燃える脚の寝室(二)<完結>


──こんな場所に幾日もいたら、現実に帰れなくなりそうだ。
読みさしの本をテーブルに置き、ハックスは大きな欠伸をした。ついでに、弛緩しきった身体を猫のように伸ばす。
中庭に降り注ぐ穏やかな午後の陽光が、木漏れ日となって降り注ぐ。傍らにそびえ立つ堂々とした楡の木を振り仰ぎながら、館の主に思いを馳せる。
今日ですでに三日だが、彼はいっこうに姿を現そうとしない。
この館では、電子機器は極力排されている。そのせいで、外界との連絡も取れない。そうはいっても、これは最初から条件のうちに入っていたことではあったし、いざとなれば隠し持った装置の合図で精鋭の狙撃部隊が急行する手はずは整っている。館の位置は把握してある。何ら不安はない。
ただ、することがない。
ハックスは、もう一度、ふわ、と小さく欠伸をした。

§

長髪の男パトロンから聞き出した己の崇拝者の名を聞き、ハックスは驚いた。あの夜、レンとふざけて芝居ごっこをしたあの戯曲の作者その人であったからだ。俄然、興味を持った。
彼は、ここ数年で急激に頭角を現した作家だった。作品の領域は多岐にわたり、発表するたびに様式を変えた。評論、エッセイ、小説、戯曲。そのどれもが出色の出来であると絶賛されている。一時は複数の覆面作家による連名なのではと噂されるなど、謎の多い人物でもあった。

そして、ハックスが身辺調査を始めたのとほぼ同じ頃、作家本人からコンタクトがあった。一週間、己の住む館に彼を招待したいという誘いは、読む者が読めば裏に仄めかされた意図があるのは一目瞭然だった。
作家は、その手紙の中で自らを「詩人」と称した。そして、ハックスにもそう呼んで欲しいと訴えていた。なんだか女神ミューズと崇められているかのようで、悪い気はしなかった。
見計らったようなタイミングは警戒すべきだった。しかしどう調べても、彼の身元は確かなもので、親から譲り受けた莫大な財産を有しているのも事実である。周囲での怪しげな動きもない。
しばらく迷った末、ハックスは招きに応じると決めた。危ない橋を渡らぬ彼にしては、思い切った決断だ。何から何まで奇妙な人物に、どこかしら惹かれるものを感じていたことは否めない。それに加えて今回のケースは、普段の色と欲に塗れたそれとは違いそうな雰囲気が、ことさらに興味を煽った。
決心を恋人に告げたとき、普段はそうしたことに口出しをしない彼が、珍しく気遣わしげに眉を寄せた。が、結局は何も言わず、素直に送り出してくれた。

詩人の館は、裕福な者達が集まる星の一等地にあった。が、ひしめきあう華やかな社交家達の屋敷が密集する地域からは遠く離れ、山の広大な裾野の、さらにその奥にぽつりと立つ巨大な館というのが、偏屈で孤独な芸術家にはぴったりだった。

訪れてみれば、ハックスですら圧倒されるほどに古風で厳めしい容貌の館は、ひっそりと静まりかえっていた。
館の主は、彼を出迎えることをせず、ただ一通の置き手紙で、どうぞ遠慮なくくつろいでお過ごしくださいとだけ告げた。面食らったが、不思議と無礼は感じなかった。

大きな館ではあったが、その部屋のほとんどが使われておらず、鍵が掛かっていた。使用人に人間の姿はまったくなく、目にするすべてが機械ドロイドかクローンだ。数も少ない。
だから、彼が暇つぶしも兼ねてもっぱら訪れたのは、書庫だった。
数階にわたる空間が吹き抜けになり、その壁面の全てを書棚が覆っていた。夥しい書物の数々の大半は彼の知らない言語で書かれたものばかりだったが、一画に共通言語で書かれた書棚を見つけると、彼は片っ端から猛然と読み始めた。

屋敷の中央には中庭があった。日当たりが良く、大きな楡の木の蔭には、ガーデン・テーブルとベンチがしつらえてある。
館じたいがひっそりと音のしない不思議な場所であったが、どっしりとした大樹の傍は格別にしんとしていて、心地よかった。生きる者の発散する騒々しい気配がすべて取り払われ、身体の芯まで染みとおるような冷気に満ちている。
それがなんとも心地よく、そこは彼の定位置になった。
来る日も来る日も、彼は図書室から小説や美術書を持ち出し、中庭の樹の下で読み耽った。
食事は美味く、量は小食の彼に合わせたかのように少なめで、甘い砂糖菓子はいくらでもあった。苦い茶も、手を叩けばすぐに機械が駆け付けた。

