断篇たち

熾り火

 真夜中。尾形、交代、の声に振り向くと、やってきたのは月島だった。高倉はと新兵の名を出せば、代わったと答える。規律が乱れやしませんかと突っかかるよりも先に、だから内密になと言って月島は笑った。生真面目一本の男が、よりにもよってこの俺相手に秘密とはどういう了見だ。今ごろ談話室では鶴見が親密さという名の熱っぽい嘘を兵士どもにばら撒いている筈で、お側仕えはどうしましたと挑発してみても、飽きたよとけろりと返され更に困る。ねえ軍曹殿。秘密ってのは高くつきますが。解った解った、何が欲しい。大儀そうに応じた月島の目許が、漸く澱んだ。腐れ縁の気安さだけでは無い、渦中に居られぬ者同士の、共犯の。ああ、その目。尾形は歯を見せる。今回はそいつでチャラだ。はァ? 絆されちまうね、どうにも。答えず去る尾形を、月島の声も視線も深追いはしない。これ位だ。尾形はひとり夜に笑う。すれ違いざまの体温。この温さが、俺には丁度良い。

(400字)


 佐渡の海ってのはさぞかし綺麗なんでしょうな。はは、そんな嫌そうな顔せんでください。どうせしばらくは道連れだ。仲良くしましょうや。
 いやね、俺は育ちが茨城でしょう。戦争に行くまでは海なんて見たことがなかった。初めて見た時は多少なりとも心躍りましたよ。まだガキでしたからね、俺にも少しは可愛らしいところがあったわけです。
 だが実際見てみりゃあ、冴えねェ灰色した、ただのでっけぇ水たまりでしょう。ガッカリしましてねぇ。それでもはじめのうちこそ物珍しさでどうにか耐えられたが、ねぇ。けっきょくのところが戦とニコイチみてぇな代物になっちまった上、今じゃその灰色が四方八方を取り囲んで行き場もねェと来た。北鎮部隊だ何だと持て囃されちゃあいますが、正味な話、我々は消耗品でしょう。
 せめて灰色ってだけじゃねェ、もっと美しい面(ツラ)ァ拝んでから逝きてぇ気もしましてね。だから月島さんの知ってる──ははあ、おっかねえ顔。怒らんでくださいよ。今の俺とアンタは、芝居とは言えただの「市民」てやつでしょう、軍人じゃねぇんだ。それとも何ですか、肩書きがなけりゃ俺と口利く義理もねぇとでも……あ、ちょっと。どこに行かれるんで。
 ……あーあ。行っちまったよ、あの堅物。
 なァに本気で怒ってやがんだか。
 ただでさえ味気ねぇ男二人づれの船旅、無聊(ぶりょう)の慰みで軽口叩くだけがそんなに気に食わねェもんかね。オレにさん付けされたのが余ッ程嫌だってか。あんがい、あの人も俗物だったってェ事かね──うおッ、つ、月島軍曹殿。てっきり船室に戻られたのかと──真逆(まさか)、真逆。俺がそんな裏表のある人間に見えますか、心外ですな。ちょっと、聞いてますか──そりゃあ何です? 硝子ペン? ああ、万年筆みてぇなもんですか。随分とまた不釣り合、いや、ハイカラなもんをお持ちで。
 へェッ、こんなに綺麗なんですか、あんたの故郷(ふるさと)の海ってェのは。ははあ、いやはや。コイツは何ですか、水の色がこんなふうに蒼いんですかい? それとも光の関係で……ああ、いや、何でもねェです。あんたに訊いたって詮のな、あ痛て! なんで殴るんです。俺は何も言っとりゃせんでしょうが。
 ったく、何を笑ってやがんだ、人の頬桁張っといて腹の立つ──なんてこった。
 こりゃあ。驚いたな。
 ……ねえ、月島さん。
 あんた、笑えたンですね。

(900字)


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