[kylux] ゴーストはささやく

2.

 長く使われていなかったはずの屋敷の床は、なぜか艶やかに磨きぬかれ、カンテラの灯りをにぶく反射していた。美しい光沢が、闇の中ではことさら不吉に見える。
 ホール脇にとりつけられた照明用スイッチは、何度押しても応答しなかった。
「夜になると、極端な頻度で電気系統がイカれるんです」
 宿舎に幹部ふたりで乗りこむと告げたときの、管理人の弱りはてた顔が今さらのように思い出される。ほとほと困ったというように、彼は何度も首をかしげていた。
「点検してもおかしなところはないのに、もう、どうしたらいいか……」
 ともかく、あそこで電気はおすすめしません。そう言って、彼は今では珍しい瓦斯がすランタンを奥から取り出してきてくれたのだった。
 幽霊がいるかは知りませんが、暗がりでぶつかったり転んだりすることのほうが危険です。どうぞお気をつけください。――何があるか、わかりませんから。
 意味ありげな最後の一言は、ハックスを恐怖のどん底に陥れるには充分すぎた。
 月の照らす明るい夜だというのに、屋敷にむかう道すがら、ハックスはその顔色をどんどん失っていった。

 丘の麓に到着したふたりを出迎えたのは、かたく閉ざされた厳めしい鉄の門扉だった。第一の関門のように立ちはだかる壮麗な鉄柵は、しかしレンが軽く触れただけで音もなく開いた。
 たったの一押しでするするとひらききった扉を見、ハックスは何を勘違いしたのか「フォースで遊ぶな」と苦々しい顔をした。
 俺は何もしていない、とは、レンは言わずにおいた。
 屋敷まで続くゆるやかな斜面は、手入れされた芝生がきれいに茂っている。あちこちから微かに聞こえる虫の音は穏やかで、のどかな夜だった。
 レンは小高い丘を見あげる。満月の下、陰気な顔をした館が、ふたりを静かに見おろしていた。
 俺たちを待っている。
 レンはそう思った。
 あの屋敷は、俺たちの動向を注意深く見守っている。息をひそめて。闖入者を値踏みするような屋敷の視線に、レンは身震いした。
 ――バカバカしい。気のせいだ。
 隣にいる誰かさんが、あからさまに怯えた空気を醸し出しながらすり寄ってくるから、その恐怖が俺にも伝染したにすぎない。
 ――俺がしっかりしなくてどうするんだ。
 自分に喝を入れ、レンはあらためて屋敷を正面から見据えた。
 問題の部屋は、屋敷二階の左端だ。
 月明かりに目を凝らすと、ほかとは様子の違う部屋がすぐに見つかった。
 規則正しく並ぶバルコニーのうち、その部屋の窓にだけ何枚もの板が外側からべたべたと打ち付けられ、封鎖されている。これ以上の事故が起きぬよう、誰もバルコニーに出さないようにしてあると管理人が話していたことを思い出す。たしかに、あれなら出られないし、外から入れもしないだろう。
 だが、屋敷のもつ陰険な空気をいっそう引き立ててしまっているのも事実だ。
 ――あんな封鎖、部屋に着いたら引っぺがしてしまおう。
 そう決意すると、レンはあからさまに元気のない相棒に声を掛けた。
「さて、幽霊退治人ゴースト・ハンターズの出動だな。行くぞ、将軍」