体の良い軟禁状態に、ハックスは慣れつつあった。

少しだけ風変わりなのは、毎晩常に足専用の湯船が用意されたことだ。
糖蜜、蜜蝋、扁桃油、檸檬、その他様々の薬草、海藻。すべてをどろどろに溶かした液体の中に、両脚を浸せと促し、泥のような色をしたそれを丹念に脚にすり込むのは、専用に作られたと思しき機械達だ。
また、ときおり、不意に誰かの強い視線を感じることもあった。つとめて気づかないふりをしたが、ハックスとて阿呆ではない。彼にとってのパトロンというのは、要するに莫大な金をたった一人の男の皮一枚に提供しようとする輩だ。狂っていて当然だ。
だから、監視されていないなどとは微塵も考えていない。寧ろ、見られていることに気づいたときは、少し落ち着いたくらいだった。
──窃視趣味か。性的倒錯者フェティストなのか。
ただ、この沈黙の館の主をそんなふうに推測するのは、少しだけ残念な気がした。
そういえば、とハックスは思い出す。
かつて、彼にハイヒールを履かせ、足蹴にさせて罵らせるのが趣味の老人がいた。権威ある学者だったその老人は、研究の成果をファースト・オーダーに提供する代わりに彼を求めた。学者は、研究が行き詰まりしばらく経った頃、学会のため出向いた星で偶然・・テロに巻き込まれて客死した。
ハックスは、彼が大嫌いだった。
あのような俗な欲望は、この館の主には相応しくない。先日見た芝居の高貴な美しさから言っても、猥雑な性欲とは一線を画した執着を感じる。
──何を期待している。人間の身体を、金で買おうとする輩だぞ。
まだ見ぬ次な金蔓に過剰なシンパシーを覚えている自分を、ハックスは軽く叱咤した。

§

穏やかな日々が六日過ぎ、明日はこの館を辞去するという日の朝、主は現れた。
いつものようにベッドで供される朝食をとった後、書庫へ出向こうと寝室のドアを開けると、男が立っていた。その強い視線には、覚えがあった。彼が“詩人”なのだと直感した。
詩人は、これといって特徴のない、飄々とした中年の男だった。
背丈はハックスよりも少しだけ低い。右足をひきずるようにして歩くほかは、視線を逸らした数秒後には忘れてしまいそうな容貌をしている。醜くも、美しくもない。顎にまばらに散った髭だけが、芸術家らしいといえば言えた。
唐突に現れた彼に、ハックスは驚かなかった。むしろ、ようやくお出ましかと安堵する心持ちには懐かしさも入り交じり、なぜか甘やかなときめきを伴ってさえいて、自分でも戸惑いを覚える。
詩人は、挨拶をしなかった。
ただ、言葉少なに「こちらへ」とだけ言い、先導して長い廊下を歩き出した。詩人の声も、容貌と同様に剽軽さすら感じさせる、穏やかな声だった。

