世界の終わりの超新星(仮)

1-1.

 尾形が勤めるバーには幽霊が出る。
 幽霊というだけあって、かなり陰気な見た目をしている。おそらくは女だろう。長い黒髪を胸までぞろりと垂らし、薄汚れた白いワンピースを着ている。あまりにも典型的な見た目は滑稽に感じられるかもしれない。だが、袖口からのぞく腕は青と白と黄土色が出鱈目に入り交じった気色悪い色をしており、つねに俯いて陰になっている顔は、どんな角度からでも絶対に見えることがなかった(もしかしたら顔などないのかもしれないと尾形はずっと疑っている)。あきらかにこの世のものではない。死者という存在の特異さは、ステレオタイプの可笑しみなど簡単に覆せるほど異常で、見る者を落ち着かなくさせた。
 たいていは、店の入り口のドア脇に立っている。無口だ。すくなくとも尾形は声を聞いたことがない。まれに、手洗いや、バーカウンターと酒棚の隙間にも現れた。当然、その姿を見る客がいる。彼らが恐怖に叫んだり、腰を抜かしたりするたび、尾形は「ああ、すみません。たまにね」と言葉を濁し、曖昧に微笑んで誤魔化した。店のオーナーから指示された対応だった。そうすれば皆黙るから、何も答えるな、と。じっさい、ふだん無表情な尾形が、そういうときにかぎって猫のような瞳をスッと細めて笑ってみせると、皆なぜか勝手に納得したような表情になり、それ以上尋ねるのを止めてしまった。もっとも、あれはなんだと問われたところで、尾形だって知らないのだから答えようもなかったのだが。
 彼女は、幽霊のくせに物理にも干渉した。月に数本、安いボトルを落として割る。尾形は、その行為を内心でひそかに「癇癪」と呼んでいた。理由も述べずに狼藉をはたらくのは、癇癪以外のなにものでもないというのが、尾形の持論だった。彼女の癇癪によって被った損害は、あいつがやったと申告すればオーナーはそのまま信じたから、雇われバーテンの尾形にとっては特に痛くも痒くもなかった。だが、他人の都合で引き起こされる面倒事の後始末を引き受けるのは、かなりうんざりだった。人間が好きではない尾形にとって、目の前にいる者が生きていようが死んでいようが、それはたいした違いではない。目に余る邪魔をするなら排除を考えるが、そうでないなら、いないのと同じだ。幽霊は鬱陶しくはあるが存在を許せないほどでもなく、ようするに尾形は、職場に出現するあからさまな怪異など、これっぽっちも気に掛けない男だった。
 現に今日も幽霊は出現しているが、尾形は通常運転でバーテンダーの業務を遂行していた。
 狭く細い長屋型の小さなバーは、市ヶ谷と飯田橋のちょうど中間あたりに位置している。すこし奥まった路地のつきあたりにあるせいで、たとえ金曜の夜でも満員御礼とはなかなかいかないのが常だった。おまけに今日は雨だから、暇になることを尾形は期待していた。
 だが今、店内には四名もの客がいる。
 つまり、ほぼ満席である。
 男性一名、女性二名の計三名が尾形の真向かいに陣取っている。三十代とおぼしき女性たちの顔に、尾形はうっすら覚えがあった。さりげなく一人が抱えていた通勤バッグを確認すると、ブランドの顔にもなっているカラフルな幾何学模様をバックに、デフォルメされたキャラクターのアクリルチャームが揺れていた。間違いない。このアニメの話題でやたら盛り上がった女性客二人組が、数週間前にも訪れていたはずだ。
 もう一人の男性は、会話からすると彼女らの同僚のようだった。こちらも三十代くらいだが、ヒョロ長い体型に眼鏡という以外にこれといった特徴がない。おそらくは初来店。年齢に似合わない七三分けの髪型だけが妙に浮いて見えた。
