A Remedy and A Fever

「具合はどうだ」
 みしみしと階段を軋ませながら、ひょこりと顔を出したのはアダだった。慣れた足取りで、低い天井に長身を屈めながらベッドに横たわるドナルドに歩み寄る。
 ドナルドの寝ているこの屋根裏は埃っぽい。屋根の形に合わせた小さな三角窓から差し込む光の筋に反射して大量の細かな塵が宙を舞っているのが確認できるほどに。こんな場所に押し込められていては、肺の病など良くなるわけがない。ドナルドの看病に向かうたび医師たちに問い質すのだが、彼らは謎めいた、小馬鹿にしているとさえ取れる笑みを浮かべるばかりで、何も答えてはくれなかった。
 医療の徒として門戸を叩いた筈が、いざ病に倒れれば、近しい者の治療方針すら明かして貰えないとは。焼かれるような屈辱に、アダは先程も耐えてきたばかりだった。
「顔色がよさそうだ」
 不愉快なやり取りの記憶を払拭しようと、わざとらしいまでに明るい声を作る。
 もちろん嘘だった。ドナルドの顔色は日に日に青ざめていく。かつては燃えるように美しかった赤毛も、今はすっかり褪せて瑞々しさを失っていた。
「そんなわけあるか」
 対するドナルドの返答は、いつものようにそっけない。アダは困ったように眉を下げた。
 そんなアダを、ドナルドはちらりと見遣った。ああ、また困らせてしまった、と内心で嘆息する。
 今日のアダは聖歌隊の目隠し帽を脱いでいる。彼の美しい鳶色の瞳を見るのは、いつでも心が浮き立つ。真実のためとはいえ、隠してしまうには惜しいと、ドナルドは常々思っていた。しかし、すぐにそんな浮わついた事ばかり考える自分を疎ましく思う。
 こんなだから、私は。
「昨晩は騒がしかったな」
 鬱々と沈む思考を断ち切るように、ドナルドは話題を変えた。
 ああ、あれか、とアダが苦笑する。
「大変だったよ。下の教会に獣化した住民が出現したんだ」
「オドン教会に? でも、そんなに騒ぐような事か。下には、デカブツ狩人もわんさといるだろうに」
 ドナルドたちが所属する聖歌隊の下位組織にあたる医療教会には、専属の狩人が常に配備されている。医療者の団体に属するとは到底思えぬ、巨体と怪力を誇る力自慢たちだ。
 不審そうに尋ねるドナルドに、アダは内緒話でもするように顔を寄せ、こそこそと囁いた。
「そう、それだけなら良かったんだがな。そいつ、なぜかあの昇降機を見つけたんだ。どうも工房に出入りする商人だったらしい」
「獣化、か」
 獣化してもヒトの記憶は残ると主張していた論文、あながち馬鹿にできなくなってきたのかもな。そう冗談めかして笑うアダの言葉を聞いていないかのように、ドナルドは顔を曇らせる。
「……私も、いずれそうなるのか」
 蒼白な類が痙攣するのを見て、アダは慌ててドナルドの手を取った。死人のように冷たい。
「気弱なことを」
 骨と筋の浮き出た枯木のようなドナルドの手に、アダの白い手袋に包まれた手がそっと重ねられる。
 白いとはいっても、目を凝らせば繊細な刺繍には赤茶けた色素がもったりと沈着しているのがわかる。日の光に晒せば、それがたちまち血と臓物による穢れだと知れる、薄汚れ黄ばんだ代物だ。
 聖歌隊といえど、純白のそれを身に纏えるのは選ばれた精鋭のみ。彼らのような下っ端は、組織を保つためにありとあらゆる仕事をこなさねばならない。二人の手は、既に血塗れだった。
 ドナルドが咳き込んだ。血痰の滲む厭な咳の音に、アダの心は引き裂かれそうになる。これは、病が、死が、ドナルドを蝕んでいく音だ。
 もう彼を壊さないでくれ。
 懇願するようにドナルドの背をさするアダの手を、ドナルドは荒々しく跳ね退けた。
「お前、もう来るな」
「またその話か。何度言われても俺は」
「私が何故こんな、病室ですらない廃棟の屋根裏に押し込められているのかが、わからないのか」
「それは」
 言い淀むアダに、ドナルドは挑み掛かるように言い放つ。
「獣の病ですらない、ただの伝染する肺病だからだ。お前だって、危ない」
 むしろ伝染ってほしいんだ。咄嗟に本心を言い掛けて、アダはすんでのところで口を噤む。一人遺されることを考えると、気が狂いそうだった。しかし、そんな言葉を伝えて何になる? ドナルドを苦しめるだけだ。
 答える代わりに、アダは気弱そうに微笑む。
「でも、伝染らないかもしれない。そうだろう?」
 ドナルドがきっと睨む。
「お前は日々、講義を聴き、先生方と討論し、文献を読み……私から遠ざかって行く。私はここで朽ちて行くばかり。たとえこのまま死んだとて、検体にすらなれない。私の惨めさがお前にわかるか!」
 滅多に声を荒らげないドナルドの激昂に、アダは気圧されたように目をぱちくりさせた。
 すぐにドナルドが我に返る。
「すまない」
 弱々しい声で謝罪すると、ドナルドは目を伏せた。
 二人のあいだに気まずい沈黙が落ちる。
「エドガールが」
 しばらくしてようやく口を開いたのはアダだった。
「帰って来ないという話を聞かされたんだ。上から」
 上から、の言葉に、ハッとしてドナルドが顔を上げる。アダは思い詰めた顔をしていた。
「次に送られるのは、俺かもしれない」
 ドナルドは答えない。眉だけがぴくりと動く。
「なあ、ドナルド、そうなる前に俺たち二人で逃げ――」
「アダ、やめろ! 誰かに聞かれでもしたら」
 ドナルドが慌てたようにアダの口を塞ぐ。しかしアダは、彼の手の下から悲鳴のように喘いだ。
「もう、耐えられない!」
 懇願するかのようにドナルドの肩を揺さぶるアダの目には、恐怖と絶望が充ちていた。
「俺たち、少しでも真理の道に入れたのか? こんなの、体のいい汚れ役じゃないか。本当はわかっているんだろう? 俺たちは真理の探究をする学徒として迎え入れられたんじゃない。あいつらは貧民の俺たちなんか、最初から使い棄てるつもりだった。このままじゃ惨めにくたばって、死体は下水にでも放り込まれるか、あるいはその前に獣に――」
「落ち着け、落ち着くんだ、アダ!」
 その時。奇妙に甲高い声、いや、声とは呼べぬ不思議な轟音が、あたり一帯に鳴り響いた。
 二人は口論をやめる。
 星の娘だ。
 どちらともなく目を瞑る。
 どこから聞こえてくるのかわからないその音は、遥か宇宙の高みからの届く祈りようでもあり、自身の底から響く記憶のようでもあり、脳髄の奥深くから囁く声のようでもある。

