日常茶飯事・夏



「で、なんて言ったんすか、その女性は」
 俺のことを、と尾形が尋ねる。
「あー、いや」
 どこか挑むような口調の尾形に対し、月島の答えは歯切れが悪かった。くたびれたランニングシャツの胸元をぱたぱたとやって風を入れながら、さりげなく視線を逸らしたりしている。開け放った窓の外では、ミンミンゼミがあらんかぎりの命をふりしぼって大合唱し、夏を謳歌している。尾形は、ははん、と目を細めた。
「当ててやろうか」
 意地の悪いその笑みに動揺したのか、月島がさらに視線を泳がせる。
「──“女殴ってそう”」
 カコッという硬い音とともに、扇風機の黄ばんだスイッチがぴょこりと元に戻った。途端にファンから送られる風圧が弱くなる。尾形はひょいと足を伸ばすと、足の親指を器用に使って「強」のスイッチを押し直した。扇風機はゴォオと音を立て、ふたたびフル稼働をはじめた。
「すまん」
 気まずそうに月島が謝る。尾形は笑った。
「やっぱな」
「すまん、その」
「気にせんでください。その評価はトップ3に入るやつですから。ちなみに第2位です。つか、なんでアンタが謝るんだよ」
 つくづく変な人だなとなぜかうれしそうに尾形は言う。だってよと月島が顔を背ける。その動きが扇風機の首降りと連動しているようで、尾形は吹き出しそうになる。
「俺も特に訂正しなかったから」
「だって、そん時ゃ俺のことまだよく知らなかったでしょうが。月島さんあのね、それアンタの悪いクセですよ」
「俺の? 悪い癖? どこが」
 不満そうに唇を尖らせる月島の顔は、ふだんより少しだけ幼く見える。ベランダからのぬるい風が部屋を吹き抜けていった。
「そうやって、なんにでも自分の罪を見つけて、ねじ込んでくるとこです」
「そ、そうか?」
「そうです」
 尾形は断言し、うっとうしそうに落ちてきた前髪をかきあげた。はしゃぐ夏休みの子どもたちが、自転車に乗って下の通りを駆けていくのが聞こえる。月島は手を伸ばし、座卓のうえのぬるい麦茶を飲んだ。汗をかいたコップから滴がしたたり落ちて、月島の黒いスエットをさらに黒く濡らす。つられたように尾形も自分のコップに手を伸ばす。セミの声は大きすぎて、いったいどの辺りで鳴いているのか見当もつかなかった。東京って、こんなに木ィあったっけか、と尾形はとつぜん不思議におもった。
「ちなみに第3位は何でしょう」
「何って、なにが」
 尾形のクイズ再開に対し、月島はやる気なさげに尋ねる。
「“尾形くんがよく言われるやつ”、第3位」
「……人殺してそう」
 ぶぶー、と言い、尾形はごろりと床に寝転がった。
「それは1位っす」
 ざーんねーんと妙な抑揚をつけて歌った尾形を、月島は真顔で眺めた。
「今のは笑うところです」
「面白くねぇよ」
 んだよノリ悪ぃなと言いながら尾形は起き上がる。麦茶を飲もうとしてコップが空なことに気づき、座卓に放るように戻す。そんで3位はと月島が興味なさそうに訊いた。
「“ホストやってそう”」
「ああ」
 答えながら座卓から立ち、勝手に月島の冷蔵庫をあけて勝手に月島の麦茶を取り出していた尾形が、廊下からヌッと顔を突きだす。
「なにが“ああ”だクソ島。殺すぞ」
 ペタペタと足音を鳴らしながら席に戻り、尾形は自分のコップへ雑に麦茶を注いだ。かなり高い位置からドボドボと無造作にそそぐせいで、座卓には麦茶が飛沫をあげて跳ね散らかる。月島が、露骨に嫌そうな顔をした。
「なんでだよ」
「俺にホストが務まるわけねぇでしょ」
「でもお前、面(ツラ)だけは良いじゃないか」
「俺の性格そろそろわかってきたでしょうに。人間がクソってほど嫌(きれ)ぇな俺が、顧客管理なんかできるかよ」
 万年ヘルプか、じゃなきゃ二流のメンヘラ製造機でとっくに滅多刺しされて御陀仏ですわと言いながら、尾形は月島のコップにも麦茶を足した。
「そういうもんか。ありがとさん」
「そういうもんよ、どういたしまして」
 あと主義的にも無理。ボソリと付け加えた尾形の言葉を、月島は聞き逃さなかった。
「主義?」
「あれ、言いませんでしたっけ」
 尾形がまた髪をかきあげる。口に出したのは自分のくせに、やけに怠そうだ。
「俺のオフクロ、ホス狂いでさ」
「ホス……? ああ、お袋さん、ホスト通いしてたのか」
 今の言い方で言うとだけどなと頷きながら、尾形は麦茶をちびちび飲む。暑(あぢ)ぃなとボヤくわりに、尾形はほとんど汗をかいていなかった。月島は汗だくだ。
「当時は、いいとこ色情狂とか言われてたっぽいけどな」
 そりゃ悪口じゃねぇかよと月島は顔をしかめる。
