悪鬼の小屋

 ものを食わなくなった。
 食わねばいずれ死ぬだろうと高をくくっていたのが、まだ生きている。
 いや、死んではならぬ。
 男は大きくかぶりを振る。死ぬわけにはいかぬ。おれには、やることがある。
 腐りかけた小屋の暗がりで、薄く笑みを浮かべる。
 ふと思い出す。
 褪せ人というのは食わずとも死なぬらしい。いつだったか、そう聞いた。
 あれは──そうだ。
 あの時。おれの命が尽きた、あの。唯一の光を失った、あの、あの時。
 褪せ人が、預言者が、あの女が。そう言っていた。
 尋常ならぬ力を発揮しなければならない時だけ、特別にあつらえた肉を食らうのだと。だがそうでもなければ何も要らぬと、女はさも当然のことのように語った。食えば食ったなりに出るから不便なもんだぜと笑ったのは、あれは湖の小島で出会った禿頭の男だったか。魂が朽ちてからは時の感覚も曖昧だ。「今」も、「かつて」も、ここにはすべて共に存在している。
 かつて。
 そう、かつてはどんな陰惨な戦であっても、かならず腹は減った。だから、褪せ人は飲まず食わずどころか眠りにも落ちないのだと聞かされたときは驚いた。己には理解できない感覚なのだろうとぼんやり思いもした。少なくとも祝福ある身のうちは、と。
 兵士達は、みな善く戦い、良く食らった。笑い、歌った。殺戮で猛るほどに、宴で唄う声は高くなった。記憶のなか、戦勝を祝う喧噪の中心で杯を掲げている男の横顔は、もはや自分のものとは思えない。義を重んじる城主エドガーは、もういない──いなかった、最初から。存在と非存在もまた、同じなのだと知った。
 いくら不要とはいえ、休息もなく只管に戦い続けるなど、さぞや厳しかろう。
 労りの言葉をかけたエドガーに、預言者は不思議そうな顔をした。
「呪いを解くためだ、仕方がない。それに、ほかにやることもない」
「呪い?」
 耳を疑い、問い返した。
「祝福が戻ったというのに?」
「ああ、そう──祝福。そうでした」
 預言者は気まずそうに目を伏せた。この女にとって、神の恩寵は呪いに等しいのだと、そのときエドガーは確信した。成る程、そんなだから祝福が褪せたのかと、ひそかに得心した。
「いずれにせよ、私には過ぎた荷です。せいぜい──足掻きます」
 表情の乏しい女は、それきり黙ってしまった。
 いま思えば、残してきた娘の行く末を案じていたのかもしれない
 その通りだ。
 戦う術のひとつも持たぬ少女を放擲し、ノコノコと死に損ないを捜しに来るなど。
「貴公に待ち受ける終焉は、俺だ」
 なにも知らずに呑気なことだと嘲笑う。記憶の中の呪術師は、本物のように見えた。手を伸ばせば触れられそうなほどだ。いや、もしかして本当にいるのかもしれない。おれは記憶に語りかけているのか? それとも現実にかたりかけているのか? もう、わからない。同じ事なのかもしれない。クックッと喉奥から漏れたのは、笑い声というよりは嗚咽に近い。泣くことと笑うことさえ同義だったのだ。「今ここ」と「どこでもない」が同義だとしても何も不思議はない。知らなかった。知りたくなかった。
「せいぜい足掻く──か。ならば、足掻け」
 だらしなくひらかれた口から、ねばつく息が漏れた。
 きっと、おれの瞳の祝福も褪せたのだろうな。不意にそう思った。腐り落ちた小屋で、血走った瞳で、屍肉を捏ね続ける男はもはや人ですらない。混じり者よりも穢れている。はあはあと息だけで笑う。涎が顎を伝うが、流れるに任せた。霧の湖の西には悪鬼が出ると噂が立っていることを、男は知らない。

 何人殺そうが、一向に腹は減らない。
 いくらでも肉は手に入るというのに。
 勿体ないなあ、こうしてやろう。
 調子の外れた声がそう言うのを聞いた。
 夜だ。遠くの森から幽かに聞こえる歌声は、老婆の顔を持つ化鳥のものだ。それとも、あれは死んだ兵士達だろうか。
 この飢えは、渇きは、食餌では治まらぬ。
 屠れと声がする。おれの声だ。
 肉はいくらでも手に入るから、すべて捏ねて団子にした。
 贖いさえも腐臭を放つ朽ちきったこの小屋で。
 失った光は二度と戻らない。

 

fin.


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