その晩、こっそりと船を抜け出して森へ向かった理由は、ベン自身にもよくわからなかった。
たしかに、“冒険”という名目できまぐれに付き合わされる父の仕事にも、夜毎繰り広げられる両親の言い合いにも、嫌気が差していたのは事実だ。
ただ、ベンはまだ幼く、昼でも薄暗い森は、危ないから一人では決して立ち入ってはならない、と父には固く言い渡されていた。奇妙なことには、そう告げる父は、心のどこかでベンが禁を破ることを期待するふうでもあった。だが、その思惑に乗るのが幼心にもなんだか癪で、本当なら意地でも森に行くつもりなんかなかったのだ。
けれど、その夜はなにかが違った。
ベンの就寝を見計らって始まった、コムリンク越しの夫婦喧嘩にいたたまれなくなり、彼はそっと船を抜け出した。(ベンに配慮し、二人ともいつも小声で怒鳴りあうが、狭い船のなかでは筒抜けだった。喧嘩の原因が自分なのだということも、彼はちゃんとわかっていた。)
あてもなく船のちかくをうろうろしていたとき、不意にだれかに呼ばれた気がした。
ヴィジョンというにはあやふやで、フォースの感応というにはあまりにも微弱な、ただ「予感」とでもいうべき不思議な感覚に、ベンはどうしようもなく惹かれた。
呼び声の主を捜そうと夢中になり、そして気がつけば、森へつづく小径の入り口にいたのだった。
§
真夜中の森は暗く、しんと静まり返っていた。
だが耳をすませば、聞いたこともない虫の音、なにかががさがさと動く気配や、得体の知れない生き物の息遣いが聞こえる。
暗闇に消える小径の奥を、じっと目を懲らしてみる。深い夜の闇がじわじわと凝り、恐ろしいものへと姿を変えようとして、ベンは慌てて目を閉じた。
いつもの彼なら恐怖のあまり踵を返したに違いない。
しかし、その日のベンは退かなかった。それどころかぶんぶんと左右に大きく頭を振ると、敢然と夜の森を見据えたのだ。
──ぼくを、呼んでるひとがいるんだから。
使命感とも憧憬ともつかぬ感情に焦がれ、彼は決死の一歩を踏み出した。
森の中は、思った以上に明るかった。
満月だったせいなのか、それとも彼があまりに予感をたどることに夢中だったせいなのか。ただ、鬱蒼と続く木々にも、想像の化物にも怯えることなく、ベンはひたすらに夜の森をさまよった。
とつぜん、視界が開けた。
花が咲き乱れていた。
小さくて白い花びらが月光に照らされ、闇のなか白く浮き上がっている。
みずから発光するかのような白い花の大群に驚くベンの瞳は、やがて花たちに囲まれるようにして建っている石造りの教会に引きつけられた。
教会とわかったのは、屋根に十字架が取りつけられていたからだ。
それがなければ廃屋と勘違いしても仕方ないほど、建物は荒廃していた。長いあいだ風雨にさらされ、手入れもされずに放置されたのだろう。不揃いな荒い石を積み上げただけの、いまにも崩れそうな外壁は黒ずみ、苔むし、蔓性の植物が表面を覆いつつあった。
正面には木造の質素な扉が設けられている。
扉は細く開き、そこから柔らかな光が漏れだしていた。
──いた!
真夜中の森の荒れ果てた教会にいる者が、まともな人間であるはずがない。しかし、ベンはそのときまったく恐怖を感じなかった。むしろ自分の予感のたしかさを喜び、ようやく会えた呼び声の主に焦がれた。
自分を呼ぶなど、いったいどんな人物なのだろう。好奇心もあらわに入口に近づき、中を覗こうとした、その時。
不思議な音が響きわたった。
夜の静寂を破ったその音色は甲高く、それでいて心地よく、まるで空から降り注ぐ光の柱のようだった。彼を呼んだ人物の手によるものだと、直感的に悟る。
音は、ひとつの細い旋律を奏でた。すぐに別の旋律が鳴る。
そしてふたつは、追いかけっこを始めた。
呼応し、螺旋のように絡まり、複雑に、そして整然と重なり合い、響き合う。
ひとすじの光が表情を変えながら増幅され、やがてあたりを溢れんばかりのまばゆさで満たしていく様を思い浮かべ、ベンはすべてを忘れて聞き惚れた。
──神さまの音楽だ。
荘厳という言葉を知らぬ幼い知性にも、奏でられた音楽が此処ではないどこかに向けられた祈りをこめたものであることは理解できた。さらに彼は、音楽の底に横たわるしんとした悲しみさえも感じ取っていた。それは音楽そのものに予め備わったものというよりは、演奏者の心情の吐露であったかもしれない。
言葉にできぬまま、ベンは理解する。
──この人、悲しいんだ。
──ぼくと、同じだ。
天使だ。
そう思った。
こんな寂しい場所で、こんな夜更けに、美しい祈りの音楽を奏でる人は、きっと天使に違いない。
自分のために神が遣わしたのではないか。
呼ばれていると感じたのは、どこかに連れて行ってくれるからではないか 。
なかばそう本気で信じ込み、なかばすがるように願い、ベンはおそるおそる扉の間から身を滑り込ませる。と同時に、音楽が止んだ。鳴ったときと同様、唐突だった。
「誰だ!」
少年特有の高い声が、鋭く飛んだ。思いがけず険のある言い方に、ベンは咄嗟に目の前に置かれたベンチの蔭に身を隠す。声のする方を首だけ伸ばしてそうっと窺った。
背ばかりひょろりと高い、痩せぎすの少年が、荒れ果てた教会内部に据えられた小さなオルガンの前に仁王立ちになり、音のした入り口の方をきつく睨みつけていた。
ベンより四、五歳上だろうか。ベンにはずいぶんと大人びて見えた。
髪は赤毛で、肌の色は色白をとおりこし蒼白だ。ぎょろりとした目に、薄い唇、頬にはそばかすが散っている。その顔だちはどこか歪なものを感じさせ、おまけに臆病な鼠を思わせた。
オルガンの周りには蝋燭がいくつか灯されており、少年が動くたび、壁に大きな影が揺れる。
頼りない灯に照らし出された彼の服装を見て、ベンはおどろく。
──テイコクのひと?