 七三眼鏡とかわす会話の隙間から、女性たちは何度もチラチラと尾形に視線を寄越す。ぶつけられる視線は、酔いも手伝いあからさまにか粘っこい。好奇と下心が滴っている。もちろん、尾形は気づかぬ体でやり過ごす。黙っていれば見目がいい尾形目当てのリピーター客は、この店の売り上げの三分の一を占めているのだ。(ちなみに、あとの三分の二は、心霊マニアとしてやってきたものの怪異を目撃することは叶わず、代わりにどんな繁忙期でも座れるバーとして重宝がって居着いた客ばかりだった。)
 そして、舌舐めずりでもしそうなアラサーその一、その二、七三眼鏡の並びから一席あけたカウンターのどん詰まりに、最後の一人が陣取っていた。
 年齢が、あきらかに他の三人からは離れた男性だ。四十代くらいだろうか。背は低いが体格が良く、中年の男にしてはめずらしい、がっしりとした体型をしている。柔道でもやっていたのだろうか、と尾形はぼんやり推測する。だが、耳はいわゆる柔道耳ではない。別のスポーツだろうか。その代わりといったらおかしいが、鼻が異様に低かった。けっして醜男ではないが、面相はどちらかといえば凶悪な部類に入るだろう。まとう空気が地味なので近寄りがたくはないが、華がない。
 彼は、他の三名とほとんど会話を交わしていなかった。なんどか「主任」と呼びかけられているところを見ると、彼らの上司らしい。だが酒を飲むのが好きなわけでもなさそうで、一人静かにゆっくりしたペースで飲んでいる。俺は、部下たちに連れられてきただけの「お財布」なので、どうかかまわんでくださいとでも言いたげだ。
 一目見て、放っておいてほしいタイプだと判断した尾形は、彼に好感を持った。喋らず、綺麗に酒を飲む男が、尾形には一番好ましいからだ。
「本当にこの店出るの?」
 七三眼鏡が思い出したように尾形に問いただす。
 尾形は我に返り、首を振った。
「勘弁してください。その話すると、俺はクビになります」
 ええ、それって肯定じゃん、と七三は大声を上げ、おおげさな身振りで女性陣を振り返る。尾形はうっすら微笑みを浮かべるにとどめた。単に笑うのが面倒なゆえの、表情筋の省エネなのだが、この顔をするとミステリアスだなんだと騒がれることも知っていた。女性陣の目の色が変わったのにも気づかず、七三がはしゃぐ。
「どこにいるんですか、え、もしかして今も?」
「ちょっと、やめてくださいよ大島さん!」
「玲子さん、写真、ほらスマホ出して」
 口々に悲鳴をあげたりスマートフォンを取り出したりを始めた彼らを、尾形は醒めた思いで眺めいていた。幽霊なら、お前らのすぐ脇にいるじゃねえかよ、と内心嗤いながら、それをおくびにも出さない。
 酔客たちは、騒ぎながら明後日の方向にカメラを向けはじめた。その騒ぎに気づいているのかいないのか、幽霊はただ俯いて、喧噪の中立ち尽くしている。
 尾形は奥に座る「主任」が気になった。というのも、じつは彼ら四名が来店した際、「主任」だけが何度か店の入り口あたりに目をやっているのを尾形は見ていたのだ。
 彼には、彼女が見えているのかもしれない。
 それとなく男の様子を窺おうとして、尾形はさりげなく奥に目を向け──彼と目が合ってしまった。同時に、尾形はなぜか、その顔から目が離せなくなる。
 山型の険しい眉。その下の三白眼。
 えらの張った輪郭、骨張った顎にひかえめに映える無骨な髭。
 まるで昭和の任侠映画にでも出てきそうな顔立ちしてやがる、と思い、ようやく尾形は、客の顔を不躾にジロジロ見てしまったことに気づいた。
 内心かなり焦ったが、かろうじて取り繕い、かるく会釈をする。そして、誤魔化すように、男に目顔で次のグラスの如何を問うた。
 男は一瞬、虚を突かれたような表情を浮かべ、それから低い声で「じゃあ、同じのを」と言った。
 手早く酒を作り、どうぞ、とグラスを滑らせる。
「お好きなんですか」
 自分から会話をすることなど滅多にないのに、尾形はおもわず問いかけた。
「うん?」
「日本酒がお好きなのかと」