とある部屋の前で、彼は足を止めた。「見て頂きたいものがあります」
その言葉に、ハックスは黙って頷いた。

通された部屋は、重厚で厳めしい装飾の他の部屋たちとは違い、モダンで放埒なデザインが溢れかえっていた。植物を模した流線型のアーチを持ったフロアランプや飾り棚、書き物机。やはり植物をあしらったおだやかな色調の壁紙。
奥には、梨材の黄色も華やかな大きなベッドが据えられているのがちらりと見えたが、その存在は無理矢理に視界から外した。
部屋の中央には、白い布を掛けた大きなイーゼルが立てかけられていた。
詩人が無言で絵に歩み寄り、布を取り去る。
黒檀でできた額縁に収められた、一枚の油絵が現れた。
異様な絵だった。
写真を元にしたのか、軍装で立つハックスの凛々しい立ち姿が、写実的なタッチで描かれていた。彼によく似て美しい。が、それは半身だけだ。
残りの半身は、糜爛していた。
肉が腐り、爛れて融けて落ち、ところどころ飴色の骨が覗いている。肩から胸にかけてざっくりと袈裟懸けに斬られた傷痕からは、今にも滴りそうな鮮血と瑞々しい肉が零れている。
「私か。よく、似ている」
眉一つ動かさずに言うハックスに、詩人は微笑む。やはり飄々としている顔は、悪びれない。
「こういうのも、無残絵と言うのかな。誰に描かせた」
「食い詰めた画家に。行き倒れていたのを拾い、屋敷に逗留させて」
「今、その画家は。まだ滞在しているのか」
「ええ」と詩人は窓の外の楡の木を指さした。「あの、木の下に」
穏やかな声色にぞくりとする。しかし、顔には出さず、
「そうか」
「冗談です」
「どちらでも構わないさ」
詩人は、声をあげて笑った。「やはり、想像どおりの方ですね、貴方は」
嫌味な笑いではなく、心底嬉しそうだった。物騒な絵の前だというのに、その開けっぴろげな笑顔には、どこか人を安心させるものがあった。
「ときに、蔵書はいかがでした」
「ああ」とハックスは鷹揚に頷く。「素晴らしかった。あんなに夢中になったのは、久しぶりだ」
「やはり、お好きでしたか。小説が」
やはり、と言った目に、油断のない光が生まれる。ハックスは気づかぬふりをした。
「しかし、共通語で書かれた本が少なかったのは残念だ。読んだ作品はどれも、私の知らない作品ばかりだったが……」
「それは、そうでしょう。あれらはすべて、私の故郷の物語たちです。私が翻訳しました」
「ほう」そこで初めて、ハックスは詩人を真正面から見据えた。「大したものだ」
彼の強い視線をまっすぐ受けとめ、詩人は軽く頭を下げる。その目に、理由の判じがたい暗い炎が揺らめく。
「しかし、おかしいな」
ハックスはわざとらしく首を傾げる。
「貴方はたしか、シャンドリラ出身ではなかったか」
鋭利なナイフのようにハックスの目が光る。
「無論、シャンドリラにも散逸した言語くらいはあるだろう。しかし、あれほどの作品が翻訳もされず放って置かれるとは、どうにも考え難い」
淡々とした口調が、尋問の調子を帯び始める。
「ここへ来る前、私は貴方の──“詩人”の身辺を洗った。徹底的に。経歴はまっ白だった。“詩人”は間違いなく、生きて存在していた人間だろう。それは間違いない」
鷹のように鋭い眼差しを向ける。
「本当の“彼”はどこだ」
「死にました」一片の動揺すら見せず、詩人は静かに言った。「この絵を描いたのが、“彼”です」
「貴方が殺したのか」
「いいえ。私は殺していません。彼は首を縊りました。──あの、楡の木で」
沈黙が落ちる。
「それで、埋めたか」ハックスが聞いた。
詩人は黙って頷いた。
「人生を乗っ取ったわけか。それで、貴方は誰だ」
「……私の、本当の出身は」
とある星の名を、詩人は告げた。
挑むような口調とは裏腹に、寂しそうな顔をしていた。
「申し訳ない、知らぬ名だ」
素っ気なくそう告げると、
「そうでしょう。無理もない。もう、何年も前に消えました」
詩人の声が低くなる。目の炎が、いちだんと深く燃えた。「貴方が、消した」
「何だと」ぴくりと眉を動かしたハックスの顔が、にわかに思い至った顔になり「ああ」、と唇を歪める。「つまり、これは復讐か」
「いいえ」
意外にも、詩人はきっぱりと言い切った。嘘はないように見えた。

