風が吹いていた。
頂上は切り立った崖になっていて、たとえここが丘といえど、足下を覗き込めば目も眩むほどに険しかった。
たった今登ってきた道――なだらかな斜面を振り返れば、遙か遠く、フォース湾の入り江までが見渡せた。海は凪いで静止していた。
標高はたかだか800フィートほどだったと、ミタカは事前になにげなく読んだパンフレットの文言を思い出す。
それでも、空が近い。晴れ渡った青空に流れる雲が低い。
崖の先端に立つ彼の赤毛が、強風に煽られる。美しい形の額があらわになった。
丘を覆うヒースの群れも、やわらかな髪と同じリズムで揺れている。ハリエニシダの黄色だけが微動だにしない。
そんな端っこまで行ったら危ないですよ、と、その背に声を掛けようとして、ミタカははっと口を噤む。
黒いコートに身を包み、空に向かって佇む彼の、毅然とした後ろ姿。それは――
「将軍」
弾かれたようにハックスが振り向く。
午後のやさしいクリーム色の陽光が背後から射し、彼の顔は影になった。
「何十年ぶりだ」
影は、懐かしそうに言った。
「すみません、つい」
ゆったりした歩調でこちらに引き返してくるハックスに、ミタカが照れくさそうに謝る。
「別にいいさ。ただ、なんだか夢の中のことのようでな。たしかに、そんなふうに呼ばれていたな、私は」
「今も、そうですよ」
ミタカの答えに、ハックスは怪訝そうに首をかしげる。
「そう、とは」
「だって、ここは玉座でしょう」
ミタカは、先ほどまでハックスが立っていた丘の頂上の、その先端を見遣る。
さっきまで二人の後方ではしゃいでいた、白人女性と黒人男性のカップルが、待ってましたと言わんばかりに自撮りをしていた。二人とも二〇代前半くらいだろうか。原色も鮮やかな、色とりどりのダウンジャケットを身に纏い、すかさずiPhoneを取り出す。天高く突き出したスマートフォンから鳴るカシャリ、カシャリという疑似シャッター音が、エディンバラの丘に響き渡った。
「でも、今、とても貴方に――」
幸せそうに笑いさざめくカップルを眺めながら、ミタカはそこで少し言葉に詰まる。
「――相応しく、見えました」
ハックスが吹き出した。
「私が王の座についたことなど、一度もなかっただろう」
軽くいなすような口調で応じつつ、ハックスがミタカの隣に並ぶ。
しばらく、そうして二人して、入れ替わり立ち替わりやってくる観光客を眺めた。
「あの頃は、銀河を手にしようとしていましたね」
なんてことない事のように、ミタカがつぶやく。
「たいして欲しくもなかったくせにな」
遠い日の小さな失敗のように、ハックスが苦笑いする。
「……あと、少しだったのに」
「それは記憶の改竄だぞ、中尉」
久しぶりに呼ばれた階級は、なんだか他人のような響きで、でもどこか懐かしくもあり、ミタカは困ったような顔になる。
「でも実際、銀河は貴方の掌中にあった。僕はそう思っていますよ」
今からだって。
そう言って、ミタカは晴れやかに笑った。
「貴方のためなら、ここの銀河だって、手に入れて見せますよ、僕は」
僕の王。
僕の主。
それは貴方、ただ一人だから。
参考:アーサーの玉座