 男が飲んでいるのは、日本酒のカクテルだった。いちおうはこの店の売りでもあるオリジナル・カクテルだ。度数も味も地味で、たいした反響は呼んでいないが。
「ああ、いや、どうかな。でも、旨いもんですね」
 戸惑いがちに答えた声は、凶悪なご面相に似合わぬほど優しい低音で、それを尾形の耳は心地いいと受け取った。さほど大きくないのに良く通る声で、隣で三人が騒いでいるのに、はっきりと聞こえる。
「ありがとうございます。当店のオリジナルです」
 尾形は、男にだけ見える角度に顔を傾けると、かすかな微笑みを浮かべた。滅多にやらない、出血大サービスレベルの顔だ。珍しいこともあるもんだ、と尾形は他人事のように驚く。
 男はまぶしそうに目を細め、尾形をじっと見据えた。
 その瞬きするほどの刹那、男の目の奥に、尾形は虚無を捉えた。
 ――俺と同じだ。
「へえ、そうなんですか」
 男はそう言って、愛想良く微笑んだ。無理のない、完璧に訓練されたつくりわらい。これも、俺と同じだ。尾形の鼓動が早く鳴る。
「カクテルってのは、どれもこれも甘ったるいと思っていたが、これは違う。そこがありがたいです」
「当初は、こちらが売りだったのですが」
 そう言って、尾形は騒ぐ三人のほうにちらと顔を向け、すぐに戻した。
「今は、あちらばかりが有名になっちまいまして」
 苦笑して見せると、男も苦笑いした。
「妙なモンを見たがる人間も、多いですからね」
「あれえ、主任、なに笑ってんすか」
 不意に七三が声をあげる。
「尾形さん、もしかして今主任に幽霊の話してませんでした?」
「ツキシマさんも撮ってみてくださいよ、俺ら全然ダメす」
 口々に会話に割って入ってきた三人組に、ツキシマと呼ばれた男は顔を向ける。
「撮るって、何を」
「だから、女性の幽霊が出るって……説明したじゃないすか、まーた聞いてなかったんでしょう」
 んもう、と女性その一が怒ったフリをする。
「てかツキシマさん、尾形さんのこと怖がらせちゃダメですよ」
 女性その二もツキシマにしかめっ面をしてみせてから、尾形に笑顔を向けた。
「尾形さん、このオジさん、顔は怖いですけど良い人ですからね」
「顔っていや、バーテンさんイケメンすよねえ。女泣かせてそうだなあ」
 七三がそう言ってグラスの中身をぐいと煽る。カーッという芝居がかった溜め息を吐き、頬杖をついた。
「スタイルもいいし、しかも職業バーテンて。絶対モテるでしょう」
「俺、モテたことありませんよ」
 にこりともせずに尾形が返すと、嘘だ、絶対ウソ、出た悪い男だと三人は騒ぎ始めた。
 ツキシマは会話には加わらず、その間ずっと、曖昧な笑みを浮かべて入り口のほうを眺めていた。視線の先は、ひたと幽霊に固定されている。たしかに俺には見えているが、彼らにあえて伝えるつもりはないから安心しろ、というツキシマからの無言の表明と取り、尾形は三人には気づかれぬくらい小さな会釈を、ツキシマだけに返した。
「じゃあじゃあ、彼女いないんですか?」
 さりげないフリで切り出したその二に、七三が「出た!」と相手を入れる。何が出ただよと内心で中指を立てながら、尾形は特大の笑顔を浮かべて彼女らに向けた。ギャップで黙っとけという怨念が効いたのか、女性陣だけでなく七三までもが息を呑むのがわかった。
 ブホッという派手な音を立てて、ツキシマが咳き込んだ。
「え、ちょっと主任」
「大丈夫すかツキシマさん」
 ゲホゲホと咳き込むツキシマに、慌てたように七三が腰を浮かす。ツキシマはそれを身振りで止め、大丈夫だと苦しそうにあえいだ。
「酒、強すぎましたか」
 水の入ったグラスを差し出しながら、尾形はツキシマの顔を覗き込んだ。肩を震わせ、口元を抑え、大丈夫大丈夫と繰り返している彼は、あきらかに笑いを押し殺していた。尾形も思わず笑い出しそうになる。作り笑いを見破られたのは久しぶりだ。爽快だった。
「イヤすまん。ちょっとむせただけだから」