そして、訥々と語り始めた。

かつて彼は、ほんのいっとき故郷を離れたその間に、ファースト・オーダーの攻撃によって故郷を失った。帰る場所すら失い途方に暮れていた彼を拾ったのが“詩人”だった。詩人は、レジスタンスに所属していた。彼の憎しみを、何らかの形で利用できると考えたのだ。生きる意欲を失い、茫然自失であるかのように見えた彼に、詩人は、ゆっくりとオーダーへの憎悪を植え付けていった。全てを奪った男が憎くはないか、と。あるいは、故郷の文化を復興させたくはないか、と甘く囁いた。文筆家志望だった彼に、己の莫大な財産を使い、彼の希少な母国語の小説を集めることにも手を貸してくれた。
「心からの同情もあったでしょう。彼は善良な人でした。しかし……」
「貴方は、詩人を裏切った」
「ええ、ある意味では」
「何故」
「あの絵を描いて欲しい、と彼に依頼したのは、私です」
急に話題を変え、腐敗した男の肖像を見遣る。
「表向きは、憎き将軍の醜さを表現して欲しいと言って。しかし、本当は」少し言い淀み、「──貴方の美しさに、触れていたかった」
この男が、お前の全てを壊したのだと教えられたその日から、自分は“将軍”に魂を奪われていたのだ、と彼は語った。しかし、そんな己の異常さに怯え、崇拝にも似た感情を封印した。この執着は、憎しみから来るそれなのだと自身を欺き続けた。
ところが、彼の執着が具現化したような肖像画が実体となって現れたとき、 “詩人”は彼の欺瞞を見破った。激昂した詩人は、激しく彼を詰った。しかし、詰るうち、詩人の様子もまた、おかしくなっていった。
「この絵を見てください」
毒々しい美を放つ肖像画を、愛おしそうに彼は身振りで示す。
「この崇高さは、描こうと思って描けるものでは、ない」
彼も気づいてしまったんですよ、と目の前の男は嗤った。
「貴方に惹かれている自分に。その、事実に」
そして、絶望した詩人は、自ら楡の枝にぶら下がりました。
「……思い出したよ、その星の名を。あれは、新兵器の実験を兼ねた攻撃だった。想定以上の威力で、惑星を一つ壊滅に追いやった。不幸な事故だった」
ハックスは、わざと「事故」と称した。
「そう言うでしょうね。貴方なら」詩人は鼻を鳴らす。憤怒らしき感情がちらりと覗いた。
「私の命令一つで、貴方の故郷は生物の棲めぬ死の星と化した。地上に居た者は悉く死に、偶々地を離れていた者は永久に帰る場所を失った──そう聞いている」
煽るように、ハックスは他人事のような口調を装った。なぜそんな態度を取るのか、自分でも判らなかった。
「にもかかわらず、私が憎くない、復讐をするつもりはない、と?」
「貴方が憎くないと言えば、きっと嘘になる。でも、そんなことはどうでもいい」
「そんなこと?」
思わず聞き咎めるハックスに、詩人は初めて怒りの目を向けた。
「ええ、ええ。私は常軌を逸しているのでしょう。しかし、貴方が。よりにもよって、貴方が咎めますか、この私を!」
その勢いに気圧され、ハックスは口を閉じる。
「私だって、貴方を憎みたい。けれど、どうしようもない程に魅せられてしまったのです。戦場に立つ、他でもない、貴方に!抗えなかった。焼かれ、蹂躙され、破壊し尽くされた、もはや死を待つことしか出来ない、あの阿鼻叫喚の地獄の中で──」
「……それは夢か、でなければ幻覚だ。私は、戦地には出向かない」
「いいえ、あれは確かに貴方でした。赤い髪、赤い瞳、赤い掌」
語る詩人の瞳に、熱風がびょうびょうと吹きすさぶ。
「降りしきる死の灰と大地を舐める業火のなかでも、将軍、貴方は美しかった」
「あの場に居た者は、皆死んだのだぞ。そこにいれば、私とて無事では済まない。貴方も、故郷を離れていたからこそ助かったのではなかったのか」
「ええ、確かに」
「ならば、此処にいる貴方は、私は、誰だというのだ」
「人は、一人ではありません」詩人は笑った。「此処に居る貴方も貴方でしょう。しかし、それと同じくらい、あれも、貴方だ」
狂っている、と言い掛け、ハックスはその言葉を呑み込む。詩人の目は、狂ってなど居なかった。涙に濡れて光るその目は、哀しみと諦めを宿して静かだった。一瞬、ハックスは本当に、もう一人の自分が滅び行く星に降り立ったことがあるような気さえした。
「……きっと、今も居るのでしょう。二人とも。消えてしまった、燃える私の故郷に」
かばねの王のように、死んだ大地に尊大に君臨する己の姿を垣間見た気がして、ハックスは軽い眩暈を覚える。
「──それで、私に何を」
力なく問うたハックスに、詩人は静かに言った。「貴方を、呪います」

「憎めぬ代わりに。せめて、しゅを」

§

「どうぞ、そちらへ」
詩人は、奥に据えられたベッドを示す。
真上には、細い鉄と色硝子で作られた花のシャンデリアが取りつけられている。午前の今、灯りは落とされ、薄い麻のカーテンを通して柔らかな陽光が射し込んでいる。
ハックスは、静かに夜具に腰かけた。ズボンに手をかけると、詩人は黙って後ろを向いた。脱衣のあいだ、彼は決して振り返ろうとはしなかった。
「本当に、下だけで良いのか」
シャツの釦に手をかけて問うハックスに、
「……貴方の秘密を暴き立てるつもりは、なかったのです」
ハックスの上半身に隈無くついた傷のことを言っているのだと理解するのには、少し時間が掛かった。
「構わない。俺を買う者は、この傷も込みで買う」
娼婦ではないと言い張っているはずの俺が、身体を売ったと自ら認めている。自らの心境の変化に、ハックスは戸惑いを覚える。背後で微笑む気配がした。
「安い物語を、皆、好みますから」
それを売る俺も安いと、ハックスは内心自嘲した。内心のつもりが、そう声に出していた。詩人は答えなかった。
決まり悪くなり、咳払いで誤魔化した。
「いいぞ」
寝具に横たわる音を合図に、詩人はこちらに向き直った。

