「もうない、だと……」
ささやくような絶望の叫びを聞きとがめ、ミタカは最終報告文書を検閲する手を止めた。
声のした方を見れば、部屋の中央に置かれたデスクに座った彼の主――と言って良いだろう。少なくともミタカの意識のうちでは、ハックス将軍こそが彼の仕える主君なのだ――が、わなわなと手を震わせて固まっていた。
視線の先にあるのは、小さな銀のボウルだ。
ちょこんと三本の脚で立つ蓋つきのそれは、元々はシュガーボウルとして使用されていたものらしい。何においても端正な姿を好むハックスの趣味らしく、異国調の細かく繊細な花柄模様が全面に手打ちでほどこされている。
午後二時現在、ボウルはからっぽだ。だが今朝の時点では、たしかに山盛りのチョコレートが詰め込まれていたはずだった。
「おい、ミタカ」
「駄目です」
ハックスの気味悪く優しい呼びかけに、ミタカはにべもなく返す。
「……今日だけ」
「今日だけ、を何度繰り返すおつもりですか。いけません。甘いものは一日、そのボウル一杯ぶんのみ。約束したじゃありませんか」
ミタカは、ハックスを尊敬している。ほとんど崇拝しているといっても良い。そんな彼だから、ハックスのやることに口を出すことなど滅多にない――この悪癖以外は。
冷血非道で鳴らすハックス将軍は、実はその評判に似つかわしくなく、甘いものが大好きだ。
外聞を気にしてか、本人も人目があるところではめったにその色を出さない。しかし、放っておけば四六時中マドレーヌだのブラウニーだのクッキーだのの焼き菓子や、あるいはヌガー、チョコレート、マカロン、メレンゲ、果てはキャンディやグミといった駄菓子にいたるまで、ありとあらゆるかわいらしく甘いお菓子を口にしている。彼にとってのご馳走”とはイチゴ味のアイスクリームであり、肉や魚には毛ほども興味を示さない。
いったいそんな食生活でなぜ太らないのか、今までどうやって生きながらえてきたのか、謎は尽きない。しかしそれでも健康というなら文句もないのだが、そうでもないから困りものなのだ。貧血気味だし、本人は言いたがらないがおそらく不眠も併発している。顔色はつねに悪い。
医師からも日頃から「今のところ数値は正常だが、甘いものは極力控えるように」と進言されていたらしい。
ある日、再三にわたる進言に逆上したハックスが医師をクビにしかけたところを偶然ミタカが止めに入り、彼も知るところとなった。
そんな経緯から、ミタカとハックスのあいだではひとつの「協定」が結ばれた。
すなわち『甘いものは一日に銀のボウル一杯のみ』。
だがそんな約束を律儀に守っていられるほど、ハックスの甘いものへの執着がヤワなものではないことを、ミタカはすぐに思い知らされることになる。
ミタカが席を外した隙にこっそり継ぎ足すなどは序の口で、一度などどうやって調達したのか、ひと抱えもある袋詰めの安チョコレートをデスク奥に隠していたのを見つけたことまであった。
そのたび宥めすかし、ときは厳しく叱咤して取り上げるのだが、そういうときのハックスは信じられないほど抵抗する。泣き落としまでされて顎が外れるほど驚愕したミタカは、翌日ショックのあまり熱を出した。
不思議なのは、あのプライドの高いハックスがお菓子のこととなると大人しくミタカに叱られていることなのだが、それだけ本人も後ろめたさを感じていることの証なのだろう。
そしてミタカは、今日もお馴染みの台詞を口にしていた。
「将軍。差し出口とは存じますが、将軍のお体は将軍お一人のものでは――」
「わかった、わかった!」
畳み掛けるようにまくし立てるミタカを遮り、彼の主は降参というように両手を挙げてみせる。
「じゃあ、せめて茶を淹れてくれないか」
「本当にお茶だけですね」
「もちろん! 疲れがたまったせいか、もう集中力がもたないんだ。休憩を入れたい」
媚びるように上目遣いをしてみせるハックスに呆れつつ、ミタカは渋々立ち上がった。
