リトル・トラブル・イン・リトル・チャイナ

  無茶苦茶な時間に振られた仕事をどうにか片付けて、倒れるように布団に潜り込んだのは午後の4時を回った頃だった。
 ──や、やっと寝られる……。
 心地よい安堵をともなった解放感とともに、心置きなく眠りに沈み込んで行こうとした、その矢先。
 枕元のスマートフォンが大きな音を立てて震えだした。
 グオオとかヌオオとかいう叫び声をあげながら反射的に着信に出る。
 相手が誰かと確認する暇もなく、画面の向こうから聞きなれた大音声が叫んだ。
「ちょっと、ベン!」
「ふぇ……れ、レイ……?」
 バイト先で俺に唯一声をかけてくれる同僚のレイだった。
「え、今日おれ、シフト入って──」
「ちーがーうー! この人、なんとかして!」
 仕事中なのか、彼女の背後はガヤガヤと賑やかな人の声がしている。
 フライドライスひとつ上がったぞ!とがなる胴間声は、恐らくシェフのジャックだ。
「このひと?」
 まだ覚醒しきっていない頭を振り振り、掠れた声で問い返す俺の言葉に被せるように、レイはさらにデカい声を張り上げた。
「この赤毛のお兄さん! あんたの彼氏でしょ?ずーーーっと居座ってクダ巻いてんの!」
「……え、なんで、アーミが」
「知らないわよ、んなこたあ!いいからとっとと回収しに来て!! 邪魔なの、じゃ! ま!」
 言いたいことだけ言ってあっさり切れた電話を手に呆然とした俺は、それから取るものもとりあえず、大慌てでバイト先へ向かった。
 そう言えば、仕事に夢中で気が付かなかったが、日曜だというのに朝早くから出ていったアーミテイジがいまだに帰ってきていない。普段は出かけるときは一言、何時ごろ帰ると言い置いていくのに。
 なんとなく嫌な予感がした。

  馴染みの小汚ない店の、いつもなら裏口から入るところを今日は正面から入る。安っぽく点滅するネオン看板の「龍黒瀦 DRAGON OF THE BLACK POOL」の文字を横目で見ながら、どんなに磨いても曇ってしまう年季の入った自動ドアを通り抜ける。
 果たして我が恋人は、店の厨房に続く通路脇の、二人がけの小さなテーブルに、崩れるようにして座っていた。
「アーミ!」
「あ、来た」
 俺が声をあげるのとほぼ同時に、カウンター奥からレイが俺に手を振る。
 客の波は引いたのか、電話をもらったときとは打って変わって店内は閑散としていた。電話口で、レイは“クダを巻いてる”と言っていたから、てっきりアーミテイジは泥酔でもしているのかと思ったが、見たかぎりそんな様子はない。ただ、ぶんむくれているのは確かだった。その証拠に、店内に入ってきた俺に、気づいているのに一瞥もくれていない。
 テーブルの上には青島ビールの瓶が一本載っているだけだ。白いシャツ、程よく色落ちしたジーンズ(これが700ドル越えだとは信じがたい)、くたびれたコンバース。俺の黒いNINパーカーを羽織っているのは、出掛けに手近にあったやつをひっかけたんだろう。下りた前髪がくしゃくしゃなのと、シャツが若干ヨレているのを除けばいつものアーミテイジだ。
 ……いや、違う。
「……アーミ、泣いてたの?」
 俯いているので見えづらいが、目元がちょっとだけ赤くなっている。こすった痕だ。
 俺の声に、アーミテイジはぷいと横を向いた。
「ど、どうしたの」
 アーミテイジが泣く──しかも外で──なんて、よっぽどのことだ。
 俺はオロオロと彼に歩み寄った。
「なにか、あったの」
