そのまま



「俺だな」
 尾形から手渡された写真をかっきり五分間、無言でながめたあと、月島から出た第一声はそれだった。
 当然続きがあると思って尾形はしばらく黙っていたが、月島はふたたび手元に視線を落とし、ほう、ほーうと感嘆の声をあげている。
「フクロウかよ」
「んん?」
「いいえ、何でも」
 きまり悪い気持ちを悟られないように、尾形はつるりと額の前髪をなでつけた。いかにも月島らしいいいかげんな褒め言葉なり、素朴で雑な感想なりが来ると身構えていたのに、拍子抜けした。落胆と安堵の宙ぶらりんをふりはらうよう、尾形は咳払いをする。
「そうです。月島さんですよ、ご依頼どおりです」
「うん、俺だ」
 月島は嬉しそうに笑ったかとおもうと、困ったように目をすがめたりしている。どういう感情なのか、まったく読めない。あまりにも俺だ俺だと連呼されるせいで、尾形はなんとなく居心地悪くなる。
「あと多摩川の土手と、曇った日曜の空です」

 *

「お前、もう写真撮らないのか」
 数時間前、月島にそう訊かれた。
 日曜の昼をすこしまわったところで、めずらしく二人とも家にいた。尾形がだらだらとプレイするTVゲームの画面を月島はぼうっと眺めていたが、とつぜんそんなことを言った。
 月島が尾形の核心に触れるようなことを話題に上げるのはめったにないから、尾形は戸惑った。それはどういう意味で、と問い返そうとして、口を開き、閉じた。そして
「色々あるんすよ」
 と答えた。
「色々か」
「複雑なんです」
「まあ、そうなんだろうけど」
「なんです、急に」
 あからさまに不信感を滲ませる尾形に、月島はぼりぼりと顎髭を掻き
「その、お前が撮った俺の写真を、見てみてえな、とか、おもったりして、な」
 言いにくそうに、とぎれとぎれにそう返した。
「イヤです」
「嫌か」
 言ったでしょう、と尾形はつづける。少し苛ついていた。わざわざ面倒くさそうな芝居を強調している自分に、なにに苛立っているんだお前は、と自問自答する。
「俺が写真撮ると、みんな怒るんです」
 金輪際自分を撮るなと言われたことも一度や二度ではなかった。
「でも評価は高いんだろ?」
 たしかに、賞は何度も取っていた。格式が高いとされるコンクールでの上位入賞も果たしてた。それでも、被写体になった人間は皆、そのあと二度と尾形に写真を撮らせなかった。理由は、尾形にもわかっていた。
「ポートレイトってのは、本人に気に入られなきゃ仕事にはならんのです。前にも言いましたけど──」
「お前の写真、俺は好きだけどな」
 ハァ、と尾形はおおげさに溜め息をつく。
「そんなもん、てめえごとじゃないから言えるんですよ。自分がやられたら、誰だって、きっと月島さんだって穏やかじゃいられなくなるでしょうよ」
「そんなもんか」
「ええ、そんなもんです人間なんて」
 あんたには、まだ嫌われたくないんでね、と続けそうになり、尾形は言葉を呑み込む。それは正確ではないような気がした。尾形は、月島に嫌われても平気なのではないかとおもう。今すぐ出て行けと怒鳴られたって、きっと平気だ。
 ただ、自分の写真で月島の顔が凍りつくのは、見たくないとおもった。
 絶対に。
「どうした、急に黙っちまって」
「べつに」
「『ちょっと』か?」
 ニヤニヤ笑う月島が急にうっとうしくなって、尾形はゲームに集中するフリをした。さっきまで首位を独走していたはずの尾形が、気づけばランクの中間くらいに落ち込んでいた。戦況を把握しようと動き出したとたん、あっという間に殺された。復帰してもミスが続き、三連続で高速キルを食らい、尾形はコントローラーを投げ捨てた。
 床に寝転がり、むすりと月島に背を向けて丸くなる。その背中に月島の声が覆い被さる。
「尾形、正式に依頼するぞ。俺のポートレイトを撮ってくれ」
 返事するよりも早く、追い打ちをかけるようにテレビ画面からぽこん、と間抜けな音がした。対戦相手からメッセージが来た音だ。尾形の無様な戦いっぷりを煽った内容だろう。見なくてもわかる。
「嫌です」
 端的に尾形は答えた。
「プロに頼む場合っていくら支払えば良いんだ」
「要りません、俺はプロじゃないし、あんたの写真撮らないんで」
「じゃあ交渉成立だな」
「なにがじゃあなんだよ」
「そうと決まれば外に出るか。明るいほうがいいんだろ?」
「出たよ暴走中年」
「だってゲームは負けたんだろう? ほら、出るぞ」
「負けてねえし、出ねえし、だいたい、あんたそのきったねえ部屋着のまま」
 外出られるわけねえだろ、と言いながら起き上がってふり向くと、月島はいなかった。玄関のドアが閉まる音がした。
「は?」
 おもわずテレビ画面のほうを見る。画面の左上に、さっき届いたメッセージのアイコンが点滅していた。開く。ポコン、と間抜けな音がふたたび響き、画面いっぱいに見知らぬ人間からの言葉が表示された。

well played(上手いじゃんw)

