夜は、僕の時間だ。
白日の下に晒される、なんて言葉があるくらい、太陽の光は容赦ない。
しかし、闇は優しい。すべての境界を曖昧にする。
なんてことない街路樹が、庭に茂る植物たちが、意味ありげに暗がりを囲いだす。ざわざわと枝を鳴らす風や、闇を生きる者達の光る目。
月のあかりは、太陽のひかりではかき消されてしまう、あるかなきかのかぼそい痕跡、曖昧な存在、そんな者たちを呼び起こす。目覚めさせる。
*
ちかごろ僕は、夜に外出する。
アダムだけに血の供給を頼むわけにはいかない。だから、僕は僕なりに、自分の腹を満たす方法を見つけ出した。
夜の道路のゆくてに、煌々と白く発光する病院があらわれる。念のため、パーカーのフードを目深に被りなおし、正面入り口のだいぶ手前で左手に折れた。そのまま裏に回る。
金に困った大病院勤務の医者が、いまの僕の“密売人”だ。
本来であればICUに回される輸血液の一部を、こっそり回してもらう。緊急外来に運ばれる重病人には気の毒だが、生存競争だ。仕方ない。
ICUを備えているような大きな病院でも、裏手は人(ひと)気(け)がまったくない。
コンクリートの塀ぞいの植え込みに、虫の声だけが響いている。数メートルおきに配置されたまばゆい常夜灯があたりを照らしてはいるが、光の届かない外側は深い闇に沈んでいた。
周囲をうかがい、すばやく塀を乗り越える。
今の僕は、体重が半分になったのかと思うほど身が軽い。夜のほうが力が発揮しやすいことを知ったのは、ここ最近だ。
風のように素早く敷地内を走り、ロックを外しておいてもらったドアノブをそっとひねると、建物に身を滑り込ませた。
しんと静まりかえった薄暗い廊下で、神経を研ぎ澄ますせば、病院内にいる人間たちのたてる足音、息づかい、脈打つ鼓動。すべてが手に取るようにわかる。
目指す夜勤室は、まっすぐに伸びた廊下の終点だ。一人、看護師がなにやら仕事をしているようだったが、一人ならなんとかなるだろう。
呼吸をととのえ、気配を消す。自身の存在が今いる世界とは切り離され、その隙間に落ちこむような感覚。忘却の川に片足を突っ込んだようにひやっとして、不安定で、あまり気分のよいものではない。が、仕方ない。これが今の僕なのだ。
半透明な存在となって、堂々と廊下を歩く。
医療用カートの整理整頓に夢中になっている看護師は、そばをとおりすぎても僕の存在にはまったく気づかなかった。
難なく〝密売人〟の部屋にたどりつく。
彼は、夜勤室の片隅の古ぼけたPCに向かい、船を漕いでいた。
「やあ」
背後から声をかけると、椅子から十センチほど飛び上がった。いきおい耳から外れたイヤフォンから、ヘヴィメタルがかすかに流れ出す。
彼はなぜか、ゆっくりと振り返ったた。そして僕の姿を認めたとたん、あからさまに嫌そうな顔になった。身ぶりでドアを閉めろと促しつつ、慌ただしくロッカーに向かう。
僕は黙って頷き、後ろ手でドアを閉めた。
「あんた、いっつも気配がないからびっくりするんだよ」
愚痴をこぼしながら、大きなクーラーボックスを運び出してくる。
デヴィッド・スレイド、一九六九年九月二十六日生まれ、イギリス出身。眼鏡をかけていることをのぞけば、医師というよりプロレスラーのような強面だ。が、今はつるりとした禿頭に、恐怖の冷や汗をにじませている。
「これで足りるはずだが」
僕の足元にクーラーボックスを滑らせて寄越しながら、けして一定の距離から先は近づいてこようとしない。吸血鬼という異形の忌まわしさを、本能的に察知しているのだろう。
賢明だ。
ボックスの中身にチラリと目を遣る。
輸血用血液のパック。
それなりの量が詰め込まれていた。
ふたたび無言で頷き、机の上に金を放り出す。デヴィッドは飛びつくようにして数えだした。その間も、僕への注意を怠らない。
僕は僕で、血液パックを手持ちのデイパックに移し替える。
用は済んだ。長居は無用だ。
やがて、金額を確認し終えたデヴィッドが、軽口を叩きながらこちらに向き直った。
「うん。確かに。それにしてもあんたも変な奴だよ。何だってこんな――」
の瞬間を逃さず、彼の視線を正面から捕らえる。
ただでさえ忙しくて目を回している医者を、催眠にかけるのは容易い。
僕の瞳の光が、彼の虹彩に赤く反射する。
デヴィッドはすぐに僕の顔を忘れ、崩れるように再びPCの前に座り込み、眠りにおちた。
僕は病院を後にした。
*
家に戻る道すがら、アダムのトレーラーハウスに立ち寄ったのは気まぐれだった。
アダムが暮らしているトレーラーは、町外れにあるトレーラーパークの一画に駐められている。
パーク自体が寂れて閑散としているうえに、夜中なので人っ子ひとりいない
典型的な貧乏白人が暮らす小さなトレーラーたちがまばらに点在するなかに、彼の〝家〟もあった。
