キラーズ(3)

3.

  携帯電話に表示されたメッセージには、「4-13」とだけ記されていた。画面をもういちど眺め、レンは静かに歩みを止める。
 安ホテルのフロントには恐ろしく太った人間がブースいっぱいに詰め込まれていた。
 彼(もしくは彼女)は運良く居眠りをしていた。
 薄暗い蛍光灯が明滅する螺旋階段を駆け上がり、四階を目指す。
 安香水と安酒、人間の排泄物の匂い。ムッとした熱気とともに胸の悪くなる悪臭が立ちこめる廊下には、どこからともなく響いてくる甲高い声たちが奇妙に反響していた。ベッドの軋む音、肉と肉のぶつかり合う音、あられもない喘ぎ声、悲鳴。知りたくもない人間の営みが垂れ流される様に、レンは顔を顰める。
 目的の部屋は、廊下のなかほどにあった。そのドアが小さく開いているのを見て、彼の顰め面はいっそうひどくなった。これは、相棒が後から入ってきやすいようにするための心遣いなどではない。悪意だ。
 部屋の中の様子をそっと窺う。
 なんの音もしない。とすると、もう用事は済んだのだろう。そのことに、ほんの少しだけ安堵する。もう五分も早ければ、廊下に流れる、いつのどうしようもなく下品な嬌声を聞かされる羽目になっていたはずだ。その為に開け放たれたドアなのだから。
 油断のない目つきで周囲を見回し、レンは素早く扉の中に身を滑り込ませた。

  部屋に入ってまず目に付いたのは、恋人(アーミテイジ)の姿だった。
 赤いスリップドレスの残骸とソックスガーターだけを身に纏い、ぺたりと床に座り込んでいる。彼は、ぐったりと項垂れていた。
「アーミテイジ」
 慌てて駆け寄る。正面に回り込むと、真っ白な胸元に大量の血がべっとりとこびりついているのが見え、レンの血の気が引く。俯いているせいで、表情が陰になって見えない。顎をくいと持ち上げると、つくりものめいて白い顔が現れた。唇の端が切れ、血が滲んでいる。
 月の光の中でその美しさは、人形のようにも、死体のようにも見えた。
「おい、何があった。しっかりしろ!」
 肩を掴んで揺さぶる。アーミテイジの瞼がぱちりと開いた。
 夢見るような、陶酔にたゆたう翠の瞳がとろりとレンを見る。快感の余韻にどっぷりと浸かりきった淫蕩な笑みが、ふわりと浮かんで消えた。
 彼の手首に目を落とせば、縛られた赤黒い痕がくっきりと浮かび上がっていた。
 レンは安堵の溜め息をつく。
 どうやら、彼は今夜の、〝狩り〟を存分に楽しんだらしい。
 同時に、嫌な予感を覚えた。この陶酔した表情は、〝やってはいけないこと〟をやったときのだ。つまり――
「まさか!」
 勢いよく振り向くと、薄暗い部屋の隅に置かれたベッドが目に付いた。粗末で不潔なパイプ製のそれに、ゆっくりと近づく。
 バーでアーミティジが引っ掛けた、あの小太りの中年男が寝ている。
 小さな窓から射し込むほのかな月明かりを頼りに恐る恐る覗き込み、レンは声にならぬ声で悪態をついた。
「畜生!」
 男は、寝てなどいなかった。
 喉をざっくりと切り裂かれ、死んでいた。綺麗に一直線に走る傷口からは、赤黒い内部が露出している。その目は大きく見開かれ、まるで口をきこうとして間違って喉を開いてしまい、驚いているかのように見えた。
「お前が乱暴にヤッてくれないからだ」
 不意に背後から声がして、レンは振り返る。
 悦楽の余韻からめざめたアーミティジが、へらへらと笑いながら立ち上がり、壁にもたれかかりこちらを眺めていた。
「こんな醜男、俺だってイヤなのに」
 レンが悪いと言わんばかりの責めるような口調だ。
「あんた、何をした」
 怒りを抑えながらレンが訊ねる。
「口で。あと生で何回か。ベルトで縛られて、それから――」
