悩みがある。
どうでもいい悩みが。
どうでもいいんだけど、僕にとっては切実な悩みが。
まだ寝ぼけている頭のまま、むくりとベッドから身を起こす。
生成りの麻のカーテンから射し込む朝陽がやわらかい。その角度から、少し遅寝をしてしまったことを知る。もっとも、今日は店の定休日だから、当初からそのつもりではあったのだけれど。
ベッドからそっと降りて、昨夜ふたりで脱ぎ散らかした服を床から拾いあげつつ、窓際まで行く。
カーテンを一気に開くと、春の陽射しが寝室にあふれた。
庭のコブシはもうとうに散ってしまって、入れ替わりみたいに咲いたハクモクレンもそろそろ終わりだ。ここ数日で急に暖かくなったからか、遠くに見える桜のつぼみが色づき始めているようにも思う。あとで二人で散歩がてら見に行こう。
遅めのブランチは、ブルーベリーのパンケーキにしようか、それともガレットにハムと目玉焼きとチーズでがっつり……と考えるともなしに考えていると、ベッドの上でのそりと人の動く気配がした。
「ふぅぅぅぅうん」
そして、まぬけな唸り声。
振り返ると、アーミテイジが目をさまして伸びをしていた。半開きの目をこすりこすり、僕のほうを見てふにゃりと笑う。
「おはよう」
まだねぼけているのだろう。その発音は「ふはぃひょ」みたいな、意味不明な音に近かった。
「おはようございます」
「今日はあったかいなあ」
「むこうの桜、つぼみが膨らんでるみたいなんですよ」
今見たばかりの景色を報告すると、
「本当か?なら、あとで散歩がてら見に行こう」
僕とおなじことを言う。些細なことが嬉しくて、つい笑顔になってしまう。
「僕も同じことを考えていました──ねえ、ガレットとパンケーキ」
「ガレット」
「はい」
「チーズ多めで」
「……はい」
太りますよと言いたいのをグッとこらえて渋々頷くと、やったあ、と小躍りする姿が愛らしい。愛らしいとは言っても、髭面蓬髪(ひげづらほうはつ)、しかも四十路のおじさんなのだけれど。こんなに可愛らしい人は、この世界のどこをさがしたって彼以外にいやしない。少なくとも、僕にとっては。
ふわあと小さな欠伸をしながら、ベッドを軋ませて降りる彼をニヤけ面で眺めながら、不意に僕は起き抜けの悩みを思い出した。
アーミテイジが床に下りる。彼はパジャマの上しか羽織っていないから、形のよい脚が剥き出しになる。けれどパジャマは彼にぴったりのサイズで、裾は適度に太もものあたりまで垂れていた。
ああ、もったいない。
僕は内心でため息をつく。
僕たちは、彼のほうが背が高い。だから事後、サイズ的に彼は僕のパジャマを着られない。
つまり。
……できないんだよな、「彼シャツ」が。
ちょっとオーバーサイズ気味の上だけを羽織った彼を見たい──それが、僕のどうでもいい、しかし切実な願望だった。
引き締まったお尻が見えないことが問題なのではない。ぴったりきっちり、かちっと隠れていることが問題なのだ。
そうじゃなくて、少し長めに……身幅の余裕をもって裾をひらひらさせたりとか、袖がちょっと長くて手の甲まで掛かってたりとか、さあ!
「フェル」
髭もじゃ長身の彼が、ちょっと大きめの他人の服を羽織ってたら、たまらないと思うんだけどな……。ううっ、己の低身長が不甲斐ない。もっと少年期に牛乳とか飲んでおけば良かったんだろうか。不覚……。
「おーい、フェル? フェルってば?」
「う、うわあ!」
不審げな声にはっとして顔をあげると、いつの間にかアーミテイジが僕の間近までやってきて、顔を覗き込んでいた。
「近っ!」
「お前が急に口開けて、私のことぼーっと見つめ始めたんだろうが!どこ行ってたんだよ、まったく……」
腕を組んで僕の前に立つ彼の前は、やっぱりジャストサイズでお行儀よく隠されている。そうじゃない。隠すならもっと、こう……
「フェル! しっかりしろ!」
「ヒイ! はい!」
ふたたび妄想の世界に沈んでしまった僕を、アーミテイジの一喝が呼び戻す。い、いかん、いかん。しっかりしろ、僕。
「す、すみません、ちょっと考え事が」
「……あ、もしかして──」
作り笑いを浮かべて誤魔化そうとする僕を胡散臭そうに見ていた彼が、急にニィッと笑った。うわ、かわいい。
「──えっちなこと考えてたんでしょう!」
「ヒエッ?! いいえ?! まったく?! ちっとも?!」
綺麗に声が裏返った。
「嘘だな」
ハイ、嘘です。僕はさっと目を逸らす。
「あ、朝ごはん用意しないと──あ、ちょっと、邪魔ですよ、どいて」
白々しい演技でアーミテイジを交わして寝室を出ようとして、からだごと進路を阻まれた。
「どんなやらしいこと考えてたんだ」
「考えてませんて、ど、どいて」
「やだどかない。教えてくれるまでどかない」
「何も考えてません。朝ごはんのことです」
「ふうん」
「ほら教えたでしょ」
どいてってば、という最後の一言は、アーミテイジのキスで塞がれた。わざとらしくブッチュウウウウと音を立てて唇を放した彼の顔には、チェシャ猫の笑顔。
「おはようのキスもしないで寝室を出る気か?」
「…………あ」
忘れていた。忘れるくらいに慌ててしまった。
「そうまで隠したいほどエグい妄想してたわけか」
えっちだなあフェルは、とにまにま笑う彼に、僕はさらにあわてた。
「いや、そんな、違います……!」
「そうか、そうか。いいぞ、言わなくても。今度その妄想を、ちゃんと私にぶつけてくれたまえ! このムッツリさんめ!」
ふはは、と高笑いすると、アーミテイジは勝手にひとり合点して部屋を出ていってしまった。
「ち、違うのに……」
彼を止めようとして中途半端に伸ばされた手が、むなしく空を撫でる。
ぽつんと部屋に取り残され呆然と佇む僕の耳に、去って行くアーミテイジが盛大なくしゃみをして「コンチクショウ、杉の野郎め!」と怒鳴る、間抜けな声が届いた。