約束

 運命としかいいようのない出会いだった。
 カジノで遊び回る恋人の荷物持ちとして付き従っていたレンは、その日の午後、それを見つけた。
 きらびやかな店構えが連なるカジノにあって、古びて小さなその店は、まるで面を伏せるかのようひかえめに、ひっそりと建っていた。言われなければ、宝飾店だと気づく者は少ないだろう。しかし、レンの目は、素朴な木枠のショーウィンドウに吸い寄せられた。
「アーミ、待って」
 先を行く恋人に声を掛けたときにはもう、その指輪から目を離すことさえできなかった。
 金のアームはあくまで繊細で、折れそうに細い。トップに頂く小粒のルビーの紅が、誘いかけるように妖しげに輝いている。石を支える台座に至る肩部は複雑な盛り上がりを見せ、凛とした華やぎのなかに、どこかしら歪な表情を加えている。
 ──これ、あいつに似合うんじゃないか。
 着飾ることについて、レンは自分のセンスを信じていない。そんな彼が、それでも自ら店の扉を開いたのは、それほどまでにこの小さな指輪に魅せられた証拠だ。それが自身のものではなく、恋人に贈りたいという動機だったのも、彼らしかった。
 荷物で塞がる腕の代わりに、身体全体でドアを押し開く。
 カラン、と乾いた鐘が鳴る。
 狭い店内の奥に佇んでいた女性が顔をあげ、ちいさく微笑みをうかべた。積極的には声を掛けてこない態度に、レンは好感を抱いた。
「あの」
 それを見せてほしい、と言おうとしたレンの両手が山ほどの荷物で塞がっていることに気づき、店員があわてて駆け寄る。
「お預かりします」
 意外にも低く落ちついた声でそう言い、いくつかの荷物を引き受けてくれた彼女に、レンは礼を言った。
「ありがとう。──あの、そこに飾ってある指輪なんだが」

