夜に



 朝、めざめると隣にいるはずの日常が消えていた。
 日常は、日常ではなかった。わかっているつもりだった。
 そして、この世のすべてを理解したようなふりをする自身の愚かささえ、わかっているつもりでいた。けれど、こんな小さな喪失にたじろいだ。失意に似た感情が胸裡にくすぶっている。その事実にまた、たじろぐ。
 何のことはない、俺は思ってる以上に阿呆だったか、と尾形はぽかんとした顔で考えた。
 日常の名は、月島と言った。

 *

 話は、半月ほど前に遡る。
 兵営で、下着が盗まれる椿事が起きた。盗まれたのは新兵の下履き数枚だったらしい。「だから何だ」という事件だし、実際「どうせ犬か猫が玩具にしたのだろう」と笑う者が大半を占めていた。それなのに、どうした弾みか騒ぎが上層に届いたらしい。話は大きくなり、ついには物干場に深夜の見張りを立てるなどというくだらない事態にまで発展した。
 一体なぜ、と皆は訝しんだが、見張りに指名された名前を見て、すべては了解された。白羽の矢が立ったのは新兵などではなく、古参も古参、月島軍曹と尾形二等卒の二人だったのだ。
 つまりは、鶴見一派への嫌がらせ、上層部の派閥争いというわけだ。

 そんなこんなで、尾形と月島は、深夜の倉庫に突っ立っていた。
 物干場の向かいに置かれた倉庫は、どちらかといえば納屋に近く、狭く、埃っぽく、おまけに黴くさかった。春とはいえ小樽の夜は底冷えする。襟元から忍び込む冷気を遮断するようにぎゅっと首を竦め、尾形は物置の窓辺に立つ月島の横顔を盗み見る。律儀にも窓の向こうの暗がりに目を凝らしているようだ。呼吸に合わせて、白い呼気が規則正しく立ち上る。
 相棒がこの堅物では、からかいがいもない。
 げんに尾形は、月島と顔を合わせるなり「こんなクソ命令」は放り出そう、と提案してみた。思ったとおりの渋い顔を返されただけで終わった。
 縛られることが大嫌いな尾形とは対照的に、月島は杓子定規な軍人気質だ。だが月島と尾形の付き合いはそれなりに長く、つかみどころのない尾形の言動には月島も慣れていた。鶴見の元に集っているという一種の気安さもあったのか、人目のない場であれば多少気安い態度で接しても、怒ることは滅多になくなっていた。もっとも尾形に言わせれば、月島が怒らないのは、「怒るのが面倒だから」だった。
 その夜、尾形が顔色一つ変えずに「クソ命令」と口にしたとき、確かに月島は文句をつけないどころか苦笑した。ふだん感情を表に出さない彼にしてはめずらしいことで、月島自身もこの命令が理不尽だと感じていた証だろう。それでも結局は淡々と任務をこなしているのは、彼の性情というよりは、ただでさえ悪目立ちしている鶴見派がこれ以上目立つのを嫌ったためかもしれなかった。
「来ますかねェ、ドロボウ」
 退屈に耐えかね、尾形は月島の背中に雑談を仕掛けてみる。だが、
「それを見張るんだろ」
 すげない返事で会話は途切れた。
 ──つまらん。
 くあァと欠伸を噛み殺し、尾形は月島とは反対側の窓に目をやった。遠く、兵舎の灯りがぽろぽろとこぼれている。かすかに人の気配もする。闇に沈んだ倉庫で立ち尽くす無聊の我が身が恨めしくなる。
「眠いですな」
「寝るんなら、先に寝てかまわんぞ」
 けんもほろろの対応に、尾形の臍が曲がった。
「そんじゃ」
 お言葉に甘えて、と腰を浮かした。返答を曲解して、兵舎に帰ってやろうと思ったのだ。
 とたんに、ずんと身体が重くなる。
「……」
 見れば、月島が尾形の右腕をふん捕まえていた。威嚇の念をこめて尾形はその左手を凝視する。月島はこちらを見もしない。えいと腕を引いてみるも、自分の腕かと疑いたくなるほど、びくともしなかった。岩の下敷きにでもなったようだ。
 脱出失敗だ。
 尾形は作戦を変更し、哀れっぽい声を出した。
「班長殿。俺は温かい所の生まれで、寒いのは苦手でして。こんな倉庫じゃ寝られやしません」
「俺だって寒い。それにお前、育ちは茨城だろうが」
 必要最低限の言葉しか返さない月島に、尾形は苛立った。殴られないだけマシと知りつつ、いつまでも自分を捉えている太い腕が苛立ちに拍車をかける。
 ──もうちょっと面白いこと言えねェのか、この堅物は。
 胸中でだけ罵倒し、尾形はむっと黙り込んだ。その夜、二人の会話はそれきりになった。
 馬鹿正直に直立している上官を差し置き、尾形は地面にうずくまって眠った。が、まったくもって眠れず、まどろみさえ訪れぬうちに交代の時間が来た。
 盗人は現れなかった。