「そりゃそうだろ、昭和なんだし」
「時代は関係ねぇだろう。だいたいお前、平成生まれじゃねぇか」
「だから俺、基本、夜職は無理なんすわ。苦手意識っつーか。歌舞伎町そのものもイヤだし」
 何が「だから」なのかは知らないが、尾形はそうやって無理矢理に話をまとめると口を閉ざした。月島は黙って麦茶がなみなみ入ったコップを手に取る。だがすぐには口には運ばす、じっと茶色の水面を見つめた。
 気づけばワンルームの部屋は薄暗く、昼間の王者ミンミン蝉の合唱も消えている。かわりにヒグラシのはかない鳴き声がとぎれとぎれに聞こえ出していた。窓の向こう、かろうじて見えている夕陽は、オレンジ色をすぎて濃い茜色へと変わっている。ほんのわずかに涼しくなった風が吹き抜け、尾形の一本だけ跳ねている前髪をかすかに揺らした。
「基さんはさ」
 不意に尾形が低い声で言った。
「俺とおんなじような世界見てきたのに、なんでそんな優しいんすか」
 麦茶のはいったコップを握りしめたまま、月島は凍りつく。なぜだか顔を上げることができなかった。怖い気がした。カナカナという甲高い声が胸を締め付けた。夏の夕暮れのどこからから、さびしく、切なく、懐かしいにおいが漂ってきた。香取線香だ。
「俺は、べつに」
「なんつって」
 月島は顔を上げた。尾形のニヤニヤ顔と、まともに視線がぶつかった。
「あ?」
 思いきり片眉を上げた月島に、尾形はうひゃひゃと笑った。
「言ってみただけです」
「尾形、お前なあ」
「はは。ひぐらしの声聞くと、なんかエモいこと言いたくなりません?」
 冗談めかして目を細める尾形の顔を眺めながら、月島はぐいと麦茶を一気に飲み干した。何で俺は、さっききちんと顔をあげなかったのかとすこし悔やむ。俺は、尾形がどんな表情をしていたのか確認すべきだったんじゃないか。尾形はそれを望んでいたんじゃないのか。蝉たちはもう鳴きやんでいる。宵の薄紫が混じりはじめた空を見るともなしに見上げ、月島はふとおもう。尾形は、ちゃんと泣いたことがあるのだろうか。
 部屋が暗かった。
 電気を点けようと立ち上がった月島の耳に、尾形の独り言が届いた。
「嗅いだほうが悪いンすからね」
「なんだって?」
 壁のスイッチを押す。パチリと音がして、人工的な明るさが味気ない月島の部屋を隅々まで照らし出す。尾形が舌打ちするのが聞こえた。
「コラ。舌打ち止めろ」
「地獄耳かよ」
 明確な暴言を月島は聞き流した。白々しい明かりの下、座卓が麦茶と結露でびしょびしょになった無残な姿を晒していた。月島は台所に立つと、台布巾を取って尾形に放った。
「で、何が悪いって?」
「なんでもねっす」
 難なく片手で布巾をキャッチし、尾形が座卓を拭く。その手は座卓中央からスタートし、規則性なく台のあちこちを行ったり来たりする。月島は、ふたたび渋い顔をした。
「嗅ぐって何を」
「だから、いいんすよオッサンは。そういうの知らなくて」
「お前な、俺のことやたらオッサン呼ばわりするけど、七歳しか離れてないんだぞ」
「恋人として適切な年齢差って、七歳らしいすね」
 そう言って尾形は意味深な笑顔を作った。月島は追究をあきらめた。あきらめながら、やっぱりコイツ、面(ツラ)だけは良いよなとおもう。
「またそうやって誤魔化すんだな」
 わかったよ聞かないよと手を挙げてみせながら、月島は尾形に向けて顎をしゃくり、玄関を示した。
「おら、飯買いに行くぞ。ファミマでいいか」
 ええ、またっすかという不満の声とともに、尾形の姿が月島の視界から消える。床に大の字になったのだろう。
「たまにはカフェ飯しましょうよ、駅前のでいいから」
「却下! 節約」
 ほらほら行くぞと急かし、月島はさっさとサンダルを履いてしまう。なんだよ貧乏くせえなとブツブツ不満を垂れ流しながら、尾形は背後でゴソゴソと身なりを整えている。
「基さんの作った飯が食いたいなあ」
 露骨に甘えかかるときだけ、尾形は月島を下の名前で呼んだ。月島は最近それに気がついた。尾形に下の名で呼ばれるのは、嫌いではなかった。
「それも却下。面倒くさい」
 玄関のドアを開く。熱気がぶわりと月島と包み込む。鍵と財布を尻ポケットにねじ込みながら、尾形はフニャフニャと月島の後を追ってきた。
「ヴァー! クソアチ」
 ハイハイ置いてくぞ百之助くんという月島の声と、暑ィ死ぬと嘆く尾形の声が重なる。
 ドアの外はすっかり暮れていた。
 平凡な夏の夜を、二人は連れだって歩いた。

(了)


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