彼の猫

  将軍は、猫を飼っているらしい。
 そんな噂がまことしやかに囁かれるようになったのはいつからだったか。
 名前はミリセントというらしい。赤毛の、将軍の髪と同じ色らしい。発信器を取り付けた首輪をしていて、しかもその発信器はカイロ・レンに付いているのと同じものらしい。
 噂は噂を呼び、誰も見たことのない猫はその情報量だけを増やし、いつしか存在を確かなものにして行った。そんなふうに記憶している。
 俺はといえば、はじめて噂を聞いたときは、さして気に止めなかったように思う。同僚が猫を飼っていようがいまいが、仕事に差し支えはない。
 けれど彼を知り、深入りし、やがて寝室に出入りするようになると、そこでようやくことの真偽が気になり出した。
 生き物を飼うにしてはあれの神経は細く、脆すぎるようにも思える。だが、動物にだけは心を開くのだと言われれば、そうかもしれないとも思う。
 さっき俺は、「誰も見たことのない猫」と言った。そう、俺ですらないのだ。
 彼の部屋で猫を見かけたことはなかった。一度も。
 直接尋ねてもみた。けれど彼は不可思議な笑みを浮かべて「お前はどう思う?」と質問に質問で返しただけで、あとはお決まりの流れで有耶無耶にされた。
 つねに清潔に保たれた部屋は、生き物とは縁遠い。獣の毛一本、あるいは動物の世話を連想させるような道具すら見当たらない。
 だから順当に考えれば、それはただの噂なのだろう。なぜそんな噂が立ったのか不思議ではあるが、猫など存在していないと考えるのが妥当だ。
 が、しかし。
 たった一度だけ、俺はその猫の存在を感じたことがある。

 その日、俺はいつものように彼を抱きかかえてうつらうつらしていた。
 何をしても自然には眠れない彼が、薬によってもたらされた人工的な眠りに沈むのを見届け、ようやく俺も自分に眠ることを許した頃あいだった。互いの発した熱でとうに飛んでしまった、香水のわずかな残り香を惜しむように愉しみながら、重い身体の気だるさに意識を放り投げようとした、まさにその時。
 なにかが剥き出しの脛に触れた。
 ふさふさだった。
 いったいいつの間に布団に潜り込んだものか、ソレは俺と彼の絡まった脚の隙間にするりと収まる。その動きには一切の迷いがなく、やり慣れた当然の行為をしているだけという、ある種の図々しささえ感じられて、逆に俺の方が闖入者であるかのような引け目を感じたほどだ。
 暗闇で何も見えないはずの俺の目には、しかしその時、はっきりと見えたのだ。
 赤毛の小さな獣が、俺たちの脚のあいだに丸まり、アーと愛嬌のある欠伸をひとつして、安心しきって眠りにつく、その姿が。
 同時に、彼が彼女の存在をぼかして答えた理由も理解する。いま少しでも身動きしたり、あるいは確かめようと手を伸ばせば、彼女は消えてしまうだろう。口にしてしまえばオカルトじみた状況だが、俺にはそれが事実であることが直感的にわかっていた。
 そして俺は、ただ素直にそれを受け入れた。
 ──本当にいたのか。
 純粋な驚きと、鼓動に波打つ小さな腹の温みを感じながら、いつしか俺は眠りに落ちていった。
 とても穏やかな眠りだった。

 翌朝、彼女は消えていた。当然のように。
 シーツをめくってじっと己の脚を見つめる俺に、隣の彼は特別なことは何も言わなかった。
 ただ、寝起きのあまりよくない彼にしてはめずらしく、微笑みを浮かべて小さくキスをしてきた。その笑みが、まるで「な?」とでも言いたげに意味深に見えたのは、気のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 妙にうれしげにじゃれついてくる彼は、気まぐれで機嫌の良い猫のようにも見えた。