4.
電気の点いた洋館は、ただの広い屋敷でしかなかった。
二人は意気揚々と、例の部屋の前までたどり着く。
ほかの部屋と違い、この部屋は少しだけ豪華なようだった。ドア枠の彫刻も、周囲のものより細かい。
――たいしたもんだな。
ドア上部のアーチ部分に施された、羽を生やしたあどけない天使の頭部の彫刻を感心しながらレンが見上げた、その刹那。
――嫌だ、入りたくない。
レンの背中を、冷たい汗が伝い落ちた。
――な、なんだ?!
レンは思わずハックスを振り返る。彼はそんなレンを怪訝な顔つきで眺め、何をしてる、さっさと入れ、と手を振った。
しかし、レンは動けない。
扉全体からは、今や途轍もなく不吉な気配が漂っている。
――ついさっきは、なんともなかったのに。
もう一度頭上の彫刻を振り仰ぎ、レンは今度こそ恐怖する。
天使が嗤っていた。
穏やかな微笑みではない。
悪意をもって、レンを嘲っている。
「レン。何してんだ、お前」
声を掛けられ、レンはびくりと振り返る。
何か言おうと口を開けるが、言葉が出てこない。レンの心臓はばくばくと脈打ち、口がからからに渇いていた。
ハックスがじれったそうに言う。
「この部屋だ。――開けるぞ」
――ダメだ、ハックス、開けるな。
声にならない声でハックスに語り掛けるが、もちろん聞こえていない。
ハックスがドアノブに手を掛ける。
ギィ、と音を立ててドアが開く。
その途端、なんとも言いようのない寒気が襲った。
黴臭い匂いとともに凍り付くような冷気が、開け放たれた部屋から流れ出、床を伝わって足下から這い上ってくる。
嫌な寒さだ。
ゾクゾクと背筋を震わせる怖気に、レンは咄嗟に身を縮こまらせる。
「……なんだ、これ」
やっとのことで絞り出したレンの声は、気味悪く嗄れていた。
「なんだって、何が」
背を丸めるレンとは対照的に、振り返るハックスはきょとんとしている。
「寒くないか」
「そうか?」
「匂いも、変だ」
レンの言葉に、ハックスがスンスンと鼻をひくつかせる。が、すぐに首をかしげた。
「まあ、封鎖されたからな。すこし湿気っぽいかもしれない」
「そんなレベルじゃないだろ!」
部屋から流れ出す空気は、明らかに自然の冷たさではない。なのに何を暢気なことをとレンは呆れるが、ハックスはまったく気にならないようだった。
その様子に、レンの警戒度は最大限にまで高まる。
――駄目だ。ここは、何かが異常だ。
こうなったら、彼を怯えさせても仕方ない。
とにかく、今すぐここを離れよう。
腹を決めて声を掛けようとして、レンはぎょっとする。
入り口の手前で青い顔をしているレンを置いて、ハックスは、すでにすたすたと部屋に入っていってしまったのだ。
「おい、ハックス――」
「ああ、レン! これだ! 来てみろ」
出てこいと呼ばわろうとして、逆に呼ばれてしまう。
「音の原因。これだよ……おい、早くしろ。私一人じゃ直せない」
部屋の入り口から中を窺う。
部屋の天井近くには、管理人の言ったとおり通気口がとりつけられていた。そこに打ち付けられた板が、はずれかけて風に煽られている。
通気口から強い風が吹き込むたび、ばたん、ばたんと板が鳴る。
その音が、屋敷全体に奇妙な反響を響かせていた。
はは、とハックスが乾いた笑い声をあげる。
「外の風が強いと、空調から逆流して、こうなるんだとさ」
さきほど管理人からされた説明を繰り返し、拍子抜けしたように笑い続ける。
「なあ。来いよ、レン」
しかし、レンは強ばったまま、その場に動けずにいた。
風? 風の仕業だって?
屋敷に来たとき、外は晴れて、月が出ていた。
強い風は吹いていなかった。
バン!
暴風に煽られ、板がまた鳴る。
びくりと反応したレンを、ハックスが不思議そうに振り返った。
「どうした。何ぼうっと突っ立ってるんだ」
――お前は、何も違和感を覚えないのか?
信じられない思いでレンはハックスを見るが、彼は意気揚々と外れかけた板のそばまで近づいていく。
狂ったようにはためく端材を見上げながら、
「こんなもの、取ってしまおう」
あっさりとそんなことまで口にする。
これまでの反動か、やたらとはしゃいだ調子でベニヤに手をかけ、何度かうんうんと引っ張る。けれど、彼の細腕ではどうにもならない。
業を煮やした彼は、レンの方を見るなり、
「剥がせ」
と居丈高に告げた。
完璧なまでに、いつもの彼だ。
それなのに、レンは未だ、嫌な汗が流れるのを止められない。
――誰か、見てる。
そんな気がしてならない。
さっきから、部屋のどこかかから――いや、四方八方からか? ――レンたちの行動を興味深そうにじっと注視している者がいる。
意地悪そうに、面白がるように。遠巻きに、けれど興味津々で、俺たちがどうするか、行方を見守っている。
――でも、何の行方を?
