第一夜・冬の浜辺
冬の浜辺を歩いていた。
誰もいない。
私は、砂を踏みしめる、歩く。さく、という小気味よい音が、足下で鳴る。
砂浜はゆるく湾曲しながら、はるか先まで続いているようだった。浜の右手に目を遣れば、なだらかな斜面となり、崖へとつながっていた。遠く、赤茶色の岩がむき出しになっているのが見える。土手には枯れた短い草が生え、ときおり風もないのに揺れていた。
海は灰色で、おだやかな波が不規則に──予測できない不可思議な、だが一定のリズムがあるふうに──打ち寄せる以外は、完璧に凪いでいる。
海。
この広大な水場を、いま私はそう呼んだ。本当に海かどうかは、知らない。「これ」は、私の知る海とは、まったく違っている。
分厚く堅い氷に覆われてもいない。灼熱の溶岩がのたうってもいない。かといって、不定形の電離気体が渦巻いているわけでもない。霧だけはわずかに発生しているようだが、視界に難を覚えるほどではなく、薄靄程度だ。
だが、これは「海」なのだと、夢の中の私は知っていた。よくあることだ。だから、今が冬かどうかも本当は知らない。ただ、冬だと感じた。
上空に雲が立ちこめているから、こんな色なのだろうか。と、私はしばし歩みを止めて「海」に見入った。
灰色という描写は正確ではなく、実際にはヒスイのような、微妙な碧色がまじっていた。光が当たればどのような色に見えるのか、想像もつかなかった。
原初の海というものがあるなら、これがそうなのかもしれない。
「違いますよ」
唐突に現れた人影の言葉に、私は驚かなかった。
それよりも、夢特有の閃きに水を差された不快感に、しばし仏頂面になる。
「これは、『地球』と呼ばれる惑星の『海』です」
私の不機嫌など無視して、現れた男の言葉は続いた。
「地球は、ありふれた惑星のひとつに過ぎません。ですからこの海の特長は、個体差程度の」
「中尉。私の夢に」
「残念ながら、それも違います」
人の夢に勝手に現れてどういうつもりだ、という私の抗議は、察しの良い部下にあっさり先回りされてしまった。
「ここは、僕……じゃない、私の夢です」
闖入者はあなたのほうだと、彼は言いたいらしかった。
唐突に隣にいた男の姿に、私は初めて視線を投げる。
彼はいつも通り制服を着ていたが、表情はいつもより穏やかなように見えた。
「夢のなかでも仕事着か」
皮肉を言うと、
「貴方だって」
そう言われて初めて、私は自分が軍服姿であることに気づく。(お馴染みのロングコートまで羽織っていたが、なぜか手袋だけははめていなかった。)
「ふむ。痛み分けだな」
「そもそも争っていません」
「そうか」
「はい」
特に話すこともなかった我々は、やがて、どちらからともなく歩き出した。
しばらく、連れ立って無言で歩いた。
無味乾燥に見えた砂浜には、歩いてみれば、転々と漂着物が打ち上げられていた。
欠けた貝殻。奇妙に捩じ曲がった流木。波に洗われて丸くなった緑色の硝子の破片。
そのどれもに興味を示すのは私だけで、部下は、それが何であるかを、ただ冷静に告げるのみだった。この世界のことなら、彼はなんでも知っているようだった。なるほど、ここは彼の夢なのだろう。誰だって自分の夢のことは、自分がいちばん良く知っている。
ときおり、強めの潮風が吹いた。
枯れたヒース──そう、あの土手に生い茂る植物はヒースといった──が擦れ合う音が、かすかに聞こえる。
波打ち際に近寄り、波を避けて遊んでいると、「足が濡れますよ」とつまらなさそうに注意された。
さく、さく、と、鳴る足音はふたり分だ。
「……あっちに」
「うん?」
急に彼が口を利き、足を洗おうともくろむ波の襲撃から私は我に返る。
「なんだって?」
「あっちに、鯨解体工場があるんです」
私より少し遅れ気味に歩いていた部下を振り返ると、彼はあっち、と言いながら、曖昧な方角を指さしていた。
「鯨? 解体工場?」
「鯨……いや、鯨なのかなあ、あれ……」
先刻までとはうって変わって、要領を得ない。心なしか自信なさげに眉が下がっている。
「浜辺以外にもあるのか、ここ」
意外に思って尋ねると、はい、と彼は頷いた。
「僕、いや、私の知っている鯨とは様子が違うんですが、その、なんていうか──巨大な生き物を解体していたらしい、工場の跡が」
「なんだ。跡か」
不満そうな口調を装ったが、私はその答えに満足していた。
やはりこの世界にあるのは、廃墟でなくては。
「見ます?」
「うん」
頷くと、彼は今日、初めての笑顔を見せた。やはり、ふだんより緩んだ顔をしているな、と私は思った。彼の夢なのだから、まあ当然と言えば当然なのかもしれない。
「こっちです」
なだらかにつづく斜面に向けて踵を返し、彼が案内に立つ。私はあとに続きながら、その背中に声を掛けた。
「ミタカ」
「はい」
「お前の夢ってさ」
そこまで口に出して、私は言い淀む。
「ええ。私の夢が、何です?」
「……いや、いい」
「?」
何ですか、と怪訝そうな顔で振り返る彼に、前を向け、と身振りで示す。
「なんでもない。早く見せろ、その、野獣捕獲工場」
「鯨解体工場です」
「そう、それ」
はやくはやくと追い立てると、部下はあからさまにうんざりした空気を醸し出しながら、歩くスピードを速めた。
ここが終わった世界かと尋ねるほど、私は野暮ではないのだ。
(photo by Bruno Luz on Unsplash)
第一夜・了