§

 店内奥のカウンターに案内され、望みの品が運ばれてくるのを見て、レンは確信を深める。
 ──これは、彼のためのものだ。
「こちらのウェダーリングですね」
「ウェダー?」
「既婚者用の指輪です」
「ああ、そうなのか」
 戸惑った様子のレンに、店員が慌てたように付け加える。
「もちろん、ファッションとして着用なさる独身の方もおられます」
「人に贈ったら、迷惑だろうか。その……」
「──大切な方に?」
 言い淀むあとを、店員が引き取る。
「……はい。その、とても大切な人に」
「素敵だと思います」
 優しげに微笑む彼女に、レンは照れ笑いを返すと、
「包んでください」
と告げた。
「ありがとうございます。サイズは?」
 尋ねられて初めて、サイズの問題を失念していたことに気づく。
「ああ、そうか、しまったな。ちょっと待ってくれ、思い出す」
 答えながら記憶をさぐってはみるものの、レンの肌をなぞるあの感触が思い返されるばかりで、サイズなど推測することができない。懸命に思い出そうとするあまり、ええと、俺と比べてどうだったかな、俺は節は太いけど、あいつは、とぶつぶつつぶやき始めたレンに、店員はサイズ表を取り出した。
「指は、コンディションによっても太さが変わるんです。標準サイズですと──」
 こちらです、と彼女が指さしたのは、女性の九号だった。
「あ、いや、彼はああ見えて指は太いというか、意外と男らしくて……」
 そこまで口にして、ようやくハッとした。
「すまない。つい」
 ばつが悪そうにするレンに、彼女はくすくすと笑った。
「いいえ。そこまで思ってもらえるなんて、とてもラッキーな方ですね」
「そうであって欲しいが」
 照れ笑いに紛らせながら、レンはふと物思いに沈んだ。俺に想われることは、彼にとって良いことなのだろうか、と。
 近ごろの危険な任務の増加を思い、表情が曇る。
 レンを送り出す日のハックスの顔は、いつも不安そうだ。逆に、ハックスが危険な作戦に従事すれば、レンのフォースは微弱ながら乱れる。
 互いへの想いが強まるほどに、互いが弱くなっていくような気がする。俺はそれでも構わない。でも、すべてを賭けて頂点に登り詰めてきた彼にとって、それは歓迎すべき変化なのだろうか。
 いつか、俺が邪魔になって──。
 急に黙り込んだレンの変化を察知し、店員が話題を変えるように声のトーンを一段上げた。
「では、サイズをいくつかお出ししますね。イニシャル等はお入れします?」
「イニシャル?」
 物思いから引き戻されたレンが、きょとんとした顔をする。
「あ、ああ、そうか。──いや、要らない」
「日付や、メッセージを入れることも可能ですよ」
「いいんだ。そういうのは」
 きっぱりと断る。ハックスはセンチメンタルなことが苦手だ。単に照れくさいのか、もっと深い理由があるのかはわからないが、どちらかと言えばロマンチストなレンには、それが時々恨めしい。たまには、いかにもそれっぽいことをしたい。
 指輪を贈るのもギリギリの線だろうな、と今さらながら冷静になる。着けてくれるかどうかも怪しいものだ。
それでも、妖しく美しい繊細なこの金の環が、彼の指に嵌った様を見てみたい。
 ──きっと、綺麗だ。
 そこまで考えて、レンははたと気がつく。
 支払いは、今するんだよな、勿論。でも、どうやって。
 いつもハックスはどうしていた。カードか、そうでなければ何か帳面のようなものに書き付けをしていた記憶がある。こぎって、と呼んでいた気がするが、あれは何だ。
 ハックスが今遊び回っている金は、そもそもどこから出ているのか。
 俺は、俺の金を持っているのか?
 今までは、「欲しい」と言えば手に入った。だが、どういう仕組みで。
 じわじわとレンがパニックに陥りはじめたことなど知る由もない店員は、にこやかに店の奥へ消えていった。
彼女が戻ってくるまでに、なんとかしなければならない。
 ──物々交換とか、さすがにないよな。
 これは、地味ながら絶体絶命の危機では、と絶望しかけていたレンの耳に、救いの声がもたらされたのはその時だった。
Kケイ!」
 もはや懐かしさすら覚えるハックスの呼び声に、レンは勢いよく振り返る。
「アーミ」
 助かった、という心底の想いが、レンの表情にも声にも滲む。
「こんなところにいたのか。探したぞ。トラブルにでも巻き込まれたのかと」
「すまん、心配かけた」
「お前のことは心配してない。むしろお前にぶちのめされた相手から訴訟でも起こされることを──お、なんだ、欲しいものでもあったのか?」
 憎まれ口を叩きながらも安堵の色を隠そうとしない恋人は、すぐにレンが珍しく店のカウンターにいるという事実を察知した。
「あ、いや、そうじゃなくて」
 あせって誤魔化そうとするレンをなだめるように、ハックスは笑顔を見せる。
「遠慮するな。お前が何かを欲しがるなんて、めずらしい」
 そう言いながらショーケースを覗き込み、中味がほぼ指輪であることに気がついたようだ。一瞬複雑そうな顔を見せたハックスだったが、しかし深くは追及してこなかった。
「それよりアーミ、質問があるんだが」
 レンが勢い込んで尋ねる。
「支払いって誰がしているんだ。俺、金持ってないよな?」
「何か買ったのか」
「い、いや! 違う、その、一般論だ。なんとなく気になって、だな」
「ふうん」
 考えの読めない無表情で、ハックスはレンをじっと見る。その視線に、もう白状してしまおうかと束の間、逡巡したレンだったが、サプライズをしたい憧れの方が勝ち、なんとか踏みとどまった。まごついていることを見抜かれませんように、と願いつつ、あくまでただの会話だという顔を維持する。
 しばらく問いかけるような視線を向けていたハックスは、やがてあきらめたように溜息をついた。
「一般論かどうかは知らんが、今までの支払いなら、全部俺がしてる」
 その答えに、レンは度肝を抜かれる。
「俺の飲み食いした分も? 全部あんた持ちなのか? オーダ、じゃない、会社関係なく?」
 知らず知らずのうちに声が大きくなる。
「当たり前だろう。休日の私用で、会社の金を動かしたら、それはただの使い込みだ」
 言われてみればもっともだ。なぜそんな単純なことに、もっとはやく気づかなかったのか。レンは愕然とした。
「じゃあ、俺はずっとあんたに奢られっぱなし──」
「お客様、お待たせいたしました」
 奥から姿を現した店員がハックスを見て、あら、と微笑む。
「お連れ様ですね」
「あ、ええと」
 なぜか顔が赤らむのを感じながら、レンはもぞもぞと居心地悪そうに身体の向きを変えた。
「そうです。あとは私が」
「えっ? おい、アーミ」
「いいから、お前は外で待ってろ。──どうも、お聞き及びかもしれませんが、私が彼の横暴な恋人です」
「あら、そんなこと」
 噴き出す店員に、ハックスがとろけるように甘い微笑みを浮かべてみせる。
「ちょっ、俺を無視するな!」
「ケイ、荷物は」
「あっ」
 二人のやり取りをおかしそうに眺める店員は、もはや完全にハックスのペースに飲まれていた。こうなっては勝ち目がない。
 レンはすごすごと荷物を引き取り、店をあとにした。