「やめてくださいよ、ああもう、びっくりしたあ」
「歳のせいかなあ、近ごろ嚥下がうまく行かなくてな」
 ようやく落ち着いたツキシマは、尾形の差し出した水を飲みながら参ったなと言って笑った。
「言うてそんな歳じゃないでしょうが」
「頼みますよ、主任抜けたらウチの経理崩壊しちゃうし」
「あ、でも、喉の筋肉って四十代くらいから衰えるらしいです」
 とっさに調べたらしく、スマホの画面を見ながらその二が言った。
 そこに闖入者が現れた。
 チリン、とドアベルが鳴り、店の入り口のドアが開かれる。
 雨が激しく降る音とともに、闖入者が店内に踏み込む。背が低く、透明なレインコートからは大きな水滴がしたたっている。
 尾形が入り口に目を向けるのとほぼ同時に、ドアのもっとも近くに座っていた女性その一が甲高い悲鳴を上げた。その二がスマホの画面から顔を上げる。
 レインコートの主が大股で店内踏み込み、何事かを叫んだ。
 尾形の視界の端に、赤色の線と、鉛色に光る何かが横切る。オールバックにかきあげた尾形の額を強い風圧が撫でる。
 グラスの砕ける音とともに、ゴッという重たい音が響いた。次の瞬間、カウンターに小ぶりの手斧が突き刺さっていた。
 女たちが悲鳴を上げ、一秒遅れて七三が絶叫する。
 金切り声をあげつつ、その一が開け放されたドアから表に逃げ出した。七三とその二が後を追う。
 レインコートの主は、無表情で手斧を引き抜こうとしている。背の低い女だ。赤茶けたボブの髪が、雨に濡れてべったりと生気のない頬に張りついている。その顔に、尾形は見覚えがあった。
「……ミカ」
 呼ばれた名前にミカは反応せず、手斧を引き抜ききる。反動でのけぞったのを踏みとどまり、ふらふらと周囲を見回した。目の焦点が合っていない。ミカはふたたび斧を振りかぶり、意味のない言葉を叫んだ。
「いねアアアアアアア!」
 絶叫とともに斧がブン、ブンと空を切る。そのたび、刃が周囲にガッゴッと当たっては、木くずやコンクリート片が散る。鋭い風が尾形の顔を何度も斬りつけ、酒や欠けたガラスが宙を舞う。
「ぅらあ! らぁ! っらぁああああ!!」
 凶器の向かう先はさだまらず、ミカの足元もおぼついてない。斧の重さに振り回されるかのように、ただめくらめっぽう振り回すせいで彼女に一歩も近づけない。
「ミカさん! やめろ!」
「おがあ! ぁあぁあ!」
 不意に、ミカの視線が定まった。店の奥、呆然と事のなりゆきを眺めて立ち尽くしていたツキシマに向けられる。
 ミカが咆吼を発した。
 狂ったような叫びに店内が震える。キンという耳鳴りのような痛みが耳をつんざき、尾形もツキシマも思わず耳を覆った。人間が発しているとは思えない、まるで超音波のような音に尾形は目を剝く。そして見た。
 幽霊が笑っていた。
 ミカの背後で、あの幽霊が、大口を開けて哄笑していた。
 尾形の背筋が凍りつく。
「ぉおおおおぉまああああえええええええええがァぁぁぁぁぁあッッッ!!」
 絶叫とともに、ミカが勢いをつけてツキシマめがけて走り出した。
「やめろ!」
 本能的に尾形は動いた。カウンターを飛び越え、ミカの膝裏を狙って大きな蹴りを放つ。ミカの体勢がぐらりと揺らいだ。躓いて膝から崩れ落ちるミカの背中めがけて飛びつく。同時に、ツキシマがミカの手首を手刀で弾くのが見えた。怯んだミカの手首を尾形が背後から掴み、きつく締め上げると、ミカはあっけなく手斧を取り落とした。
 カラン、という乾いた音。ツキシマがすかさず手斧を手の届かない場所まで蹴り飛ばす。見事な連係プレイだった。
 尾形は体全体でミカにのしかかると、すこし躊躇してから両手を背後にねじり上げた。ミカは痛みに悲鳴を上げたが、抵抗せずにがくりとうなだれた。
 数秒のあいだ、三人の荒い息が弾む音だけが荒れはてた店に響く。
 ツキシマがハッとした顔になり、店の外に出て行った。
