ねえ、それから?

「それで、ビルボはどうなったんだ」
 ハックスが慌てたようにそう問い掛けたのは、いっこうに寝ようとしない恋人に業を煮やしたレンが、最後の手段に手を伸ばした、まさにその瞬間だった。
「……誰だって?」
 いまだ裸のままのレンとは対照的に、すでにバスローブを羽織り、ぐしゃぐしゃになったシーツに横たわるハックスを、物憂げに振り返る。
 またぞろ引き延ばし作戦に出てきたことは百も承知だが、その声に混じった懇願の響きを感じとり、つい仏心を出してしまう。
「ビルボ。ドワーフの」
 昨夜の「お話」の続きを催促されているのだと察したレンは、思わず「勘弁しろよ、まだ続けるのか?」と天を仰いだ。
「それに、ドワーフじゃない。ホビットだ」
「ああ、ホビット! とにかく小人だろ。トロールに囲まれて、それから? 食われたのか?」
 三歳の子ども相手ならまだしも、ハックスは三十三歳のおっさんだ。何が悲しくて、激しいセックスの後に架空の夢物語を語って聞かせてやらなきゃならない。こんなことになるなら、下手に寝物語など始めるべきではなかったと、レンは今更ながら後悔しきりだった。
 薬を飲みたくないハックスと、どうしても寝かせたいレンの攻防が生んだこの習慣は、すでにかれこれひと月ほども続いている。初めのうちは、どうせ寝るのを先伸ばしにするための方便で、話の内容などまともに聞いていないだろうとたかをくくっていたレンにとって、ハックスの熱心さは予想外のものだった。
「あんた、なんでそんなに薬を嫌がるんだ。頼むから寝てくれ」
「別に嫌がってるわけじゃ……いや、薬はたしかに嫌いだが……」
 そう。
 薬嫌いとは別に、どうやらハックス将軍は、小さなホビット、ビルボ・バギンズの冒険のゆくえが気になって仕方ないらしいのだ。
 レンは大きなため息をつく。
「じゃあ、区切りの良いところまでな。それで眠らなかったら、ちゃんと薬飲めよ」
 その言葉にハックスの目がキラリと輝いたのを目ざとく見てとり、レンはもう一度深くため息を吐いた。
「じつは、ビルボには秘策があったんだ。それは──」
 幼い日の記憶をたどり、レンが訥々と語りだす物語に聞き入るハックスの顔は、本人は気づいていないだろうが少年そのものなのだ。
 おそらく、とレンは語りながら考える。彼の生来の顔はこちらに近いのだろう。内向的な性向を強烈な意思の力でねじ曲げ、折り伏せ、そして今の彼がある。幼い頃に彼が取り上げられ、あるいは自ら封印してきたものの大きさを思うと、胸が疼く。
 香水、ピアノ、そして小説。
 いま彼が愛してやまないものも、彼は決して表には出さない。だから周囲には、将軍は知的財産には興味がないとまで思われている。
 そうした演出が、権力には必要不可欠なのだと、いつだったか彼は自嘲ぎみに口にしていた。
 いっぽう俺は、とレンは自分を省みる。何不自由ない暮らしで、人に愛され、囲まれ、夜には必ず寝物語がある生活を送ってきた。そして、それをどこか疎んじていた。こんな出自があるから、俺は悟りの境地に至れないのではないか、と。
「“よくも俺たちを騙したな、ビルボ。もう堪忍ならねえ。お前を今からひとのみに……”」
 ──俺には、こんな作り物の「お話」の記憶など、必要ないと思っていたのに。
 今、目の前でレンの腕に頭を預け、レンの口から語られる言葉を熱心に聞くハックスの顔を見る。その目は、もはや此処を見てはいない。この世界のどこでもない、中つ国を飛んでいる。
  ──俺には、不要かもしれない。でも、彼には……。
「──そうして、ビルボは無事に逃げおおせましたとさ」
「へええ、そうなるのか」
 目を丸くするハックスに、レンは小さくキスを落とす。
「そうなるんだよ。トロールに食われかけた話は、これでおしまい。……面白かったか?」
「ん、まあまあ」
 憎まれ口をたたく彼の顔は、けれど興奮でキラキラしていて、きっとあの日、この話を聞いたレンの顔とそっくりだったに違いない。
「じゃあ、ちゃんと寝るな?」
「んー」
 生返事を返すハックスに、ん、とレンが先ほど中断された儀式──レンが薬を口に含み、ハックスに口移しで与える──を促す。ハックスは渋々ながらもそれを受け入れた。小さな白い錠剤が、縺れる舌のあいだを流れていく。やがて、ハックスの白い喉がこくんと上下する。観念したように目を瞑る恋人の頭の下に、レンは自らの腕をあてがった。
「ビルボの旅は、まだ続くんだろ?」
「……ああ、そうだな。──気になるか?」
「……」
 続きは、また明日。
 囁いた声は、眠りに沈んでいく恋人に届いたかどうか。
 レンはサイドテーブルの灯りを落とすと、静かに目を閉じた。