[1]. 狩りと食餌

白黒と直線で構成された無機質な空間が、不意に乱れた。人工的に浄化された空気には相応しくない、幽かな異臭を鼻が捉える。レンは顔を上げた。
ひとすじの赤い匂い。血の、匂い。
またあいつか、と思う間もなく、男が一人、無言で入室してきた。
背筋を伸ばし、傲然と顎を上げ、まっすぐ正面だけを見つめている。その端正な顔の右半分が赤黒く腫れ上がっているのを、レンは遠目から認める。きっちり撫で付けられた赤い髪は鬢のあたりがほつれ、ばらりと顳(こめかみ)に落ち掛かっている。唇の端が切れ、まだ乾ききらない赤い血がねっとりと蟠る。目蓋は腫れて盛り上がり、毒々しい紫に変色していた。左側の傷ひとつない陶磁器のような白い肌との対比が異様で、まるでどちらも造り物であるかのようだ。
まじまじとレンに見詰められても、男は顔色ひとつ変えない。無表情のまま、レンには一瞥もくれずに傍らを通り過ぎて行く。磨き抜かれたブーツの踵が、旗艦の硬い床を踏みしめるたび、笏々(こつこつ)と甲高く鳴った。
開き直れば、誤魔化せるとでも思っているのだろうか。レンは彼の強張った横顔を凝と注視する。それが、この男の小賢しさであり、浅はかさだ。
「待て」
待てと言っても待たないことは知っている。だから通り過ぎんとするまさにその瞬間、肩に手を掛け、無理矢理に引き留めた。
「離せ」
対して男は動じず、レンに顔も向けない。相変わらず前を向いたまま、応じる声は底冷えするほどに無感情だ。
「誰にやられた」
「何の話だ」
怒気を孕んだレンの言葉にも、にべもない。
「記憶を覗くこともできるんだぞ」
「御随意に」
「ハックス!」
苛立たしげに声を荒げるレンに、男はようやくぎろりと視線だけを送った。
「何度言わせる気だ、レン」
マスク無しには外も歩けぬ小僧が、と言外に侮蔑が滲む。
「貴様には関係な──」
言い終わらぬ内に、レンがマスクをかなぐり捨てた。ごとりと重い音を立て、奇態な仮面が床に転がる。
随(ずい)、とレンの黒く武骨な戦闘靴が、ハックスの黒革のブーツの間に割り入る。肩に手を掛けたまま、レンはハックスの口の端に流れる生乾きの血を、舌を伸ばして素早く舐め取った。ハックスの瞳が、ほんの僅かに見開かれ、そしてすぐに暗く翳る。
「──何の、真似だ」
「黙れ」
掠れた声でレンは遮り、更に大きくべろりと頬を舐めた。不気味な凹凸を見せる赤黒い肌が、唾液でてらてらと光る。青黒い果実のように膨れた目蓋に、レンは白く光る鋭い犬歯を当てた。
「痛むぞ」
つぷりと音を立てて、レンの歯はハックスの柔らかな目蓋の皮膚を裂いた。ハックスが痛みに小さく身動ぎする。穿たれた小さな昏い穴から、黒い蜜がとろりと溢れ出すと、レンは紅い唇を開き、凝固しかけの血液を丹念に舐め取った。
「犬め」
「何とでも呼べ」
「美味いか、犬」
「ああ、美味いよ」
唇をすぼめ、ぢゅうと音を立てて吸い出す。腥(なまぐさ)い血は、けれど蕩けるように甘く、レンは夢中で啜った。
「レン」
遠く喚ぶ声に、ひたすらハックスの蜜に淫していたレンの意識は、現実に引き戻される。
「もうやめろ。人に見られる」
うんざりしたような声で我に返り、ようやく唇を離す。瞼の腫れは、いくぶんましになっていた。
「レルゲンか。あの、下衆狸」
唇にべったりとこびりついたハックスの血を手の甲で拭いながら、レンは凶暴な笑みを浮かべる。普段から彼を小物と嗤って憚らないくせに、肉体にはご執心という訳か。
「読んだのか」
心を読まれたと勘違いしたハックスが、不快そうに顔を歪める。この程度のこと、読心術を使うまでもない。所有印のように付けられた傷口のあちこちから、あの中年の脂ぎった性欲と自意識の匂いが滲み出ている。
「違う。他の奴は誤魔化せても、俺の鼻は欺けないだけだ」
「やめろ。私は承知であの男と──それに、その」
そこまで言って、その先を今さら言い淀むその小心が、レンには可笑しい。愛おしい。
「スノークか?関係ないね。俺の機嫌を損ねた罰だ」
「お前、いい加減に……」
「諦めろ。あんたは狂犬を拾った。最後まで面倒を見るしかない。でなきゃ──」
次に食い殺されるのは、あんただぞ。
美しい形の耳朶に唇を寄せて囁く。
憐れな飼い主は心外そうに鼻を鳴らし、諦めたように首を振って立ち去った。
レンは晴れ晴れと笑う。
さあ。狩りの時間だ。



→2.「翳った寝室


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