彼が「呪い」として提案したのは、ハックスの両の脚に、言葉を刻むことだった。
刻むと聞き、入れ墨のようなものを想像した彼に、詩人は慌てて、傷つけるつもりはない、と付け加えた。ただインクで書くだけだ、書いた直後には消して良い、と。
呪いなどというおどろおどろしい言葉から想像するのとかけ離れた、木訥とさえいえるその手法に、ハックスは面食らった。
「私は、てっきり、その」
珍しく言い淀む彼に、
「貴方を手酷く抱くとでも思いましたか、私が。貴方の新たなパトロンとして」
あっさりと笑う。ハックスはばつが悪そうに横を向いた。
「やはり、調べているよな」
「ええ。大変でした。多くの者たちは、表向きどころか裏ですら、オーダーとは何の関わりも持っていない。ある日、恋に落ち、唐突に不慮の事故で命を落とす。中には、貴方の正体を知らない者もいたでしょうに」
「それなのにまだ、私に惹かれるなど言うのか。……どうかしているな」
「貴方は、御自分の美しさがどういった類のものなのか、ご存知ないのです」
「俺の美しさとは、何だ」
「暴力ですよ」詩人はあっさりと言ってのけた。「そして、貴方の美は、貴方の行いごときで汚されたりはしない」そこでいったん言葉を切り、彼はふと独り言のように言う。「……そう言えば、女性より男性が多かったのは、少し意外でしたね」
「男が好きなんだ、昔から」
そのせいで父にも酷く疎まれたと、言わなくてもいいことを言った。本当は、疎まれたのはそれだけが原因ではなかったのだが。
「母に似て淫蕩な男好きだと誹られた。まあ、本当のことだ。それに男の方も、私が好きなようだから」
ああ、と詩人は納得したように頷いた。
「それで、あの方はあんなに怒られたのですね。劇場で」
「あの方?──ああ、レンのことか」
まいったな、そこまで調べたのか。そう苦笑すると、彼も苦笑を返してきた。
「そこは調べずとも分かります。あれは、演技ではなかった」
「どうだろうな。他の者は気づいていなかった。……気づこうともしない」
「生きていないのでしょう、あそこにいた方達は、あそこでは」
「そうかも、しれない」
おしゃべりが過ぎましたね、と穏やかに言い、詩人は、作業のあいだ退屈でしょうから、とハックスに紙束を渡した。
手書きの原稿だった。
「私の新作です。貴方が、読者第一号です」
近々出版されます、と言った彼は、なぜか遠くを見るような目をした。
「光栄だな」
思いのほか真摯な声になったことが、自分でも意外だった。詩人は虚を衝かれた顔をし、慌てたように面を伏せた。
そして、取り繕うように、棒状の筆記具を取り出して見せた。
筆と言うのだと、詩人は教えた。
「獣の毛を束ねて扱いたものです。これを」
黒々とした液体をに浸す。年寄りの白髪のような毛束が、あっという間に黒い液を吸い、もったりと重く膨らんだ。炭を細かく砕いて粉にし、水で溶いたものに浸して書くのだと。
「水で洗えば、落ちます。血液などよりは、よほど容易に」
そう言いながら、詩人はハックスの膚に筆を走らせた。ぬるりとぬるい液体と、大量の毛束が皮膚を撫ぜる。微細な繊維にときおりまじった強情な毛が、ざらりと不快だ。
こそばゆい。
思わず息を詰まらせる。
「ご不快でしょう」
「……いや」
さわさわと脚を撫でる感触は、ともすると官能すら呼び覚ましそうになる。自然と息を止める。筋肉が強ばる。そのたび、詩人に「力を抜いてください」と促された。息をつき、緊張を解く。弛んだ肉に筆の柔さが這い、また息を呑む。繰り返す。
やがて、文字は脚の表面を覆い尽くしていく。己が滅ぼした星の文字は、奇妙に縦に長かった。ぜんまいのようにくるくると弧を描いて、腿から膝へ、膝から脛へと這い伝い、下りてゆく。その様は小指の先ほどの蛇を連想させた。
呪うと言ったが、ただ脚に文字を書き付けていくだけで呪いになるのか。初めのうちは、そんなことを考えもした。声に出さぬ疑問を見透かしたかのように、時折詩人は静かに微笑んだ。
だが、意味の判じ得ない言葉が肉体を覆っていく様は、意味が判らぬ故に神聖とも邪悪ともつかず、ただならぬ強い想いだけが我が身に刻みつけられていくようで、
──なるほど、これなら、呪となるか。
腑にも落ちる。
快とも不快ともつかぬ感覚から逃れようと、ハックスは手の中の原稿に意識を集中した。
燃える町、妄想の言語体系、地下室で蠢く父、時間と幸福を操る寄生虫、言葉でできた自動人形。
これまでとはまた違う、奇妙に拗れた短編ばかりが続くなか、這う筆の感覚がじわりと浸食する。燃え上がるような官能に搦め捕られ、躯の奥が疼いた。甘い蜜が溢れ出しそうになる。堪えても堪えても、繰り返し押し寄せる波には抗えない。堪らず、弾けた。
意識を取り戻すと同時に、恥ずかしさのあまり声をあげそうになる。
しかし、微塵も意に介していない詩人を見、そう言えばこの男は、俺の淫蕩な血が辿った経歴をすべて知っているのだな、と思い直した。
それからは堪えるのをやめた。不快と快の斑模様が誘うままに、燃える熱に躯を開く。何度も、静かに昇り詰め、弾け、弛緩した。
声だけは、出さなかった。
詩人の紡ぐ物語が、迎える絶頂の中で幾度も浮かび、奇妙に歪んだ劇を繰り広げた。