「レン、さ、さっさと私を連れてけ」
 うしろ手に差し出したレンの左手を、自分の右手でしっかりと握ったハックスが言う。
 威厳を保たせようと居丈高な命令口調ではあったが、その声はうわずり、かかげたランタンは恐怖のため小刻みに震えていた。キコキコと揺れ続ける灯りのせいで闇が揺れ、よけいに恐怖感を煽る。
 外が晴れた夜だったせいですっかり油断していたレンだったが、邸内の予想以上の暗さに眉をひそめる。管理人の言うとおりだ。
 ――すっ転んで、顔に傷でもつけたら大騒ぎだ。気をつけてやらないと。
 あの程度のゆるい丘の傾斜をのぼりきる間、すでにハックスは不平たらたらだった。やれ芝生が青臭いの、最適化されていない重力は身体に負担だのと言い、隙あらば帰ろうとする。普段の負けず嫌いの彼はどこへ行ったのか、あまりの豹変ぶりにレンは怒りも呆れもとおりこし、すでに保護者のような気持ちになりつつあった。
「よし。二階の東棟、いちばん奥だったな。行こう」
 安心させるように、レンは優しくハックスの手を引いた。
 この屋敷は、どういうわけか北に面して建てられている。つまり向かって左の階段を上がればいいわけだ。さっさと片を付けてしまおうと、階段の最初の一段に足をかける。
 とつぜん、ランタンの灯りが消えた。
 視界がまっくらな闇に閉ざされ、レンの心臓が跳ね上がる。背後で、ハックスがひゅっと弱々しく喘ぐのが聞こえた。悲鳴すらあげられなかったのだ。
 レンの左手が、ぎゅっと痛いほどに握られる。
「どうした、故障か」
 動揺を隠して、レンはまるでなんてことないように問いかけた。ハックスはその問いには答えず、ただゆっくりと繋いだ手を放した。ややあって、ランタンのつまみを何度も何度もかちかちと回す音だけが聞こえてきた。しかし灯りは一向につかない。背後の空気に焦燥がにじむ。
「クソッ、何でつかない! おい、レン……」
 すがりつくようなハックスの声は、もはや泣きそうだ。
 少しずつ闇に慣れつつある目を凝らしながら、レンは照明装置をいじる彼の姿を探り当てる。普段はレンと同じくらいの背丈の彼が、背を丸め、小刻みに震えていた。その姿はあまりに頼りなくて、レンは思わず、そっと彼を抱き寄せた。
 手が触れた一瞬、ハックスは身体を強ばらせ声にならない悲鳴をあげた。が、すぐにレンだと気づき、されるがままに身を委ねた。レンの腕のなかに、ハックスの華奢な身体が収まる。頬のあたりにふわりと柔らかな猫っ毛が触れ、同時に麝香のように濃厚で、どこか薬のようなふしぎな香りがレンの鼻先をかすめた。
 ――この香り。没薬もつやくだったか。
 どこぞの高級メゾンの新作香水だ。以前、この香料は古来、魔除けの効果もあるとされてきた、などと真面目くさった顔で話していたハックスを思い出し、レンは吹き出しそうになる。氷の将軍様も、幽霊の前にはなりふりかまっていられなかったらしい。いったい、どんな顔をしてこの香水を振りかけてきたのやら。
 そう思うと、可笑しいやら気の毒やらで満面の笑みが広がる。
「貸してみろ」
 笑顔になっていることを悟られぬよう注意しながら、わざと鹿爪しかつめらしい声を作り、レンは暗闇に手を伸ばした。
 普段なら、命令するなと小うるさく抗議してくるハックスが、無言でランタンを手渡す。空いた左手は、すぐにレンのマントの端を鷲掴みにした。
 暗闇で、レンの肩が小刻みに震えた。