レンの憔悴など知らぬハックスが、レン、どうしたとしびれを切らして喚き出した。
――なんでもいい。ハックスの気の済むようにして、さっさとこんなところからずらかろう。
そう腹を決め、レンはようやく部屋の中に一歩踏み出した。
途端、全身の毛が逆立った。
――ここにいたくない!
本能が全力で叫んだが、必死に無表情を取り繕いながら――動揺しているとそれに悟られたくなかった――レンは何食わぬ顔で手のひらを通風口に向けた。フォースで板を動かそうと集中し――さらに愕然とする。
フォースが使えない。
いや、使えないわけではない。
しかし、格段に使いづらい。力を発揮しにくいような、何かが介在している。頭の中を霧が立ちこめるように、不明瞭な、しかし確固たる存在が。
ここには、すでに別のなんらかの力が働いているのだ。
そう結論づけ、レンは腹の底からぞっとした。
幽霊なんて、存在しないと思っていた。
いや、いまだにこれが幽霊かどうかはわからない。しかし、いま現にレンを邪魔しているモノは、明らかな悪意を持っている。
どうしたらいい。
ハックスを怯えさせてしまってはいけない。とにかく、ここから出るのが先決だ。それには――。
レンは頭をフル回転させながら、何食わぬ顔でハックスに言った。
「この板を剥がせばいいんだな。手荒になってもいいか?」
「ああ、かまわん。どうせ改築工事をする」
今にも鼻歌を歌い出しそうなハックスの、あまりに能天気な様子に逆に心配になりつつ、レンはライトセーバーを振りかざす。ばたばたと暴れていた板が、真っ二つに叩き割られ、床に落下した。
ばたんばたんという音が止み、辺りは急に静かになる。
ひゅう、とハックスが口笛を鳴らした。
「暴力的だな」
彼は、レンがフォースを使わないことを特段気にした様子もなかった。
「ほかには?」
急いでいることを悟られないよう、けれどできるだけ言葉少なに尋ねる。
早く。
早くここを出るんだ。
「窓に打ち付けた板も、全部だ。こんなモノがあるから、辛気くさくなる」
「わかった」
答えるが早いか、レンは部屋右手の壁一面に並ぶ大きな窓に打ち付けられた板を片っ端から割って回る。
板が剥がれるにつれ、部屋は穏やかな月明かりで満ち始める。
やがてすっかり窓を覆っていた板を取り去ってしまうと、部屋の持つ圧迫感は綺麗に霧散した。壁一面の窓は見晴らしが良く、カーテンのない今は、屋敷の有する大きな庭が見渡せた。
今夜は、本当に月が明るい。
レンは先ほどの恐怖も忘れ、手を止めてしばしその景色に見惚れた。
美しい夜だ。風はそよとも吹いていない。
しだいに、レンは自分の中の憔悴感がゆるゆると消えていくのを感じた。
頭の中の靄も、いまはあまり感じられなかった。
試しに、ハックスに気づかれぬよう小さく手近にあった椅子をフォースで軽く動かしてみる。
難なく動かすことができた。
――考えすぎ、だった、のか?
もしかして、思っていた以上に俺は「幽霊屋敷」を怖がっていたのだろうかと、レンはとうとう自問し始めた。
ハックスの怯えっぷりにも影響されたのかも知れない。過敏になり、いつもの集中を引き出せていないだけだったのか?