§

 数分後、ふたたび大量の荷物に埋もれて半分見えなくなったレンと並んで歩きながら、ハックスはレンからの質問攻撃に遭っていた。
「さっきの買い物、あれもアーミの金なのか?」
「いいや、あれはお前の金で買ったよ」
「どういうことだよ、意味がわからない」
「どういうも何も、お前が欲しがった物だろう。だから、お前の口座から支払う。普通のことじゃないか──おい、お前本当にわかってないのか?」
「だって、俺は金なんて持ってない」
「お前の分はこれだよ」
 ほら、と示される小さな冊子状の紙の束に、レンは目を丸くする。
「これ、“こぎって”だろ? 俺のじゃないぞ」
「お前のだよ。お前が個人的に買った物は、この口座から出てる」
「こうざ? 誰の?」
「お前の。俺が貯めておいた」
 しれっと答えるハックスに、レンの混迷の度合いは深まっていく。
「え……でも、俺、サインしたことない……」
「小切手の形ではな。――ああ、詳しい説明は後だ、この世間知らずのお嬢さんめ。荷物がえらいことになってきたし、いったん部屋に戻るぞ」
「え、本当?」
 ぴくりと眉を動かしたレンに、ハックスはくるりと振り返る。
「言っておくが」
 そして、断固とした口調で釘を刺した。
「時間がもったいないから、ヤらんぞ」
「……ハイ」