 ランタンにおかしな所はどこもなかった。にもかかわらず、ランタンは完全に故障していた。
 徐々にそばににじり寄って来たハックスをほぼ抱き込むような形になりながら、レンは闇の中、五分ほど小型の照明機器と格闘した。
 ……だめだ、完全にイカれた。
 うんともすんとも言わないランタンに、レンは思わず舌打ちをする。
 背後で笑い声がした。
 男の声だった。
 驚いて振り返る。暗闇を見回す。誰もいない。
「おい、レン、どうした」
 急に不審な動きを始めたレンに、ハックスが不安そうに問いかける。彼には聞こえていなかったようだ。
 ――気のせいか? いや、でも確かに今……。
 まるで嘲るような調子だった、と思い、レンはゾッとする。
 しかし、こんなことをハックスに話すわけにはいかない。
「いや――なんでもない」
「脅かすなと言っただろう。それより、ランタンはどうなんだ」
 レンの答えに安心したのか、ハックスは少しばかり横柄な態度を取り戻した。顔の向きを変えたのか、またふわりとやわらかな没薬が香る。
「あ、ああ――すまん、ダメみたいだ。故障だ」
「故障って、お前。どうするつもりだ」
「どうもこうも、あきらめるしかないだろう。手探りで行こう」
「な……! 灯りなしで、この暗闇を進むのか?! 冗談じゃない、調査は中止だ!」
 そう叫ぶなり、ハックスはレンの腕のなかでジタバタと暴れ出した。
 レンは慌ててランタンを放り出し、逃げようとするハックスの首根っこをつかむ。そのまま、もう片方の腕で彼の腰をホールドし、ひょいとすくいあげた。腹のあたりをレンの片腕で持ち上げられ、逃げようとフル回転していたハックスの足は、むなしく宙を蹴った。
「は、放せ! ふざけるな! 私は帰る!」
 足をばたつかせ、わめき散らす。しかしレンは動じなかった。
「ハイハイ。怖くない、怖くない。騎士団長の俺がいるんだ。オバケだろうが泥棒だろうが、守ってやるって」
 ついでのようにキスをしようと身体をかがめるレンの頬に、ハックスは見事な平手打ちを食らわせた。びしゃりと痛そうな音が、屋敷に響き渡る。
で!」
「職務中だぞ! 少しはわきまえろ、色ボケ! クソ、放せ! 放せって!!」
 抱きつかんばかりにしがみついてきておいて、いまさら職務中も何もあったもんじゃないだろう。呆れる気持ちをグッと呑み込む。
 ――そういや、ここに来るまでも一人称がずっと〝私〟だったな。さすが。
 変に律儀というか、融通のきかない彼に妙に感心しながら、レンは菩薩の笑みで暴れる恋人を見守った。
 しばらくは空中で溺れでもしているかのようにもがき続けていたハックスだったが、やがて段々と疲れ始めたのか、大人しくなっていき、最後にはぐったりとなった。
 まるで猫のように腕からだらりとぶら下がった彼を、レンはようやく地面に下ろした。
「……レン、お前」
 ぐったりしたままハックスが言った。
「アレ、あるだろ。使え」
「アレって何だ?」
「光るチャンバラ棒だよ! お前の腰にぶら下がってる」
「なっ……!」
 あまりにも突拍子もない提案に、レンは絶句する。
「こ、これはそういう使い方をするもんじゃ」
「ごちゃごちゃ言うな! 他に何か良い方法でもあるのか?!」
「そ、それは、な」
 ――ない。
 たしかに、ライトセーバーであれば辺りを照らすにはうってつけだ。屈辱的かつ冒涜的であることを除けば、だが。
 逡巡の末、レンは渋々腰のホルダーからセーバーを取り外した。
「危ないから、動くなよ」
 ハックスの身体を遠ざけながら、レンは思い切ってセーバーのスイッチをオンにする。馴染みの音とともに、赤い光が暗闇を照らし出した。
 視界が明るくなる。二人は、同時に安堵の息をついた。たった数分の出来事なのに、光の帰還はやたらと目に眩しかった。
「……なんで赤なんだ」
 ぼんやり照らされた周囲の暗がりをこわごわと目で追っていたハックスが、ぼそりとつぶやく。
「は? なんでって、何が」
「お前のセーバーの色だ。オレンジとか、白とか、もっとこう……なんか、あっただろう」
「無茶なこと言うな、非常灯じゃないんだぞ!」
 しかし彼は聞いていない。よりにもよって赤なんて、薄気味悪い、とぶつぶつ不平を言いながら、両腕はちゃっかりレンの腰にまわしている。
「仕方ないだろ、色々あったんだ……。我慢しろ」
 脱力感を覚えながら、レンは己の十字型セーバーを松明のように目の高さにかかげた。
 そしてふたりは、ようやく二階へと上がり始めた。

 軋む階段の音とともに、赤い光が移動する。寄り添うふたつの影は、やがて階上の廊下の奥へと消えていった。
 誰もいなくなった玄関ホールには、ふたたび暗闇が満ちる。
 意味ありげに沈黙した屋敷は、ただ静かに来訪者たちを眺めていた。じっと。