苦い茶を飲みながら甘い菓子を食べるのが、ハックスのいちばんの楽しみである。いつもなら、お茶を淹れればそれだけで済むはずはない。
しかし今、この執務室に菓子は存在しない。ミタカが厳しく隅々までチェックしているし、今日は朝から二人で籠もりきりで仕事をしており、ハックス一人きりになるチャンスはなかったはずだ。
いかな鉄の将軍といえど、手品のように空中から甘いものを取り出すことはさすがにできないだろう。そう判断し、ミタカは部屋の片隅に常備してあるティーセットに向かった。慣れた手で準備しながら、背後の主人の動向をチェックすることも忘れない。
どうやら今日は隠し玉は持っていないらしく、ハックスは大人しくミタカの準備する姿を眺めていた。
暖めたティーポットに茶葉を入れて湯を注ぎ、砂時計をひっくり返してきっかり2分半待つ。ぼうっとこちらに向けられているハックスの青白い顔を見るともなく見ながら、ミタカはそっとため息をついた。
――まったく、困った人だ。
端正な顔には先程の言葉どおり疲労がにじんでいる。目の下の隈も濃い。ただでさえ忙しくて目が回りそうなのに、最近ではカイロ・レンの機嫌が悪くて余計な仕事ばかりが増え、周囲の士気も低下ぎみだ。ここで将軍にまで倒れられては、たまったものではないというのに。
――もう少し、ご自分を大切にして頂かないと。
砂時計の砂が落ちきったのを確認するとポットを持ち上げ、揺らさぬように注意して高い地点から一気にカップに注いだ。一度、二度と繰り返すうち、執務室には苦い茶の清々しい香りが満ちた。
「どうぞ」
カップをそっとハックスの前に置き、脇にカバーをかけたポットも添える。軽く頷いたハックスはさっそく一口啜り、満足そうなため息を洩らした。眉間に刻まれた皺がほんのわずかに弛んだのを見てとり、ミタカの心も少しだけほぐれる。
それにしても、とミタカは考える。
あの傍若無人で傲岸不遜なマスク男に対抗できる、唯一と言っていいほど有能で畏れ知らず――とミタカには思える――な人が、なぜ甘いものだけは我慢できないのだろうか。
「なあ、ミタカ」
不意に名を呼ばれ、ミタカは物思いから引き戻された。
「あ、はい」
「実はな」
その口調になにか不穏なものを感じとり、嫌な予感を覚える。
「なん、でしょう」
「さっき気がついたんだが、いま私のポケットには、昨夜のパーティーの土産で渡されたこんなものが」
ふっふっふ、と不敵な含み笑いとともにハックスが取り出したのは、華やかなレース紙があしらわれた楕円型の小箱だった。
この男が昨夜と同じ制服を着ているはずがない。仕込んで来たに決まっている。
「それは一体」
「中身は何だろうなあ。開けてみよう」
白々しく言いながら、ハックスはさっと箱の蓋を開ける。現れたのは、小さな砂糖玉の山。色とりどりの糖衣にくるまれたそれはー
「おお、リキュール・ボンボンだ!」
子どものようにはしゃぐハックスに、ミタカは大慌てで手を伸ばした。
「没収します」
その手をサッと退け、ハックスは砂糖玉の詰まった小箱を自分の胸に引き寄せる。
「これは私が貰ったものだぞ。強奪する気か?」
かばうように片手で箱をガードしながら屁理屈をこねて唇を尖らせる姿は、将軍の役職にある人物とは到底思えない。
「人聞きの悪いことを仰有らないでください。それは明日のぶんにしましょう。さあ」
なおも伸ばしてくるミタカの手から逃れるように、ハックスは箱を遠くに押しやった。
「やだ」
「将軍!」
「こ、こういうのは実質酒だろう?」
「いいえ、リキュール・ボンボンは立派な飴で――」
「いただきます」
「あっ、いけません!」
素早くひとつ口に放り込むハックスを阻止せんと、ミタカがデスクにめいっぱい身を乗り出す。それを片手で押し戻しながら、ハックスはミタカの追求から逃れようと、リキュールの箱を持った手を限界まで遠くに伸ばした。あまりにピンと張ったせいで、腕はぶるぶると震えていた。
「将……軍、子どもみたいな真似は、お、お止め……くだ、さい!」
「嫌だ! ティータイムには甘いものは必要不可欠なんだ!」
