見えない月(部分)

 父は厳格な人でしたから、と魔剣士は言った。
「戦うことをしない学者という存在は、世界の重荷にこそなれ、誰のためにもならない。だから必要ない。それが父の考え方でした。ことによると私は、そんな父の世界を変えたくて、学者の道を志したのかもしれません」
 植物を選り分けながら、ロジェールは独り言のように語る。夜の焚き火に照らし出された端正な横顔には笑みが浮かんでいるが、それはどこか寂しげで、疲れているようにも見えた。視線は手元に注がれており、その先には色とりどりの植物が乱雑に並べられている。どれも皆、昼間に採取されたものだ。下処理され、薬鉢に放り込まれてすり潰されるのを待っている。
 いったい、問わず語りはこの男の癖なのだろうかとDはいぶかしく思う。


 *


 ロジェールと名乗る魔剣士と出遭ったときは、面倒な奴が現れたと思わないでもなかった。
 特殊な事情を抱えるDにとって、旅の同行者など本来あまり歓迎すべきものではない。にもかかわらず彼を受け入れる気になったのは、剣士としての技量もさることながら、その幅広い見識に心底、感心させられたからだ。
 魔術を得意とする者というのは、得てして変わり者が多く、このロジェールも例に漏れず相当の変人ではあった。なにせ小川のほとりで休んでいたDをひと目見るなり、
「その鎧は面白いですね!」
と大きな声で語り掛けてきたのだから。黄金と白銀が絡み合う双児を象った鎧、その奇妙な見た目について、大抵の者は正面から問うたりしない。そのくせ、隠し果せぬ好奇心に忠実な視線だけが、ちらりちらりと胸飾り周辺を舐め回すように這う。
 狭間の地に着いたばかりのころは、神話の地にあってさえ、人の本質は変わらぬのかと大いに落胆したものだ。けれど近ごろはそれにも慣れて、かつての有様に戻っただけよと割り切るに至った。
 そこへ来ての一声だった。あまりに不躾な態度は、Dを呆れるよりも驚かせ、わずかながら嬉しくもさせた。
 少しの会話を交わしたのち、目的地が同じであることを知った。気がつけば、魔剣士ロジェールはDの隣を歩いていた。そうしてもう二十日ほどが経つ。


 *


 行けども行けども廃墟ばかりの不毛の地で、夜は魔の領分だ。
 Dの単独行であれば多少無理してでも先に進むことが多かったのだが、ロジェールはそれに反対した。褪せ人に休息は不要と考えるDに対し、休息は誰にでも必要だとロジェールは主張した。
「動き続ければ、必ず見落としが生まれます。使命ある者にこそ、備えとして休息は必要なのです」
 言いつのる彼の必死さは不自然にも思えたが、考えてみれば急ぐ旅でもない。Dは折れ、余程のことがないかぎり夜は野営する取り決めとなった。
 周囲を警戒し、遠慮がちに小さな火を熾す。Dが狩った獣を解体する傍らで、ロジェールは薬草だの虫の死骸だのを調べるのが常だった。焚き火のはぜる音、山から吹き下ろす風が草を鳴らす音のほかは静寂が支配する時間帯に、ロジェールはときおり自分のことを話した。ほとんどは他愛のない話題――好きな食べ物について、それがなぜ好きなのか、とか――だったが、最近は狭間の地に来る前のことを話すようになっていた。
 Dは返事らしい返事をほとんどしなかった。ロジェールの過去にとくだん興味があるわけでもなかったし、何よりロジェールがそれを求めているようには思えなかったからだ。
「でも結局どっちつかずで、魔術を究めることさえできなかったのです。学究には武の道も必要、なんて口では言っていましたがね。剣の腕を磨いたのは、たぶん本当は、少しでも弟に近づきたかったから。そんな気がするんです。とくに最近は」
 絹の手袋を嵌めた手で、ロジェールは赤い葉の葉脈だけを器用に取り除いていく。その手際はじつに鮮やかで、Dは兎の毛皮を剥ぐ手を止めて束の間、その動作に見入った。昼間、大きな岩の陰でこの赤い葉の植物をみつけたDに、それはアルテリアの葉ではないとロジェールは慌てたように制止した。よく似ているが、有毒だから気をつけろ、と。でも毒薬にはなりますから丁度良い。採っていきましょう。ロジェールは笑顔でそう提案した。
「父は、弟をことのほか可愛がっていました。兄の私から見ても、よく出来た人だった。強い戦士で、数多くの武勲も上げていた。一族の誉れといってもいい。それなのに、なぜ黄金樹は私などを――」
 そこまで言って、ロジェールは不意に口をつぐんだ。
 浅黒い肌が、焚き火を反射してなめらかに光る。
 唾広のとんがり帽子にぶら下がった星飾りが瞬いている。
 袖口に施された刺繍は銀糸だろうか。
 どこを切り取っても貴族の出で立ちだ、とDは思う。
 何不自由なく育ったのだろう。唾を吐きかけられることも、足蹴にされることも、暇つぶしに嬲られることもない生を送ってきたに違いない。それでも、血を分けた者への憧憬や父への愛憎を捨てられぬものか。いかに恵まれた生まれであっても、ままならなさは俺とそう違わぬのかもしれん。
「神の地とて、人の本質は変わらぬか」
 ひとりごちたDに、ロジェールが不思議そうな顔を向けた。
「何かおっしゃいましたか」
「いや。こちらのことだ」
 気まずくなり、Dは顔を背けて兎の解体作業に戻った。痩せた腹に小刀の切っ先をあてがう。こいつは食いでがないなと思いながら、一気に引き裂いた。
「俺にも弟がいてな」
 そんな言葉が聞こえた。誰が喋ったのかと思えば、それはD自身の口だった。意図したものでなかったとは思えぬほど、滑らかで自然に流れ出た。自分に驚いて口をつぐむ。ロジェールが、ほうと声を上げた。
「あなたにもご兄弟が」
 なんだか意外ですねと屈託なく笑うロジェールに、Dは突然、羨ましさと憎らしさを同時に感じた。そして、そんな己を恥じた。
「すまない。今のは忘れてくれ」
 兎の内臓をかきあつめながら、Dは素っ気なくそう言って強引に会話を断ち切った。兎の臓物は、その貧相な体から流れ出たとは思えないほど大量にあった。はい、とにこやかに微笑む魔剣士の気配を感じながら、Dはなにげなく夜空を見上げる。
 大きな銀色の満月が一瞬姿をあらわし、掻き消えるように見えなくなった。なんだか黄金樹の輝きに恥じ入ったようだと、唐突にそんなことを思った。

(続く)


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