 しかし彼はぎゅっと目を瞑って、さらに俺から顔を背けただけだった。
 来るときに感じていた嫌な予感が大きく膨らむのを感じる。
「ベン、ちょっと」
 不意に、アーミテイジの背後からレイがぬっと現れた。さっきまで迷惑だから持って帰れと怒っていたはずだが、なんとなく、その怒りの矛先は今、俺に向いているように感じられた。
 冷や汗が流れる。
「レイ、あの、ごめん」
 迷惑かけて、と言い終わる前に、バシン、とレイがテーブルに手をついた。青島ビールの瓶がガタと浮く。
「──あんた、反省してんの?」
「ヒエッ」
 ドスの効いた低い声に、思わずびくりと身が竦む。
「な、なんの話──」
「トボけても無駄!」
 レイはじとっとした目で俺を睨んだ。
「あんた、ハックスさん苛めたでしょ」
 ヴッと声が漏れる。
「な、なんの話……?別に、俺はいじめたわけじゃ」
「黙らっしゃい!」
「イジめただろうが!」
 もう一度レイがテーブルを叩くと同時に、それまで黙っていたアーミテイジが、キッと顔を上げた。小柄なレイの後ろに隠れるようにしてるのが、なんかちょっとムカつく。レイが言う。
「ベン、先週ハックスさんと『ヘレディタリー/継承』観に行ったんでしょ」
「ヴッ」
 やっぱり、それか!
 俺はだらだらと汗を流す。マズい。とてもマズい。
「その後、彼にナニしたの?」
 掬い上げるようにレイが俺を見た。その鋭い眼光に、俺は思わず目を逸らす。
「べ、別に。ただじゃれてただけで」
 ジョークだよ、と言い訳がましくつぶやいた途端、アーミテイジが喚き散らした。
「なにがジョークだ! あんなもん嫌がらせだろ! イジメだ、イジメ! DVだ!!」
「ちょ、人聞き悪いこと言うな──」
「“コッ”」
 突如レイが口から妙な音を立てた。
 上顎に舌をくっつけて勢いよく弾いて鳴らす、こどもが良くやるやつ。
 その途端、アーミテイジがギャア! と叫んで飛び上がった。その目尻には涙が滲んでいる。
「や、やめろ、レイ」
「ああ、ごめんごめん」
 初対面のはずの二人が何やらすでに旧知の仲みたいに話していることに、俺は目を剥く。結託されている。ヤバい。
「ベン、あんた最近、唐突にこの音立てるんだって?」
「そ、それは──」
 言いよどむ俺。レイが腕を組む。アーミテイジが追い討ちをかけるように言った。
「寝起きに耳元で“ザサス”“サトニー”って囁いてきたよな」
「グッ」
「ベッドヘッドに“ペイモン”て落書きした」
「ヌッ」
「朝起きたら、首を内側を折った状態で足元に膝まずいてた。しかも全裸」
「ギエッ」
「それだけじゃない」
「え」レイが呆れたように俺を見る。「……まだあるの?」
 アーミテイジはこくんと頷いて、俺をまっすぐ指差す。完全に「せーんせいにゆってやろー」のノリだ。クソ、不利すぎる。
「夜中に息苦しくて目が覚めたら、レンが俺の上に乗っかって“ギーコギーコ”(婉曲表現)してた」
「グワーッ」
「ハアアア?!」
 ギョッとしたように驚き、レイはアーミテイジと俺の顔を交互に眺めた。首をふりながら言う。
「あたしもあれ観たけどさ。さすがに、怖がりの彼氏にそれは、酷いよ。てか、惨(むご)い」
「ご、ごめんて……」
 俺は弱々しい声で謝る。実は、昨夜もベッドに入る直前、それでちょっと揉めたのだ。いい加減にしろといつになく真剣に怒るアーミテイジに、俺も反省して真摯に謝った。けれどアーミテイジの怒りは収まらず、そこで急な仕事が入ってしまったせいで喧嘩は中断していた。