 嬉々として己が繰り広げた痴態を語ろうとするアーミテイジを思わず張り飛ばそうと手を挙げ、レンはすんでのところで思いとどまる。アーミティジは一瞬自らを庇う仕草を見せたあと、すぐに不適そうな笑みを浮かべてレンを見返した。その鋭い眼差しから、レンは目を逸らす。彼の言葉を聞いて胸に灯った昏い欲情の火を悟られまいと、無表情を取り繕ったが、アーミティジはすべてを見抜いたかのように、嬉しそうにうっそりと嗤った。
「証拠が残るから、コンドームを使えとあれほど」
 忌々しさと羞恥で、レンは苦々しく口を濁す。
「〝コンドーム〟」
 馬鹿にしたようにレンの言葉を鸚鵡返しにして、アーミティジは死体の横たわるベッドの足元に腰掛けた。ぎい、とスプリングが軋む。
「お前だって、使わないくせに」
「それは、あんたが使わせないからだ。大体、足が着くだけじゃない。病気にでもなったら……」
 何だってこんな建前を訴えているのだろう。よりにもよって、アーミテイジ(この男) に。
 お定まりの押し問答を繰り返す自分に嫌気が差す。語尾を濁したレンの心を見透かすように、アーミテイジはレンの言葉を引き取った。
「――お前にも伝染ることになるな。なあ、それって興奮しないか?」
 事もなげに言い放つ彼の目は、どこか面白がるようにレンを観察している。
「俺を乱暴に抱いた男の病気が、俺を介してお前に伝わる。……なんかエロいよな?」
「真面目な話をしてるんだぞ! これでまた、町を移るしか手立てがなくなった。金はどうする?」
「どうでもいい」
 かわいらしく唇を尖らせ、アーミティジはわざとらしく伸びをした。そして勢いよくベッドから立ち上がると、レンに飛びついてきた。首に腕を回しぶら下がるようにしながら、彼は甘えた声でベッドの上を指さす。
「なあ、それより、今夜の作品をちゃんと見てくれよ」
 男の顔色は、バーで見たときよりだいぶ青黒くなっていた。
 景気よく掻き切られた頸動脈からは、既に相当量の血が流れ出たのだろう。
 勢いは弱まっているが、それでもまだどす黒い血が間欠的に弱々しく噴き出している。血の帯は男の身体をぐっしょりと濡らし、シーツを染め、マットレスまで浸透している。
 ベッドの足元には、枕がひとつ転がっていた。おそらく殺したときにあてがったのだろう、たっぷりと血を吸って真っ赤に染まったそれは、ベッド下に申し訳程度に敷かれたカーペットをべったりと汚していた。
 これで、殺人の痕跡を消すことはかなり難しくなった。
「血が出る殺り方はやめろと、あれほど言ったのに。あんた、何のために殺すんだ」
 諦めまじりでぼやくと、アーミテイジはキッとこちらを睨んだ。
「屑を掃除しているだけだ」
「屑、ね」
 皮肉げにレンは口元を歪ませる。今度は彼が反撃に出る番だった。
「自分を汚した男を殺すのは、そりゃあ楽しいだろうな」
「何が言いたい」
 仄めかしに満ちたレンの言葉に、アーミティジが気色ばむ。さっきまでの楽しそうな表情はすっかり消え失せ、激情家の本性も露わに唇を震わせる。
 レンがせせら嗤った。
「自分から汚せと懇願しておいて、それに従った男を蔑む。いつまでこんな下らないマッチポンプを続けるつもりだ?」
「……懇願なんか、してない」
 レンの思わぬ反撃に、アーミティジが戸惑ったように言い返す。しかし、その反論は弱々しい。
 廊下で酔っ払いが喚き散らし、別の誰かが酒瓶を投げた。ガラスの砕け散る音に続いて、罵り合う男たちの胴間声。娼婦があんたら出て行けとヒステリックな金切り声を上げる。
「あ、アイツらは、クソだ。俺のことをセックスの道具としか見てない、頭も心も空っぽな、汚い欲望塗れの――」
「セックスの道具?」
 レンは一蹴する。
