父と




 夢での目覚めは、いつも唐突に訪れる。
 いつ、という明確な意識の境のない不確かさは、むしろ眠りに落ちると表現した方が正確だろうか。どちらにせよ、この行為の主は、本当は《私》ではないのではないか。すべてが曖昧に溶けてゆく夢と目覚めを幾度も繰り返すうちに、いつしか私はそんなぼんやりとした考えを抱くようになっていた。確たる証拠はない。しかしまた、そうであるならば、茫としたあの場所の訪いを待つ《私》の身体は、その間一体どこをさまようのだろうか。わからない。
 不意に視界が明るくなり、脳の奥にむず痒いような疼痛が走る。いつものように「夢」がふうわりと立ち現れる。
 狩人の「夢」。
 不思議な場所だ。どれほど血に塗れようとも、ここで目覚める私の身体には、染みひとつない。常にかすかな靄がただよい、可憐な白い花々が咲きみだれる静寂の地には、おおよそ現実感というものがなかった。まさに幼き日に見た安らげる夢のように、懐かしく、優しい。それでいてどこかしら不吉な印象も拭えない。それもそうだろう。夥しい血を流し、臓物の匂いを纏わせながら獣を狩る忌み人に、ただ安穏としただけの安らぎなどは、相応しくない。

 人形は眠っていた。近頃《彼女》はよく眠る。あれが眠る理屈も判然としない。しかし私にはどうでも良い事だ。私は狩人、獣を狩る。ただ、それだけ。
 気遣う必要もないのかもしれないが、何とはなしに息を潜めながら彼女の脇を通りすぎ、館に入る。血と肉のこびりついた杖の手入れを入念に行う。
 ようやく獣を狩ることにも慣れた。ここにいる目的も、理由も、過去の記憶すら覚束ない今の私にとって、狩りは唯一の正気の命綱とすらなり始めている。
 ──そういえば、ゲールマン翁はどうしているのだろう。
 ふと気になり、何気なく背後を振り返る。
 水差しの置かれた机の前には誰もおらず、しんとしていた。暖炉の火のはぜる音だけが響く。
 夢では、人の存在もまた不確かだ。人形の言うには、ゲールマンは「今となってはもう曖昧で、姿が見える事も稀」だそうだ。言葉どおりの意味であるなら、姿が見えないというだけで、彼は常にこの夢のどこかに在る者なのだろう。だが、どちらにせよ、彼の形をこの頃とんと見ない。
 ──裏庭にまわってみようか。
 そんな気紛れを起こしたのは、いつ果てるともない広大で陰鬱な森と、狂った病み人達の群れに、多少飽いていたからかもしれない。

 生い茂る白い花たちを掻き分け、裏庭に立ち入る。奥の方で、めざとく私を見つけた洞の使者たちが騒いだ。
 ゲールマンがいた。
 こちらに背を向け、張り巡らされた柵の向こう、夢の彼方を臨むようにして、車椅子の翁は佇んでいた。居眠りをしているようだった。
 その背中がひどく侘しいものに感じられ、思わずそっと背後に忍び寄る。と、私の気配を誰かと勘違いでもしたのだろうか、彼が譫言のように何かをつぶやくのが聞こえた。
「ああ、ローレンス。ひどく遅いじゃないか……。私はもうとっくに、老いた役立たずだよ……」
 ローレンス。聞いた名だ。使い物にならない記憶を懸命に呼び起こし、ようやく大聖堂の祭壇を思い出す。恐ろしい獣と化した白き教区長が、その寸前まで必死に頭を垂れ祈っていた、あの。
 老人の口ぶりからは気安さが伺え、彼にもまた知己があった事を知る。考えてみれば当然の事ではあるが、その事実は私を大いに和ませた。同時に、切なくもなる。あれは、獣の頭蓋だった。
 ──待っていたのか、友を。ここで。
 どのような約束があったにせよ、それは果たされなかったのだろう。
 浅い呼吸に喘ぐ彼の横顔を見つめる。刻みこまれた皺に、積み重ねられた年月を見る。数多の狩人を導いてきたであろう彼の過去に想いを馳せながら、心で問う。
 ゲールマン、貴方は何者なのです。何故、私を導くのです。
「父さん」
 不意に、私はそう呼び掛けた。
 まったく意図したことではなかった。
 発してしまった自分の言葉に、自分の声に、私は酷く動揺した。
 ──父さん?
 突如、どす黒く膨れた醜い肉体の映像が鋭く脳裏をよぎった。
 爆ぜる。
 咄嗟にそう思う。
 知っている。何故だか知らない。しかし私は知っている。
 これは、爆ぜる。
 ねっとりとした液体が飛散し、硝子の棺に。
 皮下に蠢く虫が。
 無数の黒い虫が。
 脹れた紫の舌が。
「違う、違う、やめろ!」
 突然の映像の乱打を振り払おうと、私は大声で叫ぶ。
 遠くで人形がハッと息を呑み、目覚めた気配がした。
 ──何だ、今のは。
 失われた記憶の断片なのだろうか。あまりに忌まわしいイメージの連続は、私を大いなる恐怖に陥れた。
 ──あれが、あんなモノが、私の父だと言うのか。
 激しい動悸を抑えながら、息をととのえ、額に滲んだ汗を拭う。起こしてしまっただろうか、と心配してゲールマンを見遣ったが、彼は眠ったままだった。ほっと胸を撫で下ろすと同時に、喪われた己の記憶を厭わしく感じ始めている自分に気がつき、溜め息をつく。私の過去がどんなものであったとしても、余り良いものではなさそうだ。
 そしてもうひとつ、確信したことがある。
 私は、父を欲していた。
 狩人となって以来、私はゲールマンを心密かに師と仰ぎ、思慕の情を寄せてきた。それは恐らく、このような父が欲しかったという、切なる願いが心のどこかに潜んでいたからなのだろう。

 眠る車椅子の老人の横に、並んで立つ。彼が臨む彼方に目を向けるが、不思議な天の柱のほかに、私には何も見えない。
「ゲールマン先生」
 届かないと知りつつ、語り掛けた。
「貴方が何者であるか、私は知りません。ただ、お許し頂きたいのです。貴方を、父と呼ぶことを」
 ──せめて、この夢のあいだだけでも。
 最後の言葉は、心で付け加える。
 夢の中の夢に微睡む老人は、何も答えない。
 私は、暫くそうして彼の横に佇んでいた。

 少し、そう、ほんの少しだけ、幸せだった。



(了)


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