[2]. 翳った寝室

  たしかに瘤は小さくなったが、レンのつけた噛み痕からはいつまでも血が流れ続け、熱で脹れた頬を器用に伝い、ぼたぼたと床に垂れた。
 ハックスの歩く後には、点々と赤い花が咲いた。そこらを飛び回る清掃ボットが、そばからその鮮やかな朱を刈り取って行く。しまいにはボットを従えて歩いているような形になり、私室に辿り着くまでの間、ハックスを大いに閉口させた。

  プライベートエリアに入るなり、後ろ手にドアをピシャリと閉める。閉められた扉にぶつかり、弾かれた清掃ボットが憐れなエラー音を発するのが微かに聞こえた。
 やっと一人きりになれた。
 安堵で緊張が緩む。途端に、ずく、と顔の右半分が疼いた。燃えるように痛み、思わず声を上げる。
 すぐにでも治療ユニットを呼ぶべきなのだろう。しかしハックスは、づくづくと突き上げるように暴れ回る痛みに耐えながら、代わりにバスルームに向かった。
 戸棚を開き、巨大な消毒用アルコールの壜を無造作に取り出す。いまだ血の溢れる傷に躊躇なく中身を振りかける。閃くような激痛に、思わず口からは苦痛の叫びが漏れた。それでも彼は手を止めない。傷口に医療用パッドを宛がい、乱暴にテープを貼りつけ、ワセリンを刷り込む。慣れた手つきは、幼い頃から彼が同じ作業を繰り返してきたことを物語っていた。
 やがてグロテスクに変形した右半分の顔面が、白い包帯とパッドに覆われ尽くすと、ハックスはようやく汚れた制服を脱ぎ始めた。すべてを脱いでしまうと、投げつけるようにダストシュートに放り込む。
顔をあげる。
 曇りひとつない鏡に、痩せた己の裸身が映っていた。己の体をハックスは他人のもののように冷ややかに観察する。
 露わになった全身の膚には、やはり青黒い痣や切り傷、鬱血の痕が無数に浮かび上がっている。苛まれた痕跡はどれも、某(なにがし)かの刻印であると自ら主張するかのように姦(かしま)しい。
 身体じゅうに擦りつけられた体液や汗がベタついて不快だった。内腿には血と精液と胃液がどろどろに混じった混合物の名残が乾いてこびりつき、反吐の出るような臭いを放っている。
 シャワーを浴びたかった。が、この出血量では叶わない。
 隣の保温棚から、常備している大判の蒸しタオルを取り出すと、ハックスは無表情のまま、淡々と肉体を清め始めた。

  なにか聞こえた気がして、ハックスは薄く目を開く。
 照明を落とした寝室は真っ暗だ。
 耳を澄ます。
 バスルームは綺麗に片付けたはずだ。蛇口から漏れる水の音だろうか。
 今は何時だ。そろそろ医療ユニットを呼ばないと、明日の仕事に差し支えるかもしれない。
 顔の右側は、まだ燃えるように熱い。思考の半分すら奪われたようで吐き気がする。
 シャワーに入りたい。
 断片的な思考が散らばり、やがてひとつの違和感に収斂していく。
 ──“聞こえた”?
 傷を癒すために眠るとき、ハックスの寝室は完全に密閉される。だから全くの無音、全くの闇だ。その完全な闇の中、ハックスはベッドの下の硬い床で眠りにつく。いや、眠りといえば聞こえは良いが、その実態は全身が緊張に張り詰めた、いわばスリープモードでしかない。侵入者などあろうものなら、全身の毛が逆立ち、即座に臨戦態勢に入るだろう。
 しかし、いま寝室には微かだが光が差し込み、なにか生き物の気配さえ感じられる。にも関わらず、自分はまったく警戒していない。
 つまり。
「レン」
 からからに乾いた喉からは、ひどく掠れた声しか出なかった。けれどそのか細い声は、気配の主には届いたらしい。おおきな動物が緩慢に身動ぎするような、面積の広い体温の塊がのっそり動き、衣擦れの音が頭上から響く。
 続いて、うう、と唸る声。
 やはり、レンだ。
「俺のベッドで勝手に眠るなと言っただろう」
「まえにいっしょに床で寝たら、あんた怒っただろ」
 眠そうではあるが、それでもきっちりした話し方をレンはした。
「そもそも、他人の寝室に無断で侵入している自覚はあるのか」
 ううーんと伸びをする気配と共に「電気」と間抜けた声がして、寝室に薄く照明が点る。
「勝手に点けるな」
 無駄と知りつつ、いちおう抗議する。こいつ、音声認証に自分の声まで登録しやがったな。一体いつの間に。訝しく思うが、指摘する気にもなれない。
「無断じゃない。無断ならそもそも、あんたのエリアには入れない」
「屁理屈ばかり言うな」
「そっちこそ」
 言い合っても埒があかない。冷たい床から身を起こすと身体じゅうがバキバキと鳴り、あちこちが痛みで悲鳴を上げた。あまりの痛さにほんの少しだけ顔が歪んだのを、レンは目ざとく見つける。
「さっさと医療ユニットを──」
「五月蝿い、今から呼ぶ」
 邪険に答えてハックスはベッドの上にやっと目を向ける。
 ほの明るい照明が、我が物顔で寝転ぶレンの姿を浮かび上がらせていた。全裸にシーツを巻き付けている。眠るとき、こいつはいつもこうだ。呆れるハックスの顔の、半分を覆う白い包帯には、血や黄色い体液が滲んでいた。はだけたバスローブの隙間からは傷だらけの青白い肢体が覗く。それを目の当たりにしたレンは、渋面を深くした。
「風呂」
 ぶっきらぼうに単語だけを放り出し、寝室から出ていこうとするハックスの背に、レンが被せるように声をかける。
「なら俺も一緒に──」
「殺す」
 扉がバタンと閉まった。