途中、一度だけ会話をした。
「故郷では、何をしていた」
生計たつきを訊ねたことに、深い意味はなかった。
「豚の交配をしていました」
「豚?」
「食用の。うちは、加工用の肉を出荷していました。農場は、父が一代で築いた。兄が受け継ぐはずで、私は手伝いを」
「書き物は」
「趣味です。鳴かず飛ばずで」
典型的な厄介者の次男坊ですよ、と言い、彼は朗らかに笑った。
いまどき豚の交配など、聞いたこともない。からかわれたのかもしれない。それとも、あの会話は、性的な悦楽のなかで見た夢だったのだろうか。
どちらでも良い。今となっては。

「終わりました」

その言葉で引き戻された世界は、ほの白く燐光を放つかのように見えた。
陽光はとっくに翳り、窓の外はもはや夕闇に暮れている。いつの間にか頭上のランプが点灯していた。
覚醒は気怠く、交わったあとのそれとよく似ていた。徐々に戻ってくる現実感をどうにか手懐けながら、ハックスはぼんやりと己の脚を見下ろす。
異国の文字がびっしりと虫のように集り、自分の肉体のようには思えなかった。
「なあ、一つで良い。読んではくれないか」
頼めた義理ではないと知りつつ、ハックスは道具を片付ける詩人の袖を引いた。媚びるつもりはなく、ただ心から知りたいと純粋に願ってのことだった。
心細い子どものような仕草に、詩人は柔和な表情になり、
「自ら呪を引き受けたがるとは、本当に不思議な方だ」
そう言いながら、脛から脹脛ふくらはぎにかけて斜めに走る文字列をすっと指し示した。

 星をかぞふれば七つ、
 きんの燈台は九つ、

声に出して読み上げながら、指が文字をなぞる。触れるか触れぬかの爪が、和毛にこげを震わせる。

 岩蔭いはかげに白き牡蠣かきかぎりなく
 生るれど、
 わが恋は一つにして
 さびし。

まるで恋人どうし睦言を交わすときのように、二人は寄り添っていた。
「貴方の言葉か」
「さあ、どうでしょう」
いずれ、消えて無くなる言語ですから。
故郷を亡くした男はうっそりと微笑み、故郷を奪った男を浴室へ促した。

§

書かれた文字を、用意された専用の足湯で洗い落とした。本来であれば水は黒く濁るのだろうが、やはり様々な薬草をぶち込まれた泥のような液体の中では、どうなったのかよくわからなかった。
続いて、隣に用意された湯船で全身を湯浴みする。
見たことのない白い花が浮いていた。蔭のある白さだ。泰山木の花に、少し似ていた。
なんだか洗礼の沐浴のようだと思い、ふと思い立って、息を止めて水に潜った。そんなことをしたのは久々だった。
音の遮断された水中で頭上を振り仰ぐ。歪んだ水面に、ぼってりと厚い花弁が、青白く揺れていた。このまま沈んでいてもいいな、と思った。