これといって特徴のない白いバンのような見た目だが、年季が入って車体は黄ばんでいた。窓はきっちり閉められ、シャッターが下りている。
近頃、アダムはもっぱら僕の家を根城にしているため、生活感がいくぶん希薄になってきた彼の車は、なんだか廃墟のようにも見えた。
パークの外はちょっとした林のようになっている。僕はそちらに足を踏み入れると、アダムの家が見下ろせる木を見つけ、てっぺんまで飛んだ。
木登りは得意じゃないが、こうして空を飛べるようになると、木の上は思った以上に居心地が良いことがわかった。なにより、人目につきにくいのだ。
座り心地のよい枝をみつけて腰を下ろす。足をぶらぶらさせながら、地上をぼんやりと眺める。
アダムの車は、ルーフがまったく洗われていなかった。彼らしい。
ひんやりとした夜気を楽しみながら、とりとめのない思考はやがて、今ごろ古びたカウチでぐうすか眠りこけているであろう友人へ、そして僕自身へと向かった。
アダムと出会って、僕ははじめて生きることに前向きになれた。そしてようやく、自身の置かれている状況を考え始めた。
すると、おかしなことが沢山あることに気づいた。
たとえば、僕は、努力すれば鏡に映ることも可能だ。しかし、そんな術は例の『マニュアル』のどこにも記されていない。
そこで気づいたのだが、じつは僕は、いまだに歳を取り続けているようなのだ。
苦労して映した鏡の中の自分の顔は、十八歳の僕より、確実に成長していた。
アダムは、僕の術がマズいのをただのヘタレだと笑う。確かにその可能性も大きい。僕はハイスクールでも、ヘタレのナードで有名だったから。
でも、どうも引っかかる。
力を発揮しようとするとき、たびたび「限界」に突き当たる。比喩ではなくて、本当に見えない壁があるかのように、なにかが僕を阻害していると感じる。
これらのことから、僕は吸血鬼として、「成長しきっていない」んじゃないか、という疑惑に苛まれている。
そもそも、あの地下室だっておかしい。
僕が吸血鬼(ヴァンパイア)になってから作り始めたなら理解できるが、現実は違った。物心ついたころには、もうあのシェルターのような空間はできあがっていた。
それに、歳を取らない吸血鬼になってしまったら、知己の多い故郷を離れるのが順当なはずだ。しかし、父はこの地に僕を留め続けた。知り合い達に見つかる危険を冒してまで、一体なぜ。
さらに、そこにアダム父子(おやこ)がやってきた。オマケに父たち――僕の、そしてアダムの――は、ほぼ同時期に相次いで亡くなっている。
なにか因縁がある気がして仕方ない。
不意に、ざわりとした視線を感じ、僕はさっと身を翻した。
木々の間に隠れ、息を潜める。
ざくざくと遠くから近づいてくる足音。
――ん? これは……。
「落ちても知らねえぞ、ヘボ吸血鬼」
やっぱり。誰あろう、今頃はおねむの時間のはずのアダムが、地上からこちらを見あげていた。
「もしかして、着けてきたの?」
ふわりと地面に着陸すると、アダムはなんだかまぶしそうに眼を細めて僕を見た。眠そうだ。
「けっこう難しかったよ。お前の気配、すぐ消えるから」
「……あれ。もしかして、褒めてくれてる?」
「夜のお前は、腐っても吸血鬼ってとこだな」
けっきょくは見つかってるけどな、とニカッと笑う。
「僕に用?」
「いや、別に。――ていうか、お前こそ何で俺ん家なんか来てんだよ」
「泥棒とか入ってないか、チェックしといてあげようかと思って」
咄嗟にウソをついた。が、あっさり見抜かれる。
「ウソこけ。で、血は? ちゃんと買って来られたか?」
「うん。上々。ていうか、アダムくん、僕のこと信用してないの? 自分のご飯くらい、僕だって自分で調達できるよ」
「信用してないわけじゃないさ。けど、ちょっとな」
いつもの彼らしくもなく、アダムは頭を掻き掻き足元を見つめている。
「――なあ、ドーナル。お前、もしかして何か悩みでもあんじゃねえの?」
「え?」
予想外の言葉に、僕は数秒声を失った。
「お前、なんか最近変なんだもん。急に黙ったかと思うと、すげえ怖い目してたりするし。そんなん、ドーナルらしくないだろ。それで、まあ……」
口を濁すアダムは、それから小さい声で、心配でさ、と付け加えた。
「なんかあるなら、言えよな。もう、お前一人じゃないんだし。せっかく一緒に暮らしてるんだし、つか、俺ら友だちじゃん」
「アダム君……」
彼の優しい言葉に、僕は思わずすがりそうになる。
今の戸惑いを、疑問を、彼と分かち合いたい誘惑に駆られる。
ねえ、アダム。
本当のことを言うとね。
「ありがとう」
嫌な予感がするんだよ。
「――でも、大丈夫だよ。僕はいつもどおり、元気だ」
本来なら、君は僕を殺していなければならなかったんじゃないか?