 翌日、翌々日も似たような塩梅だった。尾形の軽口に月島は乗らず、黙って交代で眠る。盗人どころか、深夜の物干場は猫の子一匹現れない。最早そんなお達しが出ていたことさえ忘れられているような気配もあった。単なる鶴見への嫌がらせなのだから、ありそうなことだ。
「お前、いいかげん眠ったらどうだ」
 そんな日が五日ほどもつづいたある晩、不意に月島が言った。
 いつものように上官に先んじて尾形が眠ろうと床にうずくまった、その矢先だった。
 眠れていないことはとっくにバレているだろうとは思っていたが、言外に「そのままじゃ倒れるだろう」という気遣いが滲んだその声音を、尾形は意外に感じた。
「はあ」
 それで、尾形にしては胡乱な返事になった。
「俺は寒いのが──」
「尾形」
 月島の真顔が、床に座り込む尾形のほうにちらと向き、すぐに逸れる。たったひとつの表情で月島はそれなりに多彩な情報を伝える。たいていは「うんざりだ」「黙れ」「面倒くさい」のどれかだが、今のは「いい加減にしろ」と言ったところだろうか。そろそろ本当に殴られるかもしれん、と経験で察知した尾形は、ここらで従順さを見せる道を選ぶことにした。
「真面目な話です」
 また顔がこちらに向いた。先刻より二秒ほど長かった。尾形も月島を見上げながら、真顔で続けた。
「時期のせいです。今時分は、どうやったって寝付きがひどく悪くなる。その上こう寒くちゃあ、眠れたもんじゃねェ」
 尾形にしてはめずらしく、一点の曇りも、裏もない事実だった。
 弟の命を散らしたのがこの時期だ。月島も知っている。
 自分でもどうしようもないほど、この候は眠りが浅くなった。必要なのは温度と質量で、さらにあけすけに言えば人肌が恋しいのだった。
 だが、それを月島に伝えたところでどうにもならない。堅物の軍曹が猥談に付き合っているところなど見たことがないし、尾形の感じている恋しさは、猥談なぞより余程生々しい、傷に触れる何かだ。他人に求めたところで埋まるようなものでもないし、求めたくもなかった。
「人には言わんでくださいよ」
 口元をゆがめて笑い顔をつくる。
 たったそれだけで、月島は尾形の言わんとすることを理解したらしかった。
 かすかに頷き、暗い顔をしてむすりと黙り込んだ。
 そして、おもむろに床に座り込んだ。
「……あれ」
 同じ目線になった月島に、見張りは良いのかと尾形は目顔で尋ねる。月島はぶっきらぼうに答えた。
「さすがに、俺も忍耐の限界だ。──ったく、何が下着泥棒の見張りだ。馬鹿馬鹿しい」
「へェ」
 大儀そうに肩を回す月島を、尾形は珍しい者でも見るようにじっと見つめた。
「じゃあ、こういうのはどうです」
 提案したのは、ふと思いついただけの気まぐれだった。それが冗談だったのか本気だったのか、尾形自身もいまいち把握していなかった。
「一緒に寝ましょう」
 長い沈黙。
 暗くて埃っぽい倉庫の床に、かすかな月明かりが落ちている。
 二人のあいだで、白い息だけが何度も現れては消えた。
 先に折れたのは、月島のほうだった。
「何、だと?」
「早い話が、あんたで暖を取らせて欲しいんです」
 真顔で答えた尾形に、月島も真顔を返した。そこには「気でも狂ったのか」と書いてあった。尾形は快活に笑った。
「ああ、違います、違います。勿論背中合わせでお願いします。あんたのその怖ェ顔が正面にあったんじゃあ、眠るどころじゃないです。第一、気味が悪い」
 沈黙。
 背中合わせなら気味悪くないのか、と言いたげな真顔。
 ──この男の無言芸は、一級品だな。
 曲芸か演し物でも見ているようだと、尾形は妙に感心した。
「いいえ。背中合わせの方がマシってだけです。努々勘違いなさらぬよう」
「……それなら、安心した」
 安心だと?
 尾形は内心で吹き出す。あいもかわらず言葉の選択が下手くそな男だ。笑い声を立てぬように、尾形はわざと無遠慮に月島の背中に寄り掛かった。
 筋肉のある人間は体温も高いと聞いたことがある。その言葉どおり月島の背は温く、その夜、尾形はぐっすり眠った。夢も見なかった。
 見張りの交代時刻になっても起きてこない尾形を、月島は起こさなかった。