全身を清めた彼を待っていたのは、夕食だった。
初めて彼と囲んだ食卓に供されたのは、巨大な豚だった。
「私が育て、交配したのの子孫です」
「美味いな」
そう言うと、それは良かったと、詩人は歯を見せて笑った。

否。

俺は、詩人と食卓を共にしていない。
では、この記憶は。
夢だろうか。
思い出せない。

§

翌朝、館を辞去するハックスを見送る詩人は、別れの間際、告白した。
「じつは、貴方を迎える直前まで、迷っていました。貴方をレジスタンスに売るか、否かを」
静かに告げられた事実は、特に驚くことでもなかった。
「そうか」
「……けれど、思えばあの芝居の初日から、私の心は決まっていたのでしょう」
目を伏せたまま、饒舌に詩人は続けた。
「夫人の台詞を読み上げる貴方を間近に見た、あの疼きを、貴方に伝える術はありますまい。そして、貴方にはもう図書之助がいるのだと知った、あの時に、私は」
不意にその目を上げる。
「貴方が、売女の真似事をしてまで欲しがった財産は、レジスタンスに流します」
「……うん。わかった」
素直に頷くと、詩人はもはや馴染みとなった微笑を浮かべた。
寂しげだった。
「将軍」

「御身、大事に」

深々と一礼し、詩人は声を詰まらせた。

§

「これって、この間の」
背後で物憂げにニュースを追っていた恋人が、急にすっとんきょうな声を挙げた。
「ハックス。これ」
ぱたぱたという足音がして、ヌッと目の前にデータパッドが示される。
「ほら、あの“詩人”。あいつの館、全焼したんだって。貴重な書庫も全部焼けたらしい」
「へえ」
ハックスが気のない返事を返していることに、昂奮したレンは気づいていない。
「しかも詩人本人は、中庭で縊死したって書いてある」
あの楡か、とハックスは思った。
レジスタンスに流すと言ったのに、彼の金は結局、ファースト・オーダーに流れてきた。その時から、この結末はなんとなく予想していた。
あの男の館に招かれてから、数週間が経過している。
「あいつの作品って、ぜんぶ盗作だったんだろう?」
「盗作と呼べるのかは知らん。ただ、故郷の星の名作を、自分名義で翻訳して発表していたんだと」
「それ、明るみに出さなくていいのか?」
「……どうでもいい」
投げ遣りに答えると、レンは、まあそうか、と言いながら、じゃあ、と一冊の書籍を差し出した。
「これも、そうなのか?」
「いや。それだけは、彼が書いたはずだ」
レンの手の中にある書物を見詰める。彼が死んだというなら、これは詩人の遺作となったわけだ。
──最初で最後の作品か。
この短編集の評判は上々だと聞く。もっとも、大衆に向けたエンターテインメントだと褒める向きもあれば、唐突な路線変更に戸惑い、拝金主義に走ったという批判もあったらしい。どちらにせよ、ハックスにとってはどうでもいいことだった。
「あんた、面白いって言ってたな。俺には、なんだか薄気味悪い話ばかりに思えたけど」
あの屋敷が燃えたとなれば、恐らく彼の故郷の言語も、絶えたはずだ。今度こそ、本当に。


「他にも、いるだろう。貴方の星の生き残りは。貴方の作品が翻訳だとバレるのも、時間の問題だろう」
「ええ、ときどき現れますね。何人かは埋まってます」
邪魔をされるわけには行かなかったので、とごく普通のことのように言う。
「また、楡か」
同じ冗談を繰り返すと白けるぞ、と呆れるハックスに、詩人は曖昧に頷いた。
「貴方に注目して貰うほどの存在になるまでは、どうしても、ね」
「まったく。貴方が私に憑かれたせいで、一体何人が埋まった?」
「そんなに多くはありませんよ。せいぜいが四、五人程度でしょう。ただ、そのせいか、奇妙な花が咲くようになってしまって」
「どんな花だ」
法螺話と知りつつ、合わせてやる。
「白い花です。花弁がぼってりと厚くて、白さに蔭のある、大きな花が。ああ、泰山木と、少し似ているな」