 すぐに、先に逃げたはずの彼の部下たちの声が聞こえはじめる。「通報を」「大丈夫だ」「でも尾形さんは」「いいから、もうお前らは帰れ」そんな会話が、雨音に交じって遠くから聞こえてくる。
 もうミカに抵抗の意志はないようだった。
 尾形は用心深く体をどかしながら、そっと尋ねる。
「……ミカさん、ですよね」
 荒い息とともに、ミカがかすかに頷いた。
「一体なんで」
「わかんない」
 震えるようにミカが囁いた。今夜彼女がはじめて発した、まともな人間らしい言葉に、尾形はどっと安堵する。
「俺がここに勤めてること、いつから知ってたんです」
「さっき」
「は?」
「さっき! ていうか、わかんない! わかんないの!」
 ミカがガバリと顔をあげた。その顔は、当時の華やかな雰囲気こそないが、整っていて美しかった。先ほどの焦点の合わない穴のような目を思い出し、尾形はふたたび戦慄する。
 放心した様子のまま、ミカはぽつりぽつりと語り出した。
「あたし、この近くの会社に勤めてんの。今。そんで帰ろうと思って、電車乗って。総武線。座れてラッキーって、インスタ見てた。そんで……そしたら……」
 気づいたら、ここに。
 そう言って彼女は項垂れた。
「……なんすか、ソレ」
「わかんない」
 反射的に尾形は背後を振り返る。店の入り口付近に、幽霊はいなかった。なんとなしにほっとしたとき、ツキシマが現れた。
「お、無事か」
 まるでなんでもないことのようにツキシマは言った。
「申し訳ありません」
 床にへたり込んだままで、申し訳もクソもねえな、と謝りながら尾形は思う。
「なんでもいい、無事なら」
 そう言いながら、ツキシマは気遣わしげに奥を見遣った。ミカがベソをかいて膝を抱えていた。
「どうしよう、あたし……」
「お嬢さん、怪我は」
 ツキシマが床に伸びている尾形をひょいとまたいでミカに近づく。屈み込むようにミカの肩に手を置くと、彼女はびくりと身を震わせたあと、力なく首を横に振った。

 酒を飲むかという尾形の提案を頑なに拒み、十五分後、尾形の呼んだタクシーに乗り、ミカは帰って行った。タクシーを待つあいだ、誰も口をきかなかった。
「……あの」
 ミカを乗せたタクシーが深夜の飯田橋方面に消えていくのを見送り、店に戻った尾形が言いにくそうに口を開く。
「本当に、なんてお詫びしたらいいか」
 皆まで言わせず、ツキシマはいいよいいよと身振りで応えた。すんません、と尾形は頭を下げる。人に対して心から申し訳ないと思ったのは、久しぶりだった。
「何があったかは聞かないが──」
「俺、昔パパラッチやってたんです」
 反射的にそう答え、尾形は自分でも驚いた。
「パパラッチ?」
「だいぶ前のことです。色々やりました。言うのも憚られる、外道みてえなことを沢山。バチとか、そういうの俺は信じちゃいません。それでもある日、ひでえことやらかして、大勢に迷惑掛けて、業界にはおられんようになりました。自業自得です。ミカさんは──」
 尾形は一瞬息を止め、一気に吐き出す。
「──俺の犠牲者のうちの、一人です」
「……へえ。そうかい」
 哀れみでも軽蔑でもないおだやかな表情を浮かべ、ツキシマはただ尾形の問わず語りを聞いていた。
「警察に通報せずにいてくださって、本当に助かりました。俺も──あ、背広」
 そこでようやく尾形は、ツキシマの背広が酒浸しな事に気がつく。
「弁償します」
 慌てて、「これ俺の連絡先です」と尾形はショップカードに自分の氏名と連絡先を書き込んで渡した。
「こんなボロい背広、安物だし、要らんよ」
「さすがにそれは」
 なおも押し付けると、じゃあと言って、渋々ツキシマは受け取った。そして「俺だけ名前出さないのも気が引ける」と言い、懐から名刺を取り出した。
 手渡された名刺を、尾形はじっと見る。
「月島……さん」
「はい、月島です」
