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気がついたときには、レンはハックスを横抱きにかかえ、屋敷の庭に膝をついていた。
薔薇の芳香はあとかたもなく消え、腕のなかからは没薬のやさしい匂いだけが香っていた。
夜空は来たときと同様に晴れ渡り、月明かりがさえざえと照っている。
雨の気配などどこにもなく、ただ、ハックスとレンふたりだけが、まるで水浴びでもしたみたいにずぶ濡れだった。
ハックスは意識を失っていた。
けれど、すぐにレンの腕のなかで意識を取り戻し、強く自分を抱き締めているレンの顔を見るなり凄まじい叫び声をあげた。
その声がいつもの彼で、さらに、その叫びが恐怖ではなく羞恥によるものだと察知したレンは、そのとき、ようやく笑った。
遠くから数人が駆け寄ってくる足音が聞こえてきていたが、思わず軽く額にキスを落とす。
ハックスは再度、きゃあと叫び、レンの額をびしゃりと叩いた。
*
駆け寄ってきたのは管理人と、彼が呼んだ応援数名だった。
ここから先は、主に管理人から聞いた話だ。
彼らが言うには、レンとハックスの帰りがあまりに遅いことを心配し、屋敷まで様子を見に来たのだという。そして、ちょうど門のあたりに到着したとき、東棟から窓ガラスが割れる音がした。
慌てて駆けつけると、閉鎖されたはずのバルコニーから真っ逆さまに落ちてくる将軍、その後を追う凄まじい形相の騎士団長が続けざまに降ってきた。
大変だと思う暇もなく、レンは空中でハックスをつかむと、彼を横抱きにしたままふわりと地面に着地した。……らしい。
フォースで生物を浮かせることは至難の業だ。
レンですら、修行において成功したことは一度もなかった。
信じられない思いでレンがハックスを呆然と見ると、彼は特に感心した様子もなく、
「貴様、まさか私を突き落としたんじゃないだろうな」
と言った。
そして、なんで私たちはずぶ濡れなんだ、私はあの部屋には入らないと言っただろう、レン、貴様やっぱり無理矢理私を連れ込んだななどとわめきだした。
まったく、可愛くない。
多少うんざりした思いを抱きつつ、
――でも、まあ、無事で良かった。
レンが憮然としつつ安堵していると、
「あの」
駆けつけた管理人が、神妙な面持ちでレンに顔を寄せてきた。
そして、こっそり耳打ちする。
「着地なさった後のことも含めて、その、誰にも言いませんので」
強ばった顔でそう言ったせいで、彼はその場で強制記憶消去されるはめになった。
ちなみに、彼はハックスに無線など入れていないと言った。なんとか連絡を取ろうにも、直通のチャンネルを知らなかったのでできなかったのだ、と。
レンは、その言葉を信じた。
5.
「――で。鉄の将軍様も、とうとう幽霊の存在を信じる気になったか?」
「あ、あれが幽霊だったのかは、わからないだろう!」
「じゃあ、あんたの、あの異常行動をどう説明する。殺しても死ななそうなあんたが、自らバルコニーから飛んだのが〝ヒステリー〟か?」
「黙れ! 俺はヒステリーなんかにはならん!」
その日の夜、ベッドでレンにしがみついたまま、ハックスはそう言って怒った。
自分が霊に取り憑かれたかもしれないという事実は、彼にとっては耐えがたいものだったようだ。
屋敷から戻るや否や、ハックスはレンにはなんだかよくわからない香を焚き、香油を頭からかぶると、何時間も風呂に入りっぱなしになった。その間、レンが少しでもハックスから離れようとすると激怒した。
そのくせ、レンが屋敷の話題を振ると、全力で聞こえないふりをする。
散々なだめすかして、ようやくまともな会話を交わせるようになったのは、明け方も近くなってからだ。
不貞腐れたようにレンの腕のなかでブツブツつぶやいているハックスに、レンは恐る恐る問いかける。
「なあ。――本当に何も覚えていないのか?」
「覚えてない。部屋に入る少し前くらいから、急に意識がぼんやりしてきて……」
「そうか……」
レンが黙り込むと、ハックスは、「ただ、ずっと哀しかったのは覚えている」とぽつりとつぶやいた。
「……なんだか、馴染み深い悲しみでな」
そう言ったきり、ハックスは言葉少なに黙り込んだ。
*
なにか思うところがあったのだろう、
その後ハックスは、調査をせがんだ兵士を昇給してやったらしい。
そして、自殺した同僚は、手厚く葬ったという。
彼にしては、破格の温情だった。
*
ハックスの痩せた背を抱きかかえながら、レンはぼんやり考え込む。
〝死にたい気持ちが強いやつは、引かれやすい〟。
あの兵士は、確かそう言った。
引かれやすい。
もしかしたら、それは「死に親しみがある」という意味だけではなく、境遇が似通っていることも原因だったのではないだろうか。
同性を愛することを知られ、父との関係がさらに悪化したハックスにとって、あの名士の息子とは最悪に相性が悪かった――いや、彼からしてみれば相性が良かった――のではないか。
そもそも、レンが幽霊屋敷探索などという気まぐれを起こしたことすら、彼の策略な気もして、うっすらと寒気を覚える。
もしあのとき、一瞬でも、俺が跳ぶのを躊躇っていたら。
――ハックスのことも、奪られていたかもしれない。
考えるだけでぞっとする。
知らず知らず、腕のなかの彼を強く抱き締めていたレンを、ハックスがうるさそうに振り払った。
「なんだよ、くっつくなよ、暑苦しい」
「あ、ごめん。つい」
「なんかお前、変だぞ」
「ごめんて」
他愛ないやり取りをできている今が急に貴重なものに思え、レンは、誰にともなく心から感謝した。
――あのとき、手を伸ばして、本当に良かった。
「そういやさ」
不意に、あらたまった口調でハックスがレンを呼んだ。
彼は白くて薄い背をこちらに向け、シーツの端っこを弄んでいる。
「お前、あのとき俺の名前を呼んだだろう」
「ん? ああ、あれは、その」
レンはぎくりと身体を強ばらせる。
心の中でファーストネームを呼んでいたのが露見したようで、いたたまれないまましどろもどろになる。
「咄嗟のことだったから、なんていうか」
「あれで、気がついた」
「――え?」
「ぼうっとしてた頭が、あれではっきりしたんだ……ありがとうな」
ハックスは背を向けたままだ。
表情は読めない。
けれど、消え入りそうな小さな声は、たしかにはっきりこう言った。
「ちょっと、かっこよかったぞ」