[寺AU][phelmitage] 雨と七夕

!注意! 特殊設定の現代AUです。ご了承のうえお読みください。

雨と七夕

 なんでそんな約束をしたかと言うと先週たまたま橋の上を通りかかったら夕陽でオレンジに染まった長閑な川原の土手に塾長がいたからで、びっくりして棒立ちになっている僕を遠目からめざとく見つけた彼に手招きされて、僕はそこまで下りていった。彼は近くの(あの高そうな)マンションに住んでいて、日曜の夕方はたまにこうして夕陽を眺めて土手に座って缶ビール飲んでVAPE吸ってるんだそうだ。善良そうな人たちから胡散臭そうな視線浴びせられると妙に落ち着くんだよなと真顔で言って、彼はグリセリンを加熱した蒸気をまずそうに吸い、吐き出した。煙はあんまり出ていなかったが、ちょっとエクトプラズムみたいで、こりゃ不審がられるだろうなと僕は思った。かすかにキャラメルとバーボンの混ざったような甘くて男くさい香りが漂った。その香りに軽く混乱したせいだと思うけど、塾長来週もここ来ますかと僕は訊いていた。来週って七夕だなと塾長は答えた。雨降らなきゃいるんじゃないの。そうですか、と答えた僕の持つスーパーのビニール袋からはサザエさんよろしく青ネギの頭がぴょっこり飛び出していた。
 思い出してみるとぜんぜん約束じゃない。
 そもそも雨降ってるし。土砂降りだし。さっきから通りには犬を散歩させてる人すらいない。子どもの頃、捨て猫とかやけにデカいBB弾の欠片とか表紙がちぎれかけたエロ漫画とか、唐突に現れた物が気になって、それが拾われたり片付けられたり、とにかくそこからなくなるまで、存在を確認せずにはおれなかった。特に何故だか雨の日はそれが気になって気になって、回り道までして見に行ってた。今日がもう日常に戻ってしまったのか、そうじゃないのか、確かめたかった。雨水が流れるコンクリの側溝にへばりついた二色刷ロリコン雑誌は、いま僕がいる世界がどっち側なのかの目印だった。
 唐突に雨足が強まる。
 アスファルトに跳ね返る飛沫で視界が白くなる。ザアアアという音がいっそう激しくなり、ビニール傘を持つ手が雨の粒を感じる。腕に掛かる負荷が増す。これじゃ土砂降りというよりゲリラ豪雨だ。側溝の下からはごうごうという不吉な音が響いている。そういえば、最近では捨てられたエロ本というアイテムそのものがレアらしい。
 仕事中とおぼしきスーツ姿の男とすれ違う。傘もささずにまっすぐ背筋を伸ばして歩いていた。やけくそなのかもしれない。雨で満遍なく濡れたスーツは艶々していて綺麗だが、着心地が良さそうには見えなかった。僕のジーンズも膝から下は濡れぞうきんみたいに冷たくて重くてごわごわしている。薄手の灰色のパーカーは肩口と袖口が濡れて濃い鼠色になっている。雨合羽着てくればよかったかな、橋を渡りきったところにコンビニがあったから、帰りは買って帰ろうか。でも、あの人が使うコンビニに、こんな惨めな格好で入るの恥ずかしいな。万が一彼に会ってしまって、しかも彼が約束のことなんか忘れていたら──。
 気が重くなりかけた頃にようやく橋が見えてきて、ついでに下を流れる川を覗きこむと水量は思ったほど増えていないけど、色は濁って茶色かった。うわあ、こんなときに川原に降りたら危ないなと素朴に考えて吃驚した。そんな危ない場所に、待ち人がいるかと期待していたなんて。自分の盲目っぷりを別の角度からいきなり見せつけられて、さすがにショックで足が止まった。川原なんか行くまでもない。いるはずがない。大体、あの人は「雨が降らなかったらいる」と言ったのだ。つまり、「雨が降ったらいない」。
 橋の真ん中あたりで立ち尽くした。
 一体、僕はどうしてしまったんだろうか。
 周りをよく見てみろ。人どころか、車さえ通らない。大雨で、空は不気味な暗い雲が低く垂れ込めていて、アスファルトが白く霞むほど雨が叩きつけられていて、ビニール傘なんか意味がないほど僕は全身ずぶ濡れで。
 呆然としたまま、ゆっくり傘を下ろす。橋の終わりが見えない。あの川原に降りる道はどこにも見当たらない。
 非日常かどうかは、確かめるまでもなかった。
 帰ろう。
 そう決心したとき、ふと遠くから誰かがやって来るのが見えた。一瞬、それは僕の期待が見せた幻なのかと思ったほど現実感がなく、けれど彼は当たり前みたいな顔をして橋の中央で立ちすくむ僕のところまで走ってきて、言った。
「やっぱり、来たな」
 塾長だった。
 傘をさしていなくて、ずぶ濡れだった。
「塾長」
 見ればわかることをつぶやいた僕を笑いもせず、手に提げた僕のビニール傘をちらりと見て、塾長は続けた。
「河岸、変えるぞ」
 そして、黙って橋の向こうを指差す。彼の指の示す先には幻みたいに浮かび上がるコンビニがあって、さらにその上をたどると、高級そうなマンションがあった。
「私の部屋だ」
「あの、でも」
 僕は戸惑う。
「今日、雨なのに」
 約束とは、違うのに。
「それなのに、僕、来ちゃって」
 俯く僕に、塾長はうーん、と唸った。
「まあ、いいんじゃないか」
 ここ、地上だしな、と彼。
「来たければ来られるからな。──来たかったんだろ?」
 問いかけられて、僕は少し考える。
 そして、ゆっくり頷いた。
「はい」
 うん、じゃあ行くぞ、と言うと、彼はくるりと背を向けて、先に立って歩き出した。
 その後を追う。
 背の高い塾長の赤毛頭は、白黒に霞む世界を先導する、なにかの目印みたいだった。