 真面目くさって返事をし、月島は思い出したように話題を変えた。
「しかし、ええと、尾──形さんか。あんた、いい体してるな」
「は?」
 急に何を言い出したんだと驚く尾形に、月島は破顔する。
「さっきの蹴り。カウンター飛び越えたのもそうだが、体幹もかなり強い。相当鍛えてるんだなと思ってな。感心したよ。カメラマンてことなら納得だ」
「そんな大したもんじゃねえですが」
 どういう褒めだよ、今言うことかよと尾形は戸惑う。
「月島さんこそ、あの手刀ヤバかったじゃないですか。刑事かなんかかと思いましたよ……」
「俺はただの格闘技ファンですよ」
「ファンって動きじゃねえでしょうよ。今もなんかされてるんすか」
「学生のころは柔道やってましたけど、今はもう」
 とても体が付いていかんです、と月島は手を振った。
 こんな異常な状況なのに、なんで俺は見知らぬオッサンと世間話をしているんだと内心で困惑している尾形をよそに、月島は仕切り直すように声を張った。
「じゃあ、片付けるか」
「や、それは俺の仕事です」
 尾形が慌てる。
「これ以上のご迷惑は、それこそ俺がクビに……つっても、もう多分クビですが」
「俺はね、尾形さん」
 尾形のぼやきを遮って、月島はまた真面目くさった顔になった。
「家に帰ったって誰もいねえし、休日にすることもない。幽霊の出るバーで謎の女にカチ込みかけられたんだ。最後まで、とことん付き合わせてくださいよ」
 そう言って、カラカラと笑った。
「あ」
「あ」
 同時に二人は顔を見合わせる。
「やっぱ見えてたんすね、アレ」
 尾形が呆れたように言うと、ハハハと月島は頭を掻いた。その横顔に、あの虚無がよぎる。やはり、この人は。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
 胸に湧いた実感を飲み下し、尾形はそうとだけ言い、頭を下げた。
 ――俺と、同類だ。

 *

 数日後、尾形はバーテンの職を無事クビにされた。
 事のあらましを報告する尾形を、オーナーはまるで汚物でも見るように眺めていたが、賠償責任は問わないという寛大な処置を下してくれた。だがその際、月島の連絡先を没収され、決して自分から連絡を取るなと釘を刺された。尾形は素直に従った。
 月島から尾形に連絡が来ることは、その後一切なかった。

1-2.

 月島の日常は退屈だ。
 もっとも、月島本人はそのことを苦にしていない。
 毎朝五時に目ざめ、ランニングに行き、シャワーをあび、前日に買ったコンビニの握り飯三つとインスタントの味噌汁を朝食にして、歯を磨き、身支度を整え、七時四十二分ごろに家を出る。朝の日課は、天候に左右されることも、コースが変更になることもほとんどない。
 月島の勤めるIT関連企業の始業時間は、コアタイムが十時開始だが、彼の所属である総務部にそれは適用されずに九時が定時となっている。月島はほぼ毎日、八時四十五分かっきりに出社する。
 総務部は庶務担当が一名、経理担当が一名、および社長秘書一名、そして統括主任の月島の五名で編成されている。会社全体が百名弱の中小企業だが、外部監査として非常勤の公認会計士がいるほかは、社内事務はこの五名で回さねばらず、業務はなかなかに多忙をきわめる。
 主任である月島は、他の者より一時間ほど遅れて昼食を取る。大抵は午後一時半ころから社外に出て、近所の牛丼屋やファミレス、定食屋などをルーチンで回る。時間がないときはコンビニで買ってきて済ませるか、たまに食べないこともある。決算期などはそういう日も多いが、一度、昼食抜きを五日続けたときに倒れた。退勤間近の午後六時になって唐突に目の前が暗くなり、周囲の声が遠のいた。あわや救急車を呼ばれる寸前に、息も絶え絶えに「腹が減った」と自己申告し、皆に心配させるなとおおいに呆れられた。それ以来、できるだけ食事は抜かないようにしている。