 次の晩、やはり律儀に定刻どおり現れた月島の手には、布に包まれた何かが握られていた。
「使え」
 目の前に差し出された手のひら大の布包みを尾形はただ見つめる。典型的な青海波紋様の、洗いざらしの手ぬぐいだ。
「何です、これ」
「湯たんぽだ」
 携行型の湯たんぽを見つけたのだと、月島は言った。
「お前の話で思い出した。湯を入れてみたが、それなりに温かい」
 そう言いながら、なおも布包みを差し出してくる。尾形がしぶしぶ手を出すと、あんがいしっかりした重さの包みはたしかにほんのりと温かった。布をわずかにめくってみる。中に、魚の形の金属が見えた。童っぱの喜びそうな、いかにも間の抜けたツラだ。
「……魚ですか」
「俺の趣味じゃない」
 もらいもんだからな、と皆まで言わせなかった月島の表情はいつものとおり無表情だ。だが、すこしだけ早口だった。照れくさかったのかもしれない。
 魚。猫。山猫。
 べつに月島に他意があるなどとは、尾形だって思っていなかった。
 それでも尾形は、いつの間にか手の中の魚をぎゅうと握り締めていた。疑惑をさりげなく口にしてみたのは、月島を試すような思いが心のどこかにあったからかもしれない。
「魚といえば、猫ですな」
「関係ない」
 月島は素早く答えた。彼の言葉はよどみなく、口調は強かった。おもわず尾形が目線を上げると、月島は睨みつけるように、尾形を真正面から見据えていた。
「貴様は、尾形百之助だ」
「はあ」
 胸の裡の小狡さを見透かされた気がして、尾形はぷいと横を向く。
 拗ねたように答えた。
「おっしゃるとおり、俺は尾形百之助です」
 そしてあんたは月島基ですね、と声には出さずにおもう。尾形は月島に背を向けた。上官に対する態度ではなかった。だが月島は怒らなかった。
「ありがたく、お借りします」
 これがあれば、あんたに頼る必要もない、と言おうとしたが、先に月島が言葉を繋いだ。
「二箇所あれば、充分な暖が取れる」
「はあ。え、二箇所?」
「そいつは手先に使え」
 手先の冷えが一番ひどいと、確かに昨夜、尾形は訴えた。自分でもすっかり忘れていた。
「だがな、尾形。手先が冷えるってのは、筋肉が足りん証拠だろう。狙撃のためだけじゃなく、もう少し全体的にだな──」
 言いながら、月島は定位置に腰を下ろす。尾形に向けて、ほら来いとばかりに自分の背後を顎でしゃくる。
「俺は、あんたと違って繊細ってだけですよ。あんたこそ、筋肉で物を考えるのをやめたらどうです」
 尾形も、平然とした顔をしながら月島と背中合わせに腰を下ろした。酒でも入ったようにふわふわしていた。自分がとんでもなく無礼なことを口走っているなと他人事のようにおもった。これはことによると拳ではなく、蹴りを食らうもしれない。
「……あんまり調子に乗るなよ」
 しかし、不機嫌そうに返した月島は寄りかかる尾形をはね除けない。彼の背中は笑っていた。
「季節外れの蝉でもやらせますか。なかなか上手いですよ、俺」
「馬鹿を言え、他の奴らが起こす気か」
 男の背中など、ごつごつして気持ちのいいもんじゃない。
 月島の低い笑いにあわせて動く熱を意識する。
 尾形はその夜、それまでで一番おだやかな眠りに落ちた。

 小魚型のゆたんぽと月島の背中は、尾形の不眠に劇的な効果をもたらした。
 一度など、いっそ月島ごと兵舎に持ち帰れないだろうかと夢うつつで検討している自分に気がつき、妙な声をあげて起きたこともあった。とつぜん叫んだ尾形に月島はまったく驚かず、ただ「起きたんなら交代しろ」と言った。尾形が見張りを交代するのは、数日に一回程度だった。

 そんな日が、さらに一週間ほど続いた。

 *

 そして今朝。
 倉庫で目ざめた尾形の横に、月島はいなかった。
 腑に落ちぬまま兵舎に戻り、納得した。
 警戒を解く旨が掲示されていた。忘れていたのを思い出された、というのが正解だろう。
 尾形のささやかな非日常な日常は、そうしてあっさり終わった。
 不眠の時期も終わりを告げ、尾形はすぐに元の日常に戻った。

 *
 
 この話には、小さな続きがある。
 謎の見張り役から数ヶ月が過ぎた日の晩、尾形はぐうぜん月島と風呂ですれ違った。
 はたと思い出し、魚を返していない、と言うと、月島は無表情のまま、お前にやると言った。
 その短い会話の脇を「山猫」「猫が風呂で」という、聞こえるか聞こえないかの嘲笑が通り過ぎていく。尾形は聞こえないフリをした。月島は気づいているのかいないのか、まったく読めない無表情で尾形を見ていた。
「それじゃあ、ありがたく頂きます」
 そう言って辞去しようとした尾形の背に、月島の声が飛んだ。
「尾形百之助」
 尾形が振り返る。
「お前は、尾形百之助だ」
「……もしかしてボケました?」
 尾形の答えににこりともせず、月島は去った。
 去って行く月島の無骨な後ろ姿をながめる。尾形の背中が、じんわり熱を帯びた。
「成る程ねェ」
 尾形はひとり呟いていた。
 ──あのたらしが、手放さんわけだ。
「にしたって、さすがに芸がねぇでしょうよ」
 己の名を連呼することしかできない月島の不器用さを思う。
 そして晴れ晴れと夜に笑った。


(了)


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