
 ――へえ、愛されてんね、黒髪。
 俺は内心で口笛を吹いたが、そんなことはおくびにも出さずに笑顔で頷く。
 そこまでは良かった。
 そのすぐ後、赤毛の胸ポケットで通信機がふるえた。途端に厳しい顔になった彼は、「失敬」と一言残し、店内を去った。
 俺は黒髪が試着室から出てくるのを待った。
 いっこうに出て来ない。
 セーター一着に十分以上かかっている。
「お、お客様。いかがでしょう?」
 声を掛けても、返ってくるのは沈黙ばかり。
 普段なら迷わず踏み込んでいるところだが、どうにも先ほどのドスの利いた声を思い出すと足が疎(すく)む。あの体格で殴りかかられたらひとたまりもない。早く赤毛が帰ってくればいいのに、と祈るような気持ちで、俺は遠慮がちに試着室のドアをノックしてみた。
「お客様。サイズ感やお色など、なにかございましたら……」
 ガルルル、という唸り声が返ってきた。
 ――動物?!
 思わず後ずさる。
 ど、どういうことだ。赤毛は噛まないって言ってたけど、本当だろうな?!
 冷や汗を滲ませながら、そっとドアに手を掛ける。
「お客さま、失礼いたします!」
 思い切ってドアを開く。
 開いたと同時に、広い広い試着室の片隅で、セーターを着て(よく似合っていた)体育座りをしている黒髪と目が合った。
「うわあ!! あんた誰だ!」
 黒髪が絶叫する。
 誰って。
 店員さんだよ。
 失礼しました、と答えるひまもなく、もの凄い勢いで飛んできた黒髪が、俺の鼻先でドアをばたんと閉めた。
 同時に、呆気にとられる俺の後ろから飛び込むようにして赤毛が走り込んでくる。
 彼は息せき切って俺に謝罪した。
「申し訳ない! 連絡が長引いて――おい、レン、レンてば!」
 最後の方は試着室にいる相棒に向けての呼びかけだ。
「ぱか! ハックスのばか!」
 癇癪をおこしたこどものような金切り声。
 赤毛はくるりと俺の方に振り返ると、もう一度真摯に詫びた。
「驚かせただろう、本当にすまなかった。あの、まさか、噛まれたりは」
「大丈夫です」
 ハハハと力なく笑うと、赤毛は面目なげに頭を掻き、「あとは俺が」と言い残し、颯爽と試着室に入っていった。

 それから二人は、ずっとこもったきりだ。
 かれこれ一時間近くになる。
 その後、何度も赤毛に指示されて、あれこれと部屋に服を運んだ。が、黒髪は一度も姿を現していない。
 声から推し量るに、一着試着させるのに十分は掛かっている。しかもその間に、何度も謝罪の言葉が交じる。
「なあ、許してくれよ。ひとりにして悪かった。な?」
 ぐずぐずと何かをぐずる黒髪を、赤毛が必死になだめる。
「似合うって。俺のセンスを信じろ。かわいい。めちゃくちゃかわいい。男前!」
 ……ずっとこの調子だ。
 なんと涙ぐましい努力だろう。
 赤毛の忍耐力には驚異的なものと深い愛を感じるが、それ以上に……過保護すぎないか。
 黒髪の声はぼそぼそと低く、何を言っているかまったく聞き取れない。たまに赤毛に甘えかかっているらしく、もごもごと籠もった音になるのだけははっきりわかった。
 ――あ、たぶん、ハグしてもらってるな。コレ。
 砂を吐きそうになりながら、それでも俺は耐えていた。
 なぜなら、相当数の服を運び、恐らくあの赤毛の溺愛っぷりからすれば、全部お買い上げ頂けそうだからだ。
 彼が無造作にほうりだしたブラックカードが、今の俺の、ゆいいつの拠り所だ。
「お、おい、こら、こんなとこでサカるな。馬鹿か、お前。こら、レン!」
 レン。やめてくれ。
 俺も内心で小さく同意する。さすがに致さないだけの常識はあるらしいが、それでもレン、何度目だ。赤毛、もうちょい満たしてやってから来いよ。
 不意に静かになる。
 ああ、キスしてるな、こりゃあ。何度目だよ。服着ろよ。
 死んだ魚の目で、俺は忍耐づよく待ち続ける。
 妙な客はたくさん見てきたが、単にバカップルなだけなのに、ここまで殺されかけたのは初めてだ。
 できれば二度とお目に掛かりたくない。ていうかとっとと帰ってほしい――そんな俺の願いも空しく、このバカ共はその後たっぷり二時間、店に居座り続けたのだった。