  星の歌。
 いつしかそう呼ばれるようになった神秘的な詠唱は、しばらく続き、そして唐突に消えた。
 埃以外は何もない空っぽの屋根裏部屋に、静寂が満ちる。
 やがて、ドナルドがぽつりとつぶやいた。
「星の娘は泣いていると、シスター達は言うが」
 目を閉じたまま詠唱の余韻に浸っていたアダが、ぱちりと目を開く。
「私には――に聞こえる」
「え?」
「近頃、感じるんだ」
「……ドナルド?」
「あの詠唱を聴くと、脳内が揺れる。いいや、目眩とは違う。もっとこう、小刻みに。眼球が震動するような、細かな揺れだ」
 困惑するアダを置き去りにして、ドナルドは憑かれたように語り続ける。
「目がカタカタ震えるなんて、おかしいよな? それに合わせて脳髄の奥がぶるぶる疼く。なあ、アダ、俺は怖い。だって、覗かれている気がするんだ、」
 内側からヽヽヽヽ
 ドナルドは一気にそう捲し立てると、黙り込んだ。そして、それ以降はもう、アダが何を問いかけても上の空だった。

 すっかり弾まなくなった会話をぽつぽつと続けるうち、窓の外は日が落ち、夕闇に染まり始めた。
「長居をしてしまった。そろそろ行くよ」
「ああ」
「温かくしろよ。夜はまだ冷える」
「……ああ」
「また、明日な」
「…………」
 心ここに在らずのドナルドに心を残しつつ、アダはすっかり薄暗くなった屋根裏を後にした。

 軋む階段を踏みしめながら、アダはドナルドの言葉を反芻する。
 ――私には、  に聞こえる。
 ――私には、呪いに聞こえる。
 ドナルドは、そう言った気がした。
 そんなはずはない。神聖な星の娘の歌が呪いだなど、冒涜もいいところだ。いくら病のせいで厭世的になっているからと言って、そんなことを彼が言う訳がない。
 それにしても、脳が震えるとは一体どういう意味なのだろうか。病が進行した証か。いや、しかし肺病でそんな症状、聞いたことがない。もしや彼は――。
 そこまで考えたとき、かさり、と、屋根裏で何かが動く気配がした気がした。
 思わず頭上を振り仰ぐ。
 何故か脳裡を、半身がおぞましい化物と化したドナルドの姿が過った。
 馬鹿馬鹿しい。
 アダは笑って頭を振る。
 よりにもよってドナルドが獣化するなど。彼が妙なことを口走るせいで、自分まで影響されている。
 お前がしっかりしなくてどうする、とアダは己を叱咤激励する。彼は俺などより余程理性的だ。幼い頃から一緒だった。いつだって俺は、ドナルドの後を追って生きてきた。貧しい暮らしも、彼と居ればこそ生き抜けた。誰よりも頭が良く、誰よりも美しい。俺の自慢のドナルド。
 がぎい、と、何かを引っかくような音が響き、アダはぎくりと身を疎ませる。
 そっと頭を巡らせるが、闇が色濃く集うだけで、生き物の気配はない。
 まさか、彼がまた血を吐いたのだろうか。苦しみのあまり寝床から落ち、床を爪で引っ掻いているのではないか。
 もう一度、戻って容態を確かめるか。
 そう思いこそすれ、アダの足はその場に貼り付いたように動かない。
 今戻れば、何か良くないモノを見てしまう――。そんな根拠のない予感に、全身が震えた。
 が、ぎい。
 また鳴る。圧倒的に不吉な気配が、天井から染み出してくる。色濃くなる夕闇に紛れて、穢れの中から這い出たような、何か邪悪な生き物が。
 ずる、ずる、と這う音は、幻聴だろうか。
 ドナルドが。もし、彼が。
 厭だ。
 厭だ厭だ。
 そんなモノは見たくない。
 恐怖と嫌悪に戦き、冷や汗を流しながら、アダはそうして何時間も、闇の中に立ち尽くしていた。



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