この会話はいつ、したものか。
思い出せない。

「──ハックス。おい、どうした?」
ハッと気がつくと、レンが心配そうにこちらを覗きこんでいる。
「なあ、あんた、ちょっとおかしいぞ。あの館から帰ってきてから。ぼうっとして、心此処にあらずで」
「言っただろう、妙な男だったんだよ。調子が狂っただけだ。心配するな」
でも、と腑に落ちぬ顔をする恋人を抱き寄せ、髪をくしゃくしゃと掻き混ぜる。レンは仔犬のようにころころと喜んだ。その素直な笑顔に、心底ホッとする。
あの館で、俺は異様な妄念に巻き込まれかけていたのかもしれない。
今さらながらそんなことを思い、薄ら寒くなる。そう言えば身体の感覚も、あれからずっとふわふわとしていて現実感がない。よほど疲れたのだろう。
「その短編集に」違和感を振り払うよう、腕の中でじゃれている恋人に、強引に話の続きを振った。
「娼婦が妄想で自殺する話があるだろう。最後、屍体は搾菜肉絲になる」一番気に入った話のあらすじを口にすると、レンは怪訝な顔をした。
「それ、第一稿とかじゃないか?俺が読んだ話とは、結末が違う」
レンはそう言いながら
「この話だろう」
とページを開いて示した。
レンの言うとおりだった。結末が変わっていた。
ハックスの読んだ版では、娼婦工場で生まれた娼婦が、己の妄想で焼身自殺し遂げるシーンで終わっていた。屍体が豚のように食われることを予感させる、酷薄ながら端正な終わり方だった。
しかし、出版されたバージョンでは、終盤に訪れるのは文字どおりの崩壊だ。
突如現れた黒衣の死神が、読者の目の前から文字どおり娼婦を掻っ攫うのだ。そして、互いが互いの死神であることを匂わせ、物語は唐突に幕を下ろす。
機械仕掛けの神デウス・エクス・マキナによる大団円。
まるで、あの日の芝居のようだ。
ハックスは思う。
別れてから自決までの間で書き直したのか。それとも何か意図があって、別のバージョンを読ませたのか。
今となっては、永遠に謎だ。
──貴方にはもう、図書之助がいるのだと知った、あの時に。
「レン」
恋人の名を呼ぶ。彼はあどけない顔できょとんと振り向いた。
「あれの故郷ほしは、俺が焼いた」
言った瞳に、死の灰が降り注ぐ。
──御身、大事に。
詩人の苦悶に満ちた声が耳朶を打つ。脚の奥が、微かに熱を持って疼いた。
「だから俺は、呪われたんだよ」
レンが、心配そうに此方を見ている。
頭の芯が、高熱でうなされているかのようにぼうっと霞む。
視界が揺れ、思わず瞼を閉じた。

ハックスは、あの館の中庭に立っている。
館は燃えていた。
失われた言語で書かれた、夥しい書物たち。半身の腐った肖像画。すべてを炎が舐め、燃やし尽くす。
中庭に降り積もる、雪のような灰。
中央に立つ楡は、見たこともない白い花を咲かせていた。ぼってりと厚い花弁は、どこか泰山木の花に似ている。
黒々とした枝で、詩人が歌った。

 遊星の
 そのはしくれの、はしくれの
 砕片かけらのなかに恋もあり
 うらみもみて、春深む

その声は穏やかで懐かしく、ハックスは思わず微笑する。
「人は、一人ではないのだな」
空中に揺れる彼の脚を見上げる。
「此処に居る私も、私なのだな」
「ええ」
鬱血し膨れあがった顔で、詩人が頷く。
すべてを平らげた炎は荒れ狂い、今や間近に迫っていた。

微熱を持った脚が、また疼いた。






(了)

←「燃える脚の寝室-Interlude


<引用、および参照>
「砂金」「一握の玻璃」より 『西條八十詩集』(西條八十作、ハルキ文庫)
「胡蝶塚」「青火童女」 『ゆめこ縮緬』(皆川博子作、集英社文庫)
中華風の屍体チャイニーズ・デッド」 『楽園の知恵 あるいはヒステリーの歴史』(牧野修作、早川書房)


元々はとうふさんの素敵な「将軍落書かれ女パロ絵」から触発されて掻き上げた作品です。
が、あまりにも元からかけ離れてしまったので、敢えてリンクしていません。

3年経った今でも好きなお話です。
これを好きだと言ってくれたとうふさんがいたから、今も私は書いていられると思っています。(2021/06/10)


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