ムーンライト・ドライヴ

 形の良い唇からつぶやくような歌声がこぼれる。聞き慣れぬ異国の言葉に、俺はしばし耳を傾ける── などと言えば、少しは恰好もつくのだろうか。 愚にもつかない考えごとを、俺は頭をふって追い払う。 高速を走るワンボックスカーは...

 人は罪深く、けれど神はすべてを赦したもう。と、目の前に転がる男は言った。清廉な瞳をした、ハキハキと歯切れよく喋る、気持ちの良い青年だった。 裏表なく人に優しい。義に篤い。教養も深い。それでいて、文化的知識人(インテリゲ...

まなざし

 母はだらしない女だった。 そう聞かされて育った。 実際、記憶のなかでも「だらしない」に相当するエピソードには事欠かない。 たとえば小学校の頃、授業中に高熱を出したことがあった。たしかあれは、三年生の初夏だったとおもう。...

僕の昼

 昼は── お日さまが、空の高いところにあるじかんだ。  ばあちゃんは、畑にいる。 じいちゃんは、山にいる。 おれはときどき、こっそり雉を撃ちにいく。 じいちゃんの銃だから、見つかったらしかられる。  家にいるより、生き...

 自分(テメエ)に酔っていやがる──。 見境もなく進軍していく男たちの背中を見送りながら、尾形はそう思った。 これが謀反であるという認識さえしないまま鶴見に付き従う者は、屹度(きっと)多い。 尾形とて、これが中央に対する...

仏ヶ浜

 俺はこっちのほうが好きですがねと言うなり、尾形は俺の手を取った。 熱くも冷たくもない、かさついた指先が手の甲をまさぐる。 困惑して顔を上げる。 奴は無表情のまま、無心に撫でているように見えた。  ──常陸国じゃ、巨人の...

春霞

 北海道の春は遅い。 奉天戦で負傷した月島基の復員は、他の兵士たちより一足遅れた。 ひさしぶりに踏んだ内地の土は、四月でも霜の気配を残していた。吹きつける寒風に、砲弾を受けて裂けた下腹の傷が疼く。それでも、斬るような冷気...

震え

 誰だってそうだ。 脳に染みついた言葉が揺れた。 芯から体が冷えるのは雪のせいではない。いつからか呪(しゅ)と成り果てた、この妄念のせいだ。 寒いのか、怖いのか。瘧のようにふるえる体は止めようもなく、やがて心の洞(うろ)...

堆く

 明治初頭、死罪人の処遇は斬首から絞首に変わった。らしい。 ほんとうのところは知らない。 食堂の片隅で、古参兵が声高にそんな話をしていて、飯を食い終わった俺は、ぼんやりと横から聞いていた。 だが、と話はつづく。 それは一...

悪夢

 凪いだ湖の上空を、白いカモメが一羽、飛んでいく。 まっすぐな軌跡をひたと見据え、尾形はしずかに呼吸を止める。 耳の痛くなるような静寂。 ──まだだ。 まだ遠い。 もう少し。 もう、すこし。 ──今だ。 確信の念よりはや...