「だったらちゃんと残しておけばいいじゃないですか、食べちゃったのは貴方でしょうに」
「うるさい! 口のきき方がなっていないぞ!」
デスクを挟んで、大の大人が二人、リキュール・ボンボンの可愛い小箱を巡って掴みあいの争いをしている。下級兵が見たら卒倒しかねない光景だが、本人たちは至って真剣である。
「き、貴様、これ以上近づいてみろ」
ミタカの頬をぐぐ、と押しやりながらハックスが呻く。そして急に立ち上がると背後に数歩下がり、おもむろに蓋の開いた小箱を口許にあてがった。
「――このボンボン、全部口の中に流し込んでやる」
「な、何を」
あまりに大人げない発言に度肝を抜かれたミタカが目を剥く。対するハックスは真剣そのもので、追い詰められた獣の目をしていた。
「これはお菓子じゃない、リキュールだ。酒は飲み物、ならば飲むまで」
「馬鹿なことを仰有らないでください!」
「本気だぞ! 全部飲むからな!」
もったいないけど、と少し残念そうに付け加えることを忘れないハックスに、ミタカは唖然とする。
しばらく、両者は沈黙したまま睨み合った。
やがて、根負けしたミタカが諦めたように肩を落とした。
「――今日だけ、ですよ」
ため息まじりのミタカに、ハックスは疑いのまなざしを投げかける。
「……本当か?」
「ええ」
「取り上げないか? 約束するか?」
なおも疑うハックスに、ミタカは情けない思いで頷いてみせた。ここまでされては、為す術がない。というか、気力もない。
「取り上げないとお約束します」
ほら、だからちゃんと座って食べましょう、と促すミタカをじっと眺め、やがてハックスは満面の笑みを浮かべ、こくんと頷いた。
「うん」
しかし意気揚々とデスクに戻るその手には、まだしっかりとボンボンの箱が握られている。決して離すまいという固い意志が見て取れた。
たまりかねたミタカはとうとう苦笑を洩らす。そこまで好きなものを無理に取り上げては可哀想か、という気にさえなる。
「……お茶、冷めてしまいましたね。淹れなおしましょう」
そう言って再度ミタカが茶を淹れるのを、ハックスはまるで行儀の良い子どものように大人しく待ってい
た。
そして、ふたたび供されたティーカップを受けとったとき、
「ミタカ、手」
ハックスはミタカに手を差し出すように促した。
ミタカが素直に従うと、ハックスは菓子の箱から彼の手のひらにざらざらとボンボンをぶちまけた。溢れんばかりの量に、ミタカが慌ててもう片方の手も添えて受ける。目を丸くしていると、ハックスはぶっきらぼうに言った。
「お前も食べろ」
「……ありがとうございます」
手のなかに山盛りになったカラフルな砂糖のかたまりをしげしげと見る。糖衣の粒がキラキラと輝いて、美しい宝石のようだった。
ひとつつまんで口に入れる。
脆い衣はカシャリとした歯触りを残してすぐに溶け、ツンとした爽やかなリキュールの甘さが口いっぱいに広がる。酒の灼けるような熱さがほんの一瞬だけ舌を刺し、すぐに消えた。
「……美味しい」
思わずそうつぶやくと、ハックスが心の底から嬉しそうな微笑みを浮かべた。
「だろ?」
「はい。――あの、これ、こんなに」
箱の半分はあろうかという量に戸惑うミタカに、ハックスはニヤリと笑ってみせる。
「賄賂だ、今日の分の」
一緒に食べよう。
素直にそうは言えない主人の不器用な優しさに、ミタカの眉が下がる。
「……本当に、今日だけですからね」
「私が約束を破ったことがあるか」
「ことお菓子に関しては、いつもじゃないですか」
「そうだったか?」
しれっと言ってのけるハックスは、もう意識の半分を箱の中身に持って行かれているようだった。
――やれやれ。
苦い茶と甘い砂糖菓子を夢中で貪る主を、ミタカは祈るような思いで見つめる。
――長生きしてくださいよ、将軍。本当に。
そして手のひらいっぱいのボンボンを空っぽの銀ボウルにそっと移しながら、明日はどんな形の「今日だけ」を繰り出してくるのだろう、とぼんやり考えた。