 というか、俺は解決したと思い込んでいた。レイの手前言い出しにくかったが、怖がるアーミテイジがあまりに可愛くて、調子に乗ってしまった。
「ほんと、ごめん……ごめんなさい」
 殊勝な態度で、心から謝った。心底悪いと思っていたから、結構必死だった。 
「もうしません。許してください。……アーミ、ごめんね」
 そう言ってぺこりと頭をさげる。
 アーミテイジは片眉をつり上げ、片目だけでこっちを見て、ケッと吐き捨てるように言った。
「信用できない」
「そんなあ!」
 完全に拗ねモードに入ってしまっている。怖がりの恨みは恐ろしいから、下手したら一週間くらい許して貰えないかも──そんな絶望的な感触に、俺は思わずあわれっぽい声を上げた。
「ねえ、ごめんってば、アーミ! 許してよお」
「やだ」
「こら!」
「痛で!」
 バシン、と音がして、俺は思わず顔をあげる。アーミテイジが自分の頭を抑えて、情けない顔でレイを見上げていた。俺は唖然とする。
「駄々捏ねないの!」
 くわっとレイが一喝する。
 アーミテイジはぶーたれた顔をしたまま、それでも渋々俺の方に目を向けた。
「んー」
「んー、じゃないでしょ、“許す”でしょ」
「んー」
 んー、んー、と唸りながら、アーミテイジは唇をへの字に曲げ、やがてぼそりと「ゆるしてやる」とつぶやいた。
「へっ」
 臍を曲げたらまず戻らない、あのアーミテイジが。
 そんな、いとも容易く。
 俺はぽかんと口を開けた。
 そんな俺におかまいなく、レイはニコッと笑うと、いまだ椅子にずりかかるようにして座っているアーミテイジを片手で無理やり立ち上がらせた。か、怪力だ。
「はい良かったね、仲直り!」
 そう言いながら、アーミテイジの手をぐいぐいと引っ張って俺の方に持ってくる。呆然としている俺の手もむんずと掴むと、
「あくしゅ!」
 宣言して、ほぼむりやり握手させた。
 ──あのアーミが、初対面の、歳下の、女子の言うことを聞いている……?
 信じられない思いでレイを見るが、彼女はニコニコと笑みを浮かべたまま俺たち二人を強引に腕組みさせ、店の入り口まで押して行った。
「あ、いや、レイ、その──」
 迷惑かけてごめん、と言いきる前に、俺たちは店の外に放り出されていた。
 ドアが閉じる直前、ドスの効いた低い声が
「二度とやるなよ」
 と言った気がした。が、聞き返す前にドアは閉じ、気づけば俺はアーミテイジと腕を組んだ状態で寒空のチャイナ・タウンに放り出されていた。
 目の前で「龍黒瀦 DRAGON OF THE BLACK POOL」のネオンが忙しく点滅する。アーミテイジが隣でぼそりとつぶやいた。
「……帰るか」
「あ、うん」
 ぎこちなく頷く。
「アーミ、あの」
 歩き出した彼を慌てて追いかけ、ぎゅっと手を握る。彼は拒絶しなかった。
「本当にごめんね」
「……べつに」
 もういいよ、とそっぽを向く彼の鼻が赤い。気がつけば、外はすっかり暗くなっていた。
「それより、レイに迷惑かけちまった……」
 アーミテイジが珍しく落ち込んだように言う。
「今度きちんと詫び入れて、飯でも奢らないとな」
「うん……そうだね……」
 閉まるドアの向こう、チラリと見えたレイの顔を思い出す。満面の笑みを浮かべていたが、その目は微塵も笑っていなかった。
 俺はハア、と深いため息をつく。ただのからかいのつもりが、ずいぶん大きな代償になってしまった。恋人を深く傷つけ、同僚の時間と労力を奪い、俺は睡眠時間と信頼を失った。

  教訓。
 人が嫌がることを、やってはいけません。