「~~~~ッ!!」
 声にならぬ雄叫びを上げ、尾形はクローゼットの開けた。奥に押し込められたポラロイドを掴む。
 大慌てで月島のあとを追った。

 *

 月島からほら、お前も見てみろと手渡されたポラロイドを、尾形は渋々受け取って眺める。
 部屋着を着た月島が、多摩川の土手にぼんやり立っている。
 体は横を向いているが、こちらに顔だけ向けている。曇天の下、なにがまぶしいのか、すこしだけ目を細めている。
 あらためて月島に追いつき、こんな空模様では光源が足りないと伝えようとして、思い直した。この空は、月島に合うとおもった。
 いつもふたりで散歩している多摩川の土手に行こうと提案すると、月島は快諾した。適当に数枚写して帰ろうと思ったのに、ポラロイドのおもちゃみたいなファインダーを覗いた瞬間、尾形は何度もシャッターを切った。切っていた。
 映された月島は、お世辞にも美しいとは言えない。
 かろうじてグレイとわかるTシャツの首元はでろでろにゆるみ、何年かけて醸造したのかわからない染みがあちこちに浮いている。スエットのズボンは生地が薄くなりすぎて、目を凝らすとトランクスの形が見えてしまう。近年ではめったにお目にかかれなくなった緑色の健康サンダルが悪い意味で似合っている。
 山形の眉の下にある藪睨みの目はからは、重ねてきた苦労と融通の気かなさが見え隠れする。川とも地面ともつかぬ場所をぬぼっと眺めている彼の瞳に光は乏しく、この男の生活が平坦なものであることがよくわかった。引き締まった口元は誠実そうだが、退屈な性格であることも隠せない。
 地味で、平凡で、鈍感なのに繊細で臆病。華などまったくない。
 尾形が切り取った月島基の輪郭は、それを容赦なく暴いていた。
 こんなふうに暴かれて、それをポートレイトに使いたがる人間など、いない。
 尾形は写真から目を逸らした。
 自分のレンズが被写体を射貫いてしまうことには慣れているつもりだった。だが、この写真は少しいつもの尾形の写真と違うようにおもえた。
 月島の体型が浮き出ている瞬間を、自分は切り取ってしまった。尾形はそう自覚して、ひそかに焦った。薄いシャツの下にある厚く盛り上がった筋肉や、下半身の、もっと言ってしまえば股間のゆるやかな膨らみを、浅ましくも刻みつけようとしている。
 こんなことは初めてだった。
 自分の欲望が写真に写り込むなど、尾形にとってはあってはならないことだった。
「尾形、お前、やっぱりすごいな」
 ひとり困惑していると、月島が肩越しに写真を覗き込んでいた。尾形は肩を震わせる。
「な、なんです、急に」
 屈託のなく月島が言う。
「俺の見たくないとこばっかり克明に写しやがって。写真ってのは、残酷なもんだな」
 切り取られた己の姿をしみじみ見つめる月島の眉間にわずかな翳りが発生しているのを認め、尾形の目もつられて暗くなった。
「だから、やめとけって言ったでしょ」
 自分でも気がつかないうちに、尾形は唇を噛んでいた
「あんたが撮れって言ったんだ。撮っちまったもんは、もうどうしようもないです」
「うん、だからさ」
 何が「だから」だよ、と不機嫌に見返すと、月島は困ったような顔で笑っていた。
「見たくないもんばっか見えるのに、これを撮ったのがお前なんだなって思うと、途端に『じゃあまあ良いか』って思えるんだよな、不思議なことに」
「はあ?」
 驚いて月島の顔を見ると、月島も困ったような顔をしていた。
「意外とかっこいいんじゃないかって気までしてくる」
「それ本気で言ってます?」
 呆れてみせると、月島は大口を開けてはははと笑った。
 この人、笑うとすげえ笑顔になるんだよな、と尾形はおもった。いつか、この笑顔まで予感させる写真を、撮ってみたいという願いが胸にきざした。小さく燻る火は熱く、居心地の悪さを咳払いでごまかした。
「月島さん、もう帰りましょう。その格好でウロついてたら職質されちまう」
 ホラ行きますよ、と月島に背を向けて歩き出す。踵を返す瞬間、目の端にちらりと、夕陽に輝く多摩川の水面が目に映った。
「尾形、やっぱお前、写真撮れよ」
 後ろから月島の声が追いかけてくる。
「俺、お前の写真好きだわ」
「こんなひでえ目に遭って、まだそれを言える月島さんのことは尊敬します。俺も、そんくらい太い神経が欲しいです」
「なに照れてんだ」
「いいから帰るぞオッサン」
 通報されんぞ、と憎まれ口を叩く。
 いま振り返れば、地味で、平凡で、鈍感なのに繊細で臆病で、華などまったくないオッサンが、夕陽を背にしょって無邪気な笑顔を全開にしてるのが見られるんだろうな、とおもう。
 なんだかむしょうに可笑しくなり、尾形は声を立ててハハハと笑った。


(了)


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