「あんた自ら股を開いて誘い込んでいるだけだろう」
「お前、いい加減にしないと……」
「いい加減にするのはあんただ!」
 唐突に、レンは怒りを爆発させた。
 もうたくさんだった。
 盗みも。
 美人局も。
 不実で自堕落な恋人も。
 酒と汚物と精液の匂いに満ちたクソみたいなモーテルも、喉を切り裂かれた血まみれの死体も。
 何もかも、うんざりだった。
「いいか、よく聞け! あんたは、身勝手なクソ野郎だ! 愛して欲しくてたまらないくせに、愛されるのが怖いからって、相手を蔑んで!」
 怒りを爆発させるレンにたじろぎ、やがてアーミテイジも負けじと声を張り上げる。
「だったら、俺を置いて逃げればいいだろう! お前について来いなどと頼んだ覚えはない! 呼べよ、警察でも何でも。ここに殺人犯がいる、殺したのはこいつだってな!」
「よせ、大きな声を出すな」
 慌てたレンが、アーミテイジの口を塞ごうと掴み掛かる。アーミティジは遮二無二もがきながらレンの手から逃れ、窓を開け放って大声で叫んだ。
「殺人だ! 男が死んでる!」
「やめろって言ってるだろう!」
 窓の外へ乗り出すようにしていたアーミティジの肩を掴んで引き戻す。しかし彼は黙らない。なおもこちらを睨み付けながら「人殺しだ!」と叫ぶアーミティジの横面を、レンは思わず張り飛ばした。床に倒れ込んだアーミティジは驚愕に目を瞠り、やがて死んだように押し黙った。
「……もう、終わりだ」
 肩で息をしながら、レンが低くつぶやく。
「その言葉に、弾かれたようにアーミティジが顔を上げた。さっきまで怒りを漲らせていたとは思えない不安げな表情でレンを見る。
「何だと?」
「もう、疲れた。あんたは何も変わらない。俺は、俺はもう――」
  を掻き毟り苦悩するレンを、アーミテイジは呆然と見上げた。
「何を……言ってる?」
「一緒にいれば、少しは変わるかと思った。けど、そんなのは間違いだ。俺の思い上がりだった」
「待て。レン」
「俺は下りるよ。このままじゃ、俺だけじゃない、あんただって……」
「お前は、俺がいなくちゃ生きていけない。……だろう?」
 どうやらレンが本気で言っているらしいと察したアーミテイジは、急におろおろと戸惑い始める。卑屈な笑みを浮かべた恋人を、レンは冷たく見下ろした。
 出会った頃は、なんて美しい男だろうと思った。こんな美しい生き物が、この世界にいるのか、と。
「なあ、レン」
 膝立ちでにじり寄り、アーミティジがレンの膝に手をかける。
「してやるよ……お前の好きなやつ。な?」
 必死にファスナーに手を伸ばす彼の手を、レンはそっと押しとどめる。
「そんなこと、しなくていい」
 だが、今はどうだろう。
 歪んで、臆病で。
 ただの貧相な、卑しい犯罪者じゃないか。
「なんで……」
 アーミテイジの顔が泣きそうに歪む。
 その顔を見て、レンも無性に泣きたくなる。
「要らない。俺の欲しいのは、そんなんじゃないんだ」
「じゃあ、何が」
「あんただ。あんた、そのものだ」
 自分の前に跪く男に、レンは懇願するように膝を折った。
「頼む。もう、こんなことやめよう。俺たちは普通に幸せになれるはずだ。俺、あんたを養うよ。二人で家を買おう。そして――」
  かしその言葉を聞いた途端、さっきまでレンに取り縋らんばかりだったアーミティジの瞳が暗く翳った。低い声で言った。
「……俺を、縛るのか」
「縛らない。あんたが本当に俺を必要としてくれるなら、俺は、あんたと、どこまでだって一緒に行くよ。あんたの為ならなんだってする」
「……そうやって、俺と同化しようとする」
「だけど、これは違う。こんなのはダメだ」
「気持ちの悪いヤツだ」
「何だって?」
「……気持ちが悪いって言ったんだよ!」