この部屋の気温が低いことは確かだ。が、それはどうとでも説明がつく。さっきまで通気口から吹き込んでいた強い風は、管理人の言うとおり、温度差から生じる空調の不備なのかもしれない。
わずかな腑に落ちなさを感じながら、レンはそれでも先ほどまでの自分の危惧に、急に自信を持てなくなり始めていた。
「おい、まだ板が残ってるぞ。私の前で雑な仕事をするんじゃない」
命令するハックスの偉そうな声も、今ならはいはいと聞き流せる。
レンは彼の指さした方を見ると、たしかに肝心の、バルコニーに出るための大窓の板を、まったく外していなかった。
万が一でもその窓に近づけないようにとの配慮か、ご丁寧に椅子やナイトテーブルなど、家具がごちゃごちゃと寄せ集められて行く手を塞いでる。その徹底ぶりに、この部屋を封印した者の恐怖を垣間見た気がして、レンはわざと明るい口調でハックスに話しかけた。
「あのな、ハックス」
「なんだ?」
「実を言うと、一瞬、俺まで幽霊を信じかけそうになったよ」
「そうなのか? ボディガード失格だな」
軽い口調の返事に、思わずレンも苦笑する。
「ま、たしかに。俺の修行不足かもな。……おい、これ」
山と積まれた家具のバリケードを苦労して乗り越え、本丸の大板に臨んだレンは、思わず戸惑いの声を上げた。
打ち込まれた釘の数が、尋常ではなかった。
「こんなの、さすがに俺一人じゃ外せないぞ――って、あれ、ハックス?」
今までのとは桁違いの、これでもかとびっしり打ち込まれた釘頭の列に困惑し、レンはハックスを振り返る。
ハックスの姿はなかった。
「おい、どこ行った?」
慌てて部屋の中をきょろきょろと見回すと、
「こっちだよ」
背後から声がする。再び振り向くと、ハックスの背中が見えた。
「……なあ、レン。重力ってのは、案外いいもんだな」
「どうした、急に。旗艦暮らしが嫌になったのか」
違和感。
レンは眉根を寄せながら、ハックスの背中に問いかける。
――なんか、変だ。
ハックスは、ふう、と溜め息をついた。
「そうかもしれんな。俺はずっと宇宙船暮らしだろう? 地上というのはどうも落ち着かないと思ってたんだがな。だが、今、なんだか急に――」
不意に、部屋が真っ暗になった。
館の照明が落ちただけではなかった。
外をほの明るく照らしていたはずの月光までが、消え去っていた。
まったくの暗闇だ。
轟音がとどろく。
閃光が走った。
闇に沈む部屋が一瞬、真っ白に浮かび上がる。
雷光だ、と気づくのには、少し時間が掛かった。
いつのまにか、強い風がバルコニーから吹き込んでいた。
大粒の雨がレンの頬を打つ。
狂ったようにカーテンの裾がはためく。
嵐だった。
先ほどの穏やかな宵が嘘のように、 外は荒れ狂う大嵐と化していた。
はためく薄いレースの向こうに、茫洋とたたずむ背中が見える。
ハックスが、バルコニーにいた。
レンの心臓が跳ね上がる。
──そんな。
こんなこと、あり得ない。
「重力があれば、墜ちることができる」
ハックスが口をきいた。
独白するような口調だった。
あたりは雷鳴と激しい雨の音で何も聞こえないほどなのに、なぜか一言一句、はっきり聞こえた。
――何だって?
重力? たしかに屋敷に来る途中、そんな話をした。が、今、どんな関係があるのだ。
レンの背骨を、嫌な予感がむずむずと走る。
「……おい」
雨に濡れる背中に、レンは恐る恐る声を掛ける。
「どうした。何してる。どうやって、そこへ出た」
「父さんは、僕を、出来損ないと罵った」
〝僕〟。
ハックスはいま、確かにそう言った。私でも俺でもなく、僕と。
「……ハックス。こっちを向け、ゆっくりと」
しかし、ハックスは聞こえていないかのように、頑なにバルコニーの彼方をのぞんだまま動かない。
レンはそろりと、その背中に近づく。
窓の外から吹き込む風が頬を打ち、雨で前髪が額にへばりついた。
低い、よく通る声で、ハックスがぽつりとつぶやく。
「子孫を残せない僕は、無用の存在だと」
まばゆい光が再び閃き、目を射る。
ハックスの細いシルエットが、暗闇に闇に浮き上がった。
その影が揺れて、バルコニーの手すりに手を掛けるのが見えた。
「ハックス!」
「僕は、逃げたかった」
雷鳴。
次の瞬間、ハックスの身体が、跳んだ。
咄嗟に伸ばしたレンの腕をするりと掠め、彼はバルコニーから真っ逆さまに墜ちる。
――東棟二階の一番奥の部屋で、なにか見たって、アイツ言ってたんです。
――その直後なんです、部屋のバルコニーから、身を……。
必死に訴える兵士の顔が脳裏をよぎる。
考える前に身体が動いた。
レンもバルコニーから跳んだ。
少し前を飛んでいく身体に、必死に手を伸ばす。
その身体を、いったいどうやって彼を引き寄せたのかはわからない。ただ、部屋から空中に躍り出たとき、フォースが身体に戻るのを感じた。
無我夢中で、目の前を墜落していく恋人に集中する。
彼との距離が、落下のスピードを上回って縮んでいく。
あと、少し。
必死に伸ばした手が彼の手首をつかんだ。
逃すまいと夢中で引き寄せようとして、濃厚な薔薇の香りを嗅ぐ。
今度こそ、レンは恐怖で身が凍った。
お前、誰だ。
返せ。
彼を返せ。
アーミテイジを、
「返せ!」