§

「あの、ハックス」
 ホテルの部屋に戻り、溢れんばかりのショッパーを片付けたレンは、手伝うでもなくただベッドに伸び、小切手の仕組みについて講釈を垂れていた男に声を掛けた。
「……これ」
 彼の掌には、さきほどの店で入手したちいさな箱が載せられていた。
「あんたに、やる」
「意外性のない男だな」
 礼を言うでもなく苦笑するハックスに、レンも釣られて笑う。
「だよな。やっぱ、バレてたよな」
 ハックスがベッドからむくりと起き上がった。
「指輪だろ。嵌めてくれないのか」
 そう言いながら、無言で革手袋の左手を差し出してくる。
 ──何も言ってないのに、左手出すんだ。
 恭しくその手を取り、跪きながらレンは内心、ロマンチックなのは嫌いなんじゃなかったのか、とニヤつく。
「ここで右手出したら、お前、左出せってゴネるだろ」
「……あんた、実はフォース=センシティヴなんじゃないだろうな」
「お前の考え、十人中八人は読めるぞ、たぶん」
 恋人の減らず口を聞き流しつつ、レンは彼の左手の手袋をそっと剥ぎとりにかかる。
「お生憎様、俺にはマスクがあるからな。お蔭でみんなびびってる。馬鹿みたいに」
「……賢明な判断だよ、まったく」
 あらわになった彼の指先、短く切り詰められた爪は、ダークチェリーに彩られていた。昨夜戯れにそれを塗ったときの情景が脳裏をかすめ、レンは微かな欲望を覚える。思わず軽く手の甲に口づけると、ハックスはくすぐったそうに笑った。
 箱から指輪を注意深く取り出し、そろそろと指に嵌める。細い金の環は、当然のような顔をして、するりと彼の薬指におさまった。爪先の紅と呼応するように、小さなルビーが燦めいた。
「サイズぴったりだ」
 レンが感嘆の声を漏らすと、
「ていうかお前、伝えてなかっただろう」
 ハックスが苦笑する。
「あ! ……え、もしかして」
「どうせ俺のだからと言ったら、笑ってたよ」
 なかなか感じが良かったな、彼女、とハックスは笑う。
「ちぇ。驚かせるつもりだったんだけどな」
「充分驚いてるよ。どうやって見つけた? ふだんは指輪どころか、服にだって興味がないくせに」
「わからない。あの店の前を通ったとき、直感したんだ。──これ、あんたのだって」
 嬉しげに自身の左手を眺めていたハックスだったが、その言葉に眉根を寄せる。
「俺は、こんな繊細じゃないぞ」
「……気に入らないか?」
 一転して心配そうな顔になるレンに、慌てて首を振ってみせる。
「いや、そうは言ってない。ただ、なんだか──」
 首筋を撫でさすりながら困ったように言うハックスの顔は、少しだけ上気していた。
「──褒めすぎだろう」
「もしかして、照れてるのか?」
 あ、忘れないうちに。ハックスが、レンの言葉を遮るように唐突に胸先に拳を突き出した。その手には、さきほどレンが贈った指輪と同じ店の箱が掴まれていた。
「これ。俺から」
「え? 俺に?」
「他に誰にやるんだよ、いいから開けてみろ」
 不審そうな顔をするレンに天鵞絨の小箱を押しつけ、ハックスはあさっての方向に顔を逸らす。
「うお、かっこいい!」
 渋々箱を開いたレンが、感嘆の声をあげた。
 丁寧に台座から取り外し、レンは部屋の窓にむかって透かすように持ち上げてみる。
 それは、銀製の指環だった。
 石こそ嵌っていない地味なデザインだが、ハックスのものと同様、ディテールが徹底的に作り込まれていた。
「鳩の大腿骨のデザインだと」
「は、ハト? ハトの骨?」
 突拍子もないことを聞いたかのように、レンは目をしばたかせる。
「どういう趣味だよ、ハトって」
「……気に入らないなら返せ」
「嫌だ」
 奪い取ろうとしてきたハックスの手をかわし、レンはさっと自分の手袋をはずして指に嵌めた。もちろん、左手の薬指に。
 それを見たハックスが、フンと鼻を鳴らす。
「まあ、お前には鳩の骨がお似合い──」
「──なになに、“アフロディーテの象徴である鳩の遺骸から取った骨、というコンセプトで……”」
 ギフトボックスに同封された紙を読み上げると、ハックスは仏頂面になった。
「あっ、なんだよ、書いてあるのか。無粋なことしやがって」
「へえ。え、でも、俺がアフロディーテ?」
 にやけていたレンの顔が険しくなる。
「なんだ、不満か」
「不満ってほどじゃないけど……」
「生まれたのがゼウスのちん」
「やめろ、そこじゃない! いや、だって、アフロディーテって美の女神だろう。しかも、すごく多情な奴じゃなかったっけ」
 おぼろげな神話の記憶を手繰りよせながら、レンは口を尖らせる。
「俺は、あんた一筋だ。今までも、それに」