 残業は、最近はほとんどしない。しても一時間程度に納める。たいていは定時に帰るよう心がけている。彼自身は残業を苦にするタイプではなかったし、職位が低いころは夜中近くまで残ることもよくあった。だが役職が上がるにつれ、周囲への配慮として定時退社に切り替えた。これは、若い者に迷惑をかけることを極端に嫌う彼なりの処世術でもあった。
 月島の住むアパートは、名前こそシャトー・リバティなどという英仏混合の豪勢な名前をしているが、つまるところ安普請のアパートに毛が生えた程度の自称マンションである。二階建て、全八室という小規模な物件で、家賃もかなり安い。住所だけは世田谷区であることを鑑みれば、破格の値段といっていいだろう。ただし最寄り駅からは遠く、月島の鍛えた足腰でも十五分はかかった。ここに、月島はもう七年ほど住んでいる。
 月島の部屋は二階のいちばん手前の部屋だ。独身者のための賃貸はどこもそうであるように、入れ替わりはなかなか激しい。隣には、ここ三年ほどは若いサラリーマンの男が住んでいた。二十代なかばくらいの、どこにでもいる普通の青年だが、朝に顔を合わせたことは一度もない。隣の生活音はほとんど聞こえないが、深夜三時すぎにバタンという音がするから、そのあたりに帰宅しているのだろう。たまに日曜の昼などに、あきらかに仕事帰りの格好の彼とすれちがうことがある。忙しいのだろうと、月島はなんとなく推測していた。さらにその隣には、やはり二十代前半のOLが住んでいたはずだが、もしかしたらもう引っ越したかもしれない。一階は、月島の下は半年ほど空き部屋になっている。あとの三部屋は大学生が住んでいるはずだが、顔を合わせた記憶はない。
 駅からの帰り道にはコンビニが三軒ある。月島は、そのうちのどれか一店舗で、夕飯の弁当と明日の朝の握り飯を調達する。気分により、夕飯は近所の蕎麦屋やラーメン屋などで済ませることもある。酒はあまり飲むほうではないが、酒を買って帰ることもある。たいていは発泡酒だが、こだわりはない。
 TVをつけっぱなしにしながら食事を済ませ、夕飯の後始末をし、ベランダに出て煙草を吸う。喫煙行為は本来は禁止されているため、周りをよく窺ってからさっと済ませる必要があった。この時間だけ、月島は思索に耽ることを自分自身に許した。
 喫煙タイムが済んだら風呂に入る。月島の風呂は長い。一時間は当たり前で、ともすると風呂で寝ていることもある。同僚には危険だと窘められるが、そのたび「風呂で死ねるなら本望だろ」と冗談か本音かわからない顔で月島は笑って返す。
 洗濯物がたまっていれば、風呂の前にコインランドリーに行くこともある。歩いてすぐの場所にコインランドリーがある。金のない大学生が、ぽつぽついることほかは、利用者もあまり見掛けない、うらぶれた店だ。近くの本屋で雑誌を立ち読みしたり、新聞を買ってきて読んだり、ただぼうっと腰掛けたりして、洗濯物が仕上がるのを待つ。
 風呂から上がっったあとは、酒を飲んだり、アイロンを掛けたり、TVを眺めたりする。十一時ころにはたいてい床につく。
 これが、月島の日常のすべてである。
 どんなに会社が繁忙期にあっても、あるいは閑散期でも、世間が非常事態に見舞われて天変地異が起きても変わらない。雨が降ろうが槍が降ろうが、月島自身に変わるつもりがないかぎり、このルーチンは回り続ける。生活面だけではなく情緒のうえでも、彼の日常はまったくの凪だった。
 ただ、生きている。
 月島の生活を端的に現すなら、きっとそれがいちばん相応しい。
 そしてそれは、月島の意志によって選択された結果でもあった。

 しかし、月島の日常は唐突に壊れた。



(サンプルここまで。つづく)


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