 さして時間もかけずにシャワーから戻ったハックスの表情は、いくぶんさっぱりしたものになっていた。医療用パッドのお蔭か、顔の腫れもだいぶましになっている。
「まだ、体からあの屑の匂いが」とぶつくさ言いながらベッドに腰かける彼の膚には、バスローブに吸収されきらず残った水の玉が散っていた。汗ばむ胸乳──と言うのはおかしいのだろうか、なんせ彼は男だ──にすかさず鼻面を擦り付けたレンが、スウと息を吸い込む。
「百合」
「はあ?」
 怪訝な顔をするハックスに構わず、レンは続けた。
「松。生姜。あと……月下香」
「……それは、ボディソープだ」
「あとはあんたの──ハックスの、におい」
「……」
「良い匂い」
「……もういい」
「何がいいんだ、俺はただ良い匂いしかしないって」
「だから、わかったから」
 まだくんくんと鼻をひくつかせるレンの頭を乱暴にどけ、ハックスはどさりとベッドに身を横たえる。
「お前、もう寝ろ」
「うん。けど」
「ユニットも呼んだ。もうすぐ到着する」
 それだけ言って目を瞑るハックスの隣に、レンも寄り添った。が、すぐに上半身を起こし、せき込むように言う。
「そうだ。レルゲン、殺してないぞ」
 如何にも、俺偉いだろうとでも言いたげに誇らしげな顔をしたレンを、ハックスは胡散臭そうに見上げる。
「何をした」
「三十秒ちょっとだけ生身のまま宇宙空間に放り出して、すぐに戻した」
「ほう」
 で? とハックスの目が促す。それだけでこいつが満足するわけがない。やはりというか残念ながらというか、レンは一瞬目を泳がせたのち、にへ、と笑ってあっさり白状した。
「それを、少し繰り返した」
「“少し”。正確には?」
「……五回くらい」
 ということは、あの眼鏡野郎の細い身体は今頃、数倍に膨れ上がっていることだろう。恐らくはハックスの顔面なんかより、ずっとひどく、ブクブクに。
 唐突に宇宙に放り出され、訳もわからぬうちに戻され、それが幾度も繰り返されてパニックに陥る細身のインテリ長髪眼鏡の姿を思い浮かべる。
 ハックスは堪えきれずに吹き出した。
「お前、容赦ないな……」
 眉尻を下げて静かに肩を震わせるハックスに、レンも釣られて吹き出す。
 二人してクックッと笑いあったあと、レンはどすんとマットレスに身を投げ出した。横を向き、ハックスの右瞼の小さな穴をそっと撫でる。レンの歯で穿たれた其処は既に埋められてはいたが、まだぼこりとした痕をとどめていた。こりこり、と爪で掻けば、ハックスはやめろと身を捩ったが、レンの手を退けようとはしなかった。
 弾みに、ハックスのバスローブの前が大きく開く。
 骨ばった薄い体に、赤黒く盛り上がった無数の傷痕が散らばる。それらがハックスの肉体に予め刻み込まれた奇妙な暗号のようにも思え、レンの腰骨の内部がじんと疼いた。
 肉体の奥からじわりと欲が染み出す。
 慌てて目を逸らすと、ハックスが小さく「ヤるか?」と呟くのが聞こえた。
「いや、いい」
「俺は──構わないが」
 冷たい掌が、熱をもたげはじめたレンの股関をすうと撫でる。その仕草に、嫌悪は感じられない。自然だった。
 不意に哀しみを覚え、レンはやんわりとハックスの手を自分の両の手で包む。
「いい。それより、休め」
「お前が、遠慮するようになるなんてな」
 苦笑する気配に、そうじゃない、と否定しかけて、やめる。彼も本気で言っているわけではない。彼なりの礼の言い方なのだろう。
 返事をする代わりに、レンはハックスを抱き寄せる。もうじき医療ユニットが到着するだろうから、その分のスペースは腕のなかとは言え空けておく必要がある。そんな計算をしながら、顔の傷を痛めぬようそろそろと引き寄せ始めた矢先、ハックスは自らレンの胸に飛び込んできた。
「おい、傷に障るぞ」
 慌てるレンの言葉を塞ぐように、薄い唇が吸い付いた。血の味がレンの口の中いっぱいに広がる。
 甘い、と思った。
 背中に回された腕が、きつくレンを抱き締める。しがみつくように。 レンも、優しくハックスの背を撫でる。宥めるように。
 ドアの外では、医療ユニットの電子音が遠慮がちに到着を告げていた。



→3.「夜明け


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