黒づくめの制服は、帝国のものにそっくりだったからだ。
禁忌の象徴とも言えるそれを、ベンは本でしか見たことがなかった。その禁忌の象徴を、少年はきっちりと着込んでおり、制服に誇りを持っていることが一目で知れた。しかし、黒い生地は良く見れば褪色し、裾や袖は擦り切れている。少年がプライドとは裏腹の困窮した暮らしを強いられていることが窺え、ベンはひそかに同情した。そしてすぐに、同情した自分が恥ずかしくなる。
「いるんだろ、出てこい」
ベンのちいさな逡巡など知らず、挑発するように唸る少年の表情は、猜疑心の塊だ。お世辞にも美しいとは言い難い。だが、それは顔の造形というよりは、放つ空気のせいも多分にあったろう。
彼の放つ怒りの波動はあまりにも強く、離れた場所にいるベンの肌をびりびりと震わせるほどだった。激しい怒りは、少年本来の顔だちを歪ませてしまっていた。
ベンは息を潜め、身を縮める。
怖いとは感じなかった。
それよりも、踏み込んではいけない聖域に、自分が無遠慮にも乱入してしまったような後ろめたさを感じ、恥じていた。
──勝手に入ってごめんなさいって、言わなきゃ。
でも、嫌われてしまうかもしれない。
そう考えるだけで、ベンの胸はきゅうと痛む。
少年は、友だちになりたいようなタイプには見えなかったけれど、それは少年のせいではないような気がした。それよりも、あんなに美しい音楽を奏でる人に嫌われたくはなかった。
彼はしばらく鋭い視線を入口に向けていたが、やがてフンと鼻を鳴らし、嘲笑うようにつぶやいた。
「僕の呪いが届いたのか、糞ったれの神が」
“呪い”。
あの美しい演奏が、呪いだなんて。ベンはぎょっとする。
「神罰とやらが下って、悪魔でも寄越したか? それなら、さっさと契約を結ぼう。ぼくはとうに覚悟を決めている。さあ、どうした。出て来いよ、悪魔」
悪魔と呼ばれ、ベンは怒りで叫びそうになった。
──ぼく、悪魔じゃない!
しかし、少年が本当に欲しているのが、悪魔なんかではないこともベンには判っていた。彼が全身から発する無言の怒りと悲しみが、ベンには良くわかったから。互いの抱える悲しみが、共鳴するのを感じた。
──あなたの声が、ぼくには聞こえたんだ。
──ぼくを呼んだでしょう?
──本当は、悲しくて祈っていたんでしょう?
言葉にならない思いが胸に渦巻くなか、たったひとつの言葉がぼんやりと形作られはじめる。
立ち上がり、無我夢中で話しかけようとベンは口を開いた。
ベンを見た少年が驚き、目を見開く。
「ねえ! ぼくといっしょに、にげ──」
その瞬間。
激しい頭痛と共に、ベンの脳内に「声」が響いた。
≪行くな。ベン≫
──まただ! また、来た!
正体不明の「声」。
時に優しく、時に厳しく語りかける「声」。彼だけに聞こえる、謎の先導者。
≪その時ではない。今は、まだ≫
割れんばかりの頭痛に、ベンは頭を抱える。
赤毛の少年がこちらに走り寄ろうとする姿を最後に、ベンの意識は途絶えた。
§
翌朝、ベンは船のベッドで目を覚ました。
キッチンで朝食をつくっていた父は、起きてきたベンを認めると笑顔をつくり、帰るぞ、とだけ言った。母に言い負けたのだなと思ったが、ベンは素直に頷く。
奇妙な夢を見た気がするが、何も思い出せなかった。
──ぼく、なにかを忘れてる。
──なにか、とても大切なことを。
思い出せない音楽が、延々と頭の中を鳴り響いている。
そんな奇妙な感覚に悩まされる。
しかし、父特製のスープの匂いがただよってくるにつれ、それもすぐに消えた。
ベンは、じきにすべてを忘れてしまった。
<了>
リクエスト「ピアノを弾くハックス」でした。
こちらは三連作の第一部ですが、第二・三部は『旅とパレード』書き下ろし作品となり、WEBには収録しておりません。ご了承下さい。