 これからだって。
 自然と口をついで出た台詞に、ハックスの動きがぴたりと止まった。同時に、レンは自分でも驚いた。
 ──そうか。
 俺は、彼と一緒にいたいのか。
 この先も、ずっと。
 ──だから。
 彼に疎まれる未来がくるのが、怖かったのか。
 殺されるならばまだ良い。しかし、ただ背を向けられたら、俺の心は、無事ではいられないだろう。そんな苦痛は、耐えられない。
 いつの間にか、そんな不安が大きく育っていた。彼から慈しまれるほどに、失いたくないと願う気持ちが強くなっていった。
 形式なんか要らない。俺たちはこれでいい。そう言い聞かせる反面で、かぼそい指輪に縋りたいほどに、繋ぎ止める確かな物を欲していた自分に気づき、レンはたじろぐ。
「ハックス、俺」
 急に言うべき言葉を見失い、黙り込んでしまったレンを見ていたハックスが、静かに口を開いた。
「アフロディーテの由来については、源流が諸説あって混乱してる。古い神話になればなるほど、信仰の原型が混ざり合い、多くのイメージが合流するからな。アフロディーテも例外じゃない。だが、すべての信仰において一致している部分がふたつある。それが何だか知ってるか?」
「な、なんだよ急に」
 唐突に始まった流暢な神話講義に面食らうレンに構わず、ハックスは続けた。
「ひとつは、いかなる存在をも魅了するほどに美しい姿であるということ。それが彼女のアイデンティティだからな。そしてもう一つ、とても重要なことがある。彼女は、醜い夫に生涯心を許すことはなかったなどとも言われるが、伝承によって様々にその実像を異にする。だが、ひとつだけ共通するのは──彼女は、最後には、必ず夫に帰るんだ」
「え……」
 ハックスの言葉が、レンの中でゆっくりと意味を為していく。ハックスは柄にもなく、爪を噛み始めた。
「……え。え? それって……」
「そ、そこまで深い意味はない。ただ、お前が今日、急に消えたりするから……迷子かと思って、少し焦って……」
 レンは、目の前で珍しくしどろもどろになっていく恋人を呆然と眺めながる。眺めながら、もしかして、と思った。
 もしかして。
 彼も同じなのだろうか。
 俺と同様の不安を、愛しさを、身のうちに育てているのだろうか。もし、そうなら──嬉しい。おぞましい喜びかもしれない、とチクリと胸が痛む。けれど、彼もまた、自分と同じくらい、俺を必要としてくれているのなら。もし、そうなら、俺たちはきっと。
「験担ぎじゃないが、二度と迷子になってくれるなよ、という意味で、だな」
「ありがとう」
 自分の言葉に引っ込みがつかなくなっている恋人をまっすぐに見つめ、レンは静かに告げた。
「大事にする」
「……お、お前は、仕事に支障をきたすだろう。別に、外していい」
 ぶっきらぼうにぼそぼそと言う。
「やだよ。外すもんか。絶対に外さない」
 レンは、嬉しそうに自らの左手を眺めた。
 無骨な指に、黒い銀の骨が、刻印のように絡みついていた。か細く、しかし本質的な命の形をした祈り。自分たちが纏うのに、相応しい証だという気がした。
「女神から賜った愛の残骸、ってとこかな」
「……ど、どうした。急に詩人みたいなことを」
「うるさいな。ハックス、意外とロマンチストなんだな」
「なっ、誰がだ! 俺はお前に──」
 ムキになる恋人がやけに愛おしく、まぶしく見える。
 レンはニッと笑うと、照れ隠しに激怒している彼の引き寄せ、唇をキスで塞いだ。
 初め軽く触れる程度だったそれは、何度も繰り返されるうち、すぐに濃厚なものに取って代わった。
 言葉にならない想いを籠めるように、レンは何度も彼の口腔を深く貪る。
「レン」
 きれぎれの吐息の隙間から、ハックスが喘ぐように言った。
「……もう、勝手に消えるなよ」
「大丈夫。俺は、あんたの居るところに、必ず帰るよ」
「もし迷ったら、動くな。俺が必ず迎えに行くから。それまで良い子で待ってろ」
「うん」
 甘えるように答えて、レンはハックスを強く引き寄せる。
 ハックスの手がさりげなく、レンの太腿の間を這い回り始めた。
「あれ。“時間がないからヤらない”んじゃなかったか?」
 悪戯っぽく笑って尋ねれば、恋人もまた、ニヤリと笑う。
「そうだったか? そうだな、じゃあ──立ったまま、着たまま──ってのは、どうだ?」
「……賛成」
 やがて、部屋には二人の激しい吐息だけが響く。
 絡ませた左手の指環がかちあい、かちり、と硬質な音を立てた。

<了>


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