成長しきる前の、僕を。
「僕は僕で、君の役に立てることないかなって考えてただけで」
もしそうなら、僕が取れる最良の道とは、一体なんだろう。
「まあ、それが、自分のご飯くらい自分で作るっていう結論しか出てないのは、情けない話なんだけど」
死の恐怖に震える僕を、自分のプライドも命も鑑みずに救ってくれた、やさしい君。
他でもない、だいじな君のために。
「だから、不甲斐ないなって想いが顔に出ちゃったのかな。ポーカーフェイスもできないなんて、ダメな吸血鬼だよねえ」
ハハハ、と笑って見せたけど、うまく笑えただろうか。
不安になってアダムを見れば、彼もまた、僕を見ていた。
「ドーナル」
滅多に見せない真剣な顔をしていた。
「お前、ウソ下手な」
ぽつりとそう言って、くるりと背を向ける。
「ほら、帰るぞ。ぼさっとしてると犬に吠えられる。隣のトレーラーの爺が飼ってるチワワ、クソ強いからな」
「あ、アダムくん」
何か言わなくちゃ。
拳を握り締めるが、気ばかり焦って一向に言葉が出て来ない。彼に、ウソじゃないって信じてもらえるような、何かを。
じゃないと、僕はきっと、君を巻き込んでしまう。悪い、すごく悪いなにかに。僕の血は呪われている。君はそんなことに関わっちゃいけない。だって、だって――
「あの、僕ね、アダムくんに助けてもらって、それで」
「勘違いするなよ」
「えっ」
「俺は俺の意志でお前を助けたんだ。狩人の矜恃として、あんたみたいなのを殺すわけにはいかなかったんだ」
「で、でも――」
「裏にどんな意図があれ、それはお前だけのもんじゃない。俺だって最初から当事者だ。安っぽい同情で、一人で突っ走ってヘタ打たれるほうが迷惑だぞ」
「……気づいてたの」
ぽかんと口を開ける僕に、アダムはあきれ顔をした。
「マヌケのドーナルが気づくことに、この俺が気づかないとでも思ってたのかよ?」
「うっ」
「まあ、黙ってた俺も悪かったよ。なんか楽しくてさ。歳の近い人間と一緒に暮らすの、初めてだし」
「それは僕も同じだよ。いま、すっごく楽しい。だから……」
だからこそ、君を守らなきゃ。そう思って、僕は。
「俺もさ、言わなきゃこのままずっと楽しく暮らせるかな、とか、ちょっと考えちゃったんだよなあ。けど、まあそういうわけにも行かないよな」
「アダムくん……」
快活に笑ってみせる彼の笑顔に、さっきまで頑なに凝っていた僕の心が解けていった。
一人で悩んでいたのが、ウソのように。
――また、君に助けられた。
三歳も歳下の君に。
革ジャンにジーンズ、黒髪長髪という、時代錯誤なファッションが、やけにまぶしく見える。
そのまぶしさは、太陽みたいに強烈なものではなく、月の光のようにやさしく、やわらかい。
道路の縁石の上を、両腕いっぱい伸ばしてバランスを取りながら歩く彼のうしろ姿を追いかけ、僕は彼によびかけた。
「ねえ、アダムくん。飛んで帰らない?」
アダムは即座にくるりと振り向き、え、マジ? いいの? と目を輝かせた。
「って、途中で取り落としたりしないだろうな……」
「大丈夫。言ってなかったんだけど、夜の僕、けっこう術が強いんだから」
おいでおいで、と手招きし、僕は彼の脇下に手を差し入れ、もう片腕を膝下に回す。
「げ、待った、もしかして姫だっこする気か?!」
「はい、ちょっと黙っててね」
精神集中して軽々と彼を持ち上げると、珍しくアダムは小さく叫んだ。
「じゃあ行くよ。ちゃんとつかまっててね」
「お、おい。ほんとに飛べるのかよ……? つ、つらいとか思ったら、早めにやめろよ? 俺まだ死にたくないからな?」
「安心して」
二人の身体がふわりと宙に浮き上がる。
アダムが、身を縮こまらせて僕の首にしがみついた。
僕は地面を蹴った。
遙か夜空に向けて、高く。
「夜は、僕の時間だからね」