第二夜・夜の博物館
濃紺の夜空に貼付いた青白い月が、てらりと黒く鏡面めいた湖に影を落とす。
宙に散らばるまばらな星々の光は弱いが、黒々と聳える針葉樹たちの根元には、ほの白く光る花の大群が咲いていた。出所不明の光源を探して頭を巡らせるが、はたしてそれらしきものも見当たらない。ならば、花それ自体が光っているのかもしれないと、私は座っていた木製のベンチから立ち上がり、咲き乱れる花々のひとつに手を伸ばした。
黒革の手袋に覆われた指先が(おや、いつの間にか私は手袋をしているようだ)、可憐な瓣に触れる寸前、花は音もなく揺れ、浮き上がった。
蝶だった。
そのひとつが飛び立ったのを合図にか、真白く光る無数の蝶たちが羽ばたく。にわかに、あたり一面に光粉がたちこめ、宇宙の暗闇に向けて大地が光りに湧き立った。光っているのは蝶自身ではない。彼らの撒き散らす鱗粉なのだ。
思わず額に手をかざした私は、まばゆさに目を細める。
そのわずかな隙に、蝶たちはあっけなく飛び去っていった。
次の瞬間には、夜が戻っていた。
静まりかえる湖畔の森は、何事もなかったかのようにしんと暗い。
「『ロクス・アモエヌス』」
背後から聞こえた冷静な声に、私はベンチを振り返った。
「この作品のタイトルです」
何の感情も悟らせない凪のような口調で、ミタカ中尉は続けた。
「これも作品か」
「ええ。相変わらず作者の名前は不詳ですが──」
「しかし、死に際の記録だけは律儀に残されている、と。変わった記録を残す博物館だな」
引き取った私の言葉に、ミタカはとくに反対するでもなく頷いた。そしてついと視線を宙に向け、頭の中のデータベースをさぐるような顔を三秒ほど見せた後、
「眼鏡を探し回ったあげく、階段から落ちて死亡したようです」
と淀みなく答えた。
「……ひどいな」
私は万感の思いをこめて返した。そんなみっともない死に様を記録されるのは、私なら嫌だ。
「そうでしょうか」
彼は無表情のまま、小さく首をかしげた。
「ちなみに、作者は眼鏡をかけたことはおろか、視力は生涯を通じて2.0を保っていたとか」
「……尚更ひどい。ないものを探して死ぬなんて」
首を振り、私はふたたびベンチに腰掛けた。
「君の夢は、他者に対する思い遣りに欠けているな」
「はあ」
「《鯨》だって」
誘われるがまま着いていった鯨解体工場の光景を思い出し、私は軽く身震いする。
「あんなもの、クジラなわけないだろう」
「申し訳ありません」
その応答には、少しだけ憮然とした響きがあった。でもクジラなんだから仕方ないじゃないかと言わんばかりの。
「おまけに、凄い臭いもしたし……」
「あれだけ人を喰っていれば、仕方ないかと」
「人って、だって石膏像だろう、あの死体」
廃工場跡に残されていた《鯨》と称される──そして、厄介なことに、私もソレを一目見た途端、鯨に違いないと確信していたのだが、それは黙っておいた──巨大な生物は、干からびて骨だけになっていた。ソレが、そこで何年も掛けて腐っていったことは、周囲に充満する腐敗臭からも明らかだった。
異様だったのは、その遺骸の腹にあたる空洞に、異常な量の石膏像が縷々と積み上げられていたことだ。
どれも成人ほどの大きさをしたその石膏像たちは、ひとつとして完全な形では残っておらず、両脚がなかったり、あるいは片腕がなかったりした。そしてそのどれもに頭部がなく、したがって男女の区別はなかなかつかなかった。
干物の磯臭さに似た強烈な臭気がたちこめる中、得体の知れない巨大生物の骨に抱かれて欠損した肢体をさらけだす夥しい石膏像たちの大群に、私は気圧され、呆然と立ち尽くした。
「とにかく、趣味が悪い」
嘘だった。
私は、その光景に惹かれるものを感じていた。けれどその熱狂はどこか疾しく、彼に悟られることを恐れた私は、ただその場を足早に去った。
決まり悪さが尾を引き、私は自分の不機嫌を止められずにいた。子どもじみた真似と知りつつ、
「中尉の趣味は、悪い」
駄々を捏ねるように繰り返す。
はあ、と間抜けな声が返った。
「なんで、あんなものを私に見せようとしたんだ」
嫌味でしかない私の問いかけに、彼は、さあ、何故でしょうと言うなり、真剣な表情で考え出した。
「貴方はきっと、こういうのがお好きだと思ってしまったんです。でも、なんでそう思ったんだろう……」
ぶつぶつと口の中でつぶやきながら、少し唇をとがらせ、彼はそのまま物思いに沈んでいった。
眉根を寄せて考えるミタカは、どこか気怠そうでもあり、私という異物が夢に紛れてしまって彼なりに疲弊しているのかも知れないと思った私は、少しだけ申し訳ない気持ちになる。
何故、私は彼の夢にいるのだろうか。
「……夢は不思議です。その時には確信しているのに、後から思い返すと、何故そう思ったか、まったく根拠がない。……なんだか、あそこが鯨解体工場かどうかも、自信がなくなってきました」
「それを言うなら、ここだって博物館には見えない」
我々が今いる湖は、実際は建物の中にあった。
この満天の星空は確かに本物なのだが、紛れもなく建物の内部でもある。
海岸沿いのだだっ広い荒れ地に、点々と残された古い石積みの壁。
それらに囲まれるようにして、《博物館》はあった。
古典的で麗々しい装飾が施された美術棟と、近代的な直線で構成されたコンクリート製建造物の博物棟の二棟が存在する。敷地面積はあまりに広く、ミタカ曰く「15エーカー以上あるみたいです」とのことだった。
夜の博物館にはまったく人気はなかった。にもかかわらず、先刻その前を通った守衛室には煌々と電灯が点り、つい先ほどまで人が詰めていた気配が濃厚に漂っていた。
何気なく窓を覗き込みんだ私は、机に置かれたコーヒーマグから湯気が立ち上っているのを見、何故かギクリとした。
「あれ」
いつの間にか背後から同様に覗き込んでいたミタカの声がすぐ後ろで聞こえ、私は不本意ながら小さな悲鳴をあげた。
「ここには、僕……じゃない、私たち以外、いないはずなんですが」
叫んだ私を気にした風でもなく、ミタカはのんびりと不思議がった。
「おかしいなあ」
「い、いきなり上司に接近するな、無礼者!」
恥ずかしいやら情けないやらで動揺し、思わず怒鳴りつけると、
「おや、失礼しました」
彼はあっさり身を引いた。
その不遜なまでの自然さに、妙な安堵を覚えている自分に気づき、私は戸惑う。ミタカ中尉は、現実でもこんな人間だったのだろうか。
そして不意に思い至る。
私は、彼のことを何一つ知らない。
(Photo by Museums